第10話 教師、白百合の香りに顔をしかめる
エミリア・ロゼ教諭は、翌日の文学の授業でいきなり婚約の話を始めた。
唐突だった。
いや、唐突に見えるだけで、本人の中では筋が通っていたのだろう。
黒板には、古典恋愛詩の一節が書かれている。
『誓いは花冠に似て、結ばれた時には美しく、ほどく時には指を傷つける』
詩的である。
かなり詩的である。
そして昨日の相談内容を知っている者にとっては、だいぶ胃に来る一文だった。
人類はどうして重要な話を花に例えたがるのか。花の側も迷惑だろう。咲いただけで婚約やら純潔やら死別やら背負わされる。植物に謝れ。
教室には、いつもより妙な緊張があった。
白百合会の面々は、明らかにロゼ先生の意図を察している。
リリアナは背筋を伸ばしているが、指先は少し震えている。
クラリスはノートを開いている。
マチルダは黒板と手元の紙を交互に見ている。
セシルは余裕の顔をしているが、扇を握る手が硬い。
エステルはいつものように厳しい目で前を見ている。
そして私は、教室の少し後方で、嫌な予感に満ちた沈黙を守っていた。
ロゼ先生は教卓の前に立ち、黒板を指した。
「本日の題材は、古典詩人ルカ・ヴェルノの婚約詩です」
何人かの生徒が顔を上げる。
婚約。
その言葉だけで、教室の空気が少し動く。
貴族の学園において、婚約は単なる恋愛の話ではない。
家。
財産。
相続。
名誉。
政治。
本人の感情。
そして、だいたい本人の感情が一番軽く扱われる。
人間社会は重要なものほど本人から遠ざける癖がある。謎の設計思想である。
「皆さんは、この詩を恋愛詩として読むでしょう」
ロゼ先生は言った。
「もちろん、それで構いません。文学はまず、そう読めばよい」
そこで一拍置く。
「ですが、今日は別の読み方をします。婚約とは何か。誓約とは何か。そして、誓いをめぐる言葉は、誰のためにあるのか」
教室が静まる。
私は思った。
ああ、この人、本当にやる気だ。
文学の授業として婚約制度を扱う。
白百合会のためだけではなく、学年全体に向けて。
政治的ではないふりをして、実に政治的な授業である。
教育とはだいたいそういうものだ。中立の顔をした刃物。まともに使えばよく切れる。雑に使うと指が飛ぶ。
「まず質問します」
ロゼ先生は生徒たちを見回した。
「婚約とは、誰と誰の約束ですか」
すぐに手が上がった。
伯爵家の男子生徒だ。
「家と家の約束です」
「よろしい。では、当人同士の約束ではありませんか」
男子生徒は少し戸惑った。
「当人も、もちろん含まれます」
「含まれる。では、中心ですか」
教室がざわつく。
なんて嫌な質問だ。
含まれるが中心ではない。
貴族社会の結婚をよく表した言葉である。人間を添え物にするな。
男子生徒は答えに詰まった。
ロゼ先生は責めずに続ける。
「家同士の約束である婚約に、本人の意思はどの程度含まれるべきでしょうか。今日はこれを考えます」
白百合会の面々が少し息を呑む。
投書主のことを思っているのだろう。
私も思っていた。
まだ名前を知らない令嬢。
婚約者から、白百合会をやめなければ婚約破棄すると言われた子。
彼女は、今この教室にいるのだろうか。
もしかしたらいる。
名前のない声が、同じ空間で息をしているかもしれない。
私は教室を見渡した。
誰かが怯えた顔をしていないか。
誰かが目を伏せていないか。
探してしまう。
探すな。
探されたら、その子は余計に怖くなる。
善意の視線ほど、時々乱暴なものはない。見つけてあげたいという欲望は、見つけられたくない人間には狩りに見える。
私は視線を黒板へ戻した。
「ヴェルノの詩に戻ります」
ロゼ先生は詩を読み上げた。
「誓いは花冠に似て、結ばれた時には美しく、ほどく時には指を傷つける」
美しい一節だ。
しかし、ロゼ先生の声で読むと、美しさよりも棘が立つ。
「この詩は、婚約を祝福する詩として社交界ではよく引用されます。ですが、本当に祝福だけでしょうか」
彼女は黒板に二つの語を書いた。
『花冠』
『指を傷つける』
「美しさと痛みが、同じ比喩に含まれています。なぜでしょう」
クラリスのペンが走る。
私は少し横目で見た。
今日の彼女は、いつものように語録を拾っているのではない。
授業として、問いを書いている。
それだけで少し安心する。
ロゼ先生は生徒を指名した。
「クレイン嬢」
エステルが立ち上がる。
「花冠は、誰かが誰かのために編むものだからだと思います。見た目は美しくても、編む側の指には棘が刺さることもあります」
よい答えだ。
ロゼ先生は頷く。
「では、婚約における棘とは何ですか」
エステルは少し考える。
「本人の意思と、家の都合の違いです」
教室が静まった。
かなり踏み込んだ。
さすがエステルである。
ためらいが少ない。
いや、ためらいはあるのだろう。
あるが、言う。
そこが強い。
男子生徒の一人が小さく鼻で笑った。
聞こえた。
セシルの扇が少し動いた。
刺す気だ。
だが、ロゼ先生が先に言った。
「笑った者がいますね」
教室が凍る。
男子生徒が固まる。
ロゼ先生は淡々と続ける。
「文学の授業では、他人の解釈を笑う前に、自分の解釈を提出してください。笑いは、しばしば知性の欠席届です」
強い。
かなり強い。
セシルが扇の陰で満足そうにした。
やめなさい。あなたも似たような武器を使うでしょう。
クラリスのペンが走りかける。
ロゼ先生が見た。
「メイフィールド嬢」
「は、はい」
「今の言葉は、私の語録ではありません」
「……はい」
教室に小さな笑いが起きた。
クラリスが真っ赤になる。
私も少し笑った。
良い注意だ。
この先生は、白百合会の癖をちゃんと見ている。
「では、続けます」
ロゼ先生は黒板に新しい問いを書いた。
『誓いを盾にする時、誰が傷つくか』
私は背筋が冷えた。
これはもう、完全に昨日の投書への応答だ。
ただし、個人を晒していない。
授業として広げている。
うまい。
そして怖い。
「婚約という誓いは、時に人を守ります」
ロゼ先生は言う。
「家同士の関係を安定させ、将来を保証し、本人を不安定な立場から守ることもある」
ここで一方的に婚約制度を悪にしない。
それが重要だった。
白百合会の中には、婚約を抑圧として見始めている子もいる。
だが、婚約が唯一の安全である子もいる。
家から出る道。
生活の保証。
政治的な保護。
愛はなくても、安定がある場合もある。
現実は美しくないが、単純でもない。
人間の制度はたいてい、誰かを守りながら誰かを縛る。厄介な縄である。
「しかし、誓いは脅しにもなります」
教室が静まる。
「この誓いを失いたくなければ、従え。
この婚約を守りたければ、黙れ。
この家との関係を壊したくなければ、自分の希望を捨てろ」
言葉が落ちるたびに、教室の空気が重くなる。
誰かが小さく息を吸った。
投書主かもしれない。
違うかもしれない。
探さない。
探すな、私。
「このとき、誓いは花冠ではなく首輪になります」
ざわめきが走った。
首輪。
貴族の教室で使うには、かなり強い言葉だ。
ロゼ先生は、あえて使った。
「では、誓いが首輪になった時、どうすればよいか」
彼女は生徒たちを見回した。
「答えは一つではありません」
その言葉に、私は少し安心した。
この人は、答えを配らない。
問いを立てる。
それは、時々とても残酷だ。
だが、必要だ。
「婚約を破棄すべき場合もあります。
話し合うべき場合もあります。
第三者に相談すべき場合もあります。
家族に伝えるべき場合もあります。
逆に、急いで動かないほうがよい場合もあります」
マチルダが真剣に聞いている。
こういう現実的な分岐は、彼女の領分だ。
「重要なのは、自分が何を恐れているのかを知ることです」
ロゼ先生は黒板に書いた。
『失うのが怖いものは何か』
「婚約者本人を失うことが怖いのか。
家の評価を失うことが怖いのか。
将来の生活を失うことが怖いのか。
自分が悪いと責められることが怖いのか。
それとも、自分で選ぶことが怖いのか」
最後の問いは、かなり痛い。
私にも刺さった。
自分で選ぶことが怖い。
それは、投書主だけの話ではない。
アルヴィンにも、レオンハルトにも、ガレスにも、たぶん私にも刺さる。
選択は自由の形をしているが、同時に責任の刃でもある。
人類は自由を求めるくせに、いざ渡されるとだいたい怯える。仕様が矛盾している。返品したい。
「では、次に皆さんに書いてもらいます」
ロゼ先生は紙を配らせた。
「題は、『誓いが脅しに変わる時』。名前は書いても書かなくても構いません。提出は任意。授業内で読む場合は、本人の許可を取ります」
教室が揺れた。
任意。
匿名可。
本人の許可。
これは、ことば箱の応用だ。
ただし、教師の管理下にある。
白百合会ではなく、授業として。
私は、ロゼ先生が白百合会を助けながらも、白百合会だけに抱えさせないようにしていることに気づいた。
この問題は白百合会だけのものではない。
学年全体の問題だ。
婚約は、全員に関わる。
白百合会が相談を受けたからといって、白百合会の物語にしてはいけない。
ロゼ先生は、その危険を授業でほどいている。
すごい。
嫌な先生だが、すごい。
生徒たちは書き始めた。
私も紙を見た。
『誓いが脅しに変わる時』
何を書くべきか。
私はペンを持ったまま、しばらく動かなかった。
婚約。
誓い。
脅し。
私にとって、一番近い誓いは何だろう。
王太子との婚約候補?
公爵令嬢としての家名?
白百合の君という呼び名?
お姉様という役割?
前世の記憶?
ゲーム知識?
私は、ふと気づいた。
私にとって一番怖い誓いは、誰かに強制されたものではない。
自分で自分に課したものだ。
私は、彼女たちを支配しない。
私は、中心に立たない。
私は、お姉様を降りる。
美しい誓いだ。
だが、それを盾にして、助けるべき場面で黙ったなら?
その誓いは、脅しになる。
自分に対する。
そして他人に対する。
私は紙に書いた。
『誓いが脅しに変わる時。
それは、かつて自分を守るために決めた言葉が、今度は目の前の人を見ない理由になる時だと思う。
私は、中心に立たないと決めた。
けれど、その決意を守ることに酔えば、私は助けを求める人を見捨てるかもしれない。
誓いは必要だ。
だが、誓いを守る自分を美しいと思い始めた時、その誓いはたぶん少し腐る。』
書いてから、嫌になった。
重い。
授業の答案としてどうなのか。
だが、名前は書いた。
エリシア・フォン・クラウディア。
逃げる気分ではなかった。
授業の終わり、ロゼ先生は希望者だけの提出を求めた。
多くの生徒が迷っていた。
提出する者、しない者。
私は提出した。
白百合会の面々も、それぞれ提出したようだった。
セシルは少し嫌そうな顔で紙を出していた。
あの顔は、かなり自分に刺さることを書いた顔だ。
あとで読みたい。
いや、読む権利はない。
人間は他人の内面を覗きたがる。創作者の悪癖である。自制しろ。
授業後。
ロゼ先生が私を呼び止めた。
「クラウディア嬢」
「はい」
教室の生徒たちがちらちらこちらを見る。
また叱られるのか、と思っている顔だ。
実際、叱られる可能性は高い。
私は先生の前へ行った。
「あなたの答案」
「はい」
「少しは自分の面倒くささを理解してきたようですね」
褒めているのか?
たぶん褒めている。
すごい言い方だが。
「ありがとうございます」
「礼を言うところではありません」
「はい」
ロゼ先生は紙を軽く振った。
「これを授業で匿名の例として扱っても?」
私は少し驚いた。
「私のものだと分からない形で?」
「もちろんです」
私は考えた。
自分の言葉が歩く。
まただ。
けれど、今回は教師の手で、授業の中で、匿名で扱われる。
それは私の語録になるのとは違う。
たぶん。
いや、本当に違うのか。
分からない。
分からないが、この問いは他の生徒にも必要かもしれない。
誓いを守る自分に酔う危険。
それは私だけのものではない。
「構いません」
私は言った。
「ただし、必要以上に美しく整えないでください」
ロゼ先生は少しだけ笑った。
「あなたの文章は、すでにやや美しすぎます」
「うっ」
「ですが、まあ、扱えます」
痛い。
この先生は、毎回ちゃんと刺してくる。
「それから」
ロゼ先生は声を落とした。
「匿名投書の件ですが、白百合会へ回答を預けます。本人が望むなら、私の研究室に来るよう伝えなさい。名乗る必要はありません。最初は手紙でも構いません」
「ありがとうございます」
「礼は代表から受け取ります」
「はい」
私は頷いた。
その時、先生の視線が少し鋭くなる。
「クラウディア嬢」
「はい」
「あなたは、この件を自分の修行に使わないこと」
私は息を止めた。
ロゼ先生は静かに言う。
「自分がどれだけ支配欲を抑えられるか。どれだけ正しい距離を保てるか。どれだけ白百合の君を降りられるか。そういう自己確認の材料にしすぎないことです」
何も言えなかった。
完全に見抜かれている。
私は、投書主の問題を見ながら、自分の距離感の修行にもしていた。
それは完全に悪ではない。
自分を点検するのは必要だ。
でも、相手の苦しみを自分の成長の鏡にしすぎると、それもまた略奪になる。
昨日言われたばかりなのに。
もうやっていた。
人間、忘れるのが早すぎる。
「……気をつけます」
「気をつけるだけでは足りません」
「では?」
「周囲に言いなさい。自分がそうしそうだと」
私は少し笑った。
「支配欲の報告、でしょうか」
「妙な言い方ですが、そうです」
セシルの言葉が、まさか教師に採用された。
最悪だが、使いやすい。
「分かりました」
私は頭を下げた。
教室を出ると、リリアナたちが待っていた。
セシルがにやにやしている。
「叱られましたの?」
「はい」
「やっぱり」
「嬉しそうですね」
「ええ」
隠さない。
この女。
「何を叱られたのですか」
リリアナが心配そうに聞く。
私は一瞬迷った。
だが、ロゼ先生に言われたばかりだ。
言え。
私は息を吐いた。
「この件を、自分の修行に使いすぎるな、と」
リリアナが目を瞬かせる。
「修行?」
「私がどれだけ中心に立たずにいられるか。どれだけ支配欲を抑えられるか。そういう自己確認の材料にしてはいけない、ということです」
セシルが真顔になる。
クラリスがペンを構えかけ、止めた。
偉い。
マチルダが静かに言った。
「確かに、私たちも似たことをしているかもしれません」
「似たこと?」
「投書主の相談を、白百合会がどれだけ成熟したかの試験のように見てしまう危険です」
痛い。
全員が黙った。
リリアナが紙を握る。
「私は、代表として正しく対応しなければと思っていました」
彼女は言った。
「でも、それは、その方のためというより、白百合会が間違えないためだったかもしれません」
エステルが頷く。
「私も、会の方針を考えることに意識が向いていました。本人の気持ちよりも」
クラリスが小さく言う。
「私は、議事録にどう残すかを考えていました」
セシルが苦笑した。
「私は、その婚約者をどう刺せばよいか考えていましたわ」
「それはやめなさい」
「分かっていますわ」
白百合会、全員少しずつ危ない。
でも、危ないと分かるだけ、まだましだ。
たぶん。
「では」
リリアナが顔を上げる。
「次の会で、最初に確認します。この件は、白百合会の成長を示すためのものではない、と」
マチルダが頷く。
「記録にも明記しましょう。個人が特定されないように、そして成功例として扱わないように」
クラリスがペンを取る。
「書きます」
「美しくなく」
私が言うと、クラリスは真面目に頷いた。
「美しくなく」
セシルがふっと笑った。
「不思議ですわね。美しく書かないことを、こんなに真剣に誓うなんて」
「誓いが脅しにならないように」
リリアナが言った。
全員が少し沈黙した。
授業が効いている。
よいことだ。
だが、これもまたロゼ先生の言葉が歩いているということだ。
言葉は歩く。
歩かせるしかない。
問題は、その足元を時々見ることなのだろう。
放課後の白百合会では、ことば箱への回答が作られた。
投書主に向けたものだ。
何度も修正された。
強すぎる言葉は削られた。
美しすぎる言葉も削られた。
曖昧すぎる言葉は具体化された。
具体的すぎて特定につながる言葉は伏せられた。
最終的に、こうなった。
『投書を受け取りました。
あなたが白百合会をやめたいわけではないこと。
婚約破棄が怖いこと。
婚約者を好きかどうかも分からなくなっていること。
その三つを、まず大切に扱いたいと思います。
白百合会は、あなたの代わりに勝手に婚約者や家と戦いません。
また、白百合会を続けることをあなたに強制しません。
やめることを選んでも、あなたを責めません。
今できることとして、次の選択肢があります。
一、匿名のまま、ことば箱で相談を続ける。
二、エミリア・ロゼ先生に手紙で相談する。
三、ロゼ先生の研究室で、名前を伏せたまま話をする。
四、婚約の段階や契約内容について、一般的な知識を得る。
五、すぐに結論を出さず、自分が何を怖がっているのかを整理する。
あなたの人生を、白百合会の物語にはしません。
あなたが選ぶための材料を、一緒に探します。』
最後の一文は、リリアナが書いた。
クラリスは最初、少し詩的な表現に直そうとした。
だが、自分で止めた。
よく止めた。
その回答は、ことば箱の横に封筒で置かれた。
宛名はない。
『婚約について投書された方へ』
それだけ。
誰が取りに来るかは分からない。
取りに来ないかもしれない。
それでも置く。
白百合会は、待つことを覚え始めていた。
待つ。
これは、本当に難しい。
救うより難しい。
正しい言葉を投げるより難しい。
人間は待つのが苦手だ。すぐ結末を欲しがる。物語に慣れすぎている。現実はそんなに章末で区切ってくれない。
その日の夕方。
私は廊下でアルヴィンに会った。
彼は白百合会には出席していない。
本当に距離を置いている。
ただ、私を見つけると声をかけてきた。
「婚約の件はどうなった」
「待つことになりました」
「待つ」
「ええ。本人が次にどうしたいかを」
アルヴィンは少し考える。
「難しいな」
「難しいです」
「私は、王太子として介入すべきかと考えていた」
「殿下」
「分かっている。今はしない」
彼は少し苦笑した。
「だが、考えたことは伝えておく」
「支配欲の報告ですか?」
「そうなるのか?」
「たぶん」
「なら、そうだ」
王太子が支配欲の報告をした。
人類史に妙な一行が増えた気がする。
「私も、介入したいと思いました」
私は言った。
「公爵家の名で黙らせたくなりました」
「君らしい」
「褒めていませんね」
「半分は」
「残り半分は?」
「危うい」
「でしょうね」
アルヴィンは静かに言った。
「もし本当に必要になったら、言ってくれ」
「王太子として?」
「ああ」
「アルヴィン個人としてではなく?」
彼は一瞬黙った。
それから頷いた。
「王太子としてだ」
よかった。
少しずつ、彼は役割と欲望を分けようとしている。
完璧ではない。
でも、それでいい。
完璧な成長ほど嘘くさいものはない。人間はだいたい三歩進んで二歩半戻る。効率が悪い。だが、進んでいないわけではない。
その夜。
ミーナが紅茶を淹れてくれた。
今日は少し香りが違う。
「茶葉を変えた?」
「はい。お疲れのようでしたので、少し穏やかな香りのものに」
「ありがとう。おいしいわ」
ミーナは嬉しそうに笑った。
私はカップを手に、窓の外を見た。
夜の庭に、白い花がぼんやり見える。
百合ではない。
たぶん別の花だ。
でも、もう白い花を見ると少し身構えるようになってしまった。
完全に職業病ならぬ白百合病である。ひどい病名だ。
「お嬢様」
「何?」
「今日は、少し落ち着いておられますね」
「そう?」
「はい。昨日より」
私は少し考えた。
「待つことにしたからかもしれない」
「待つ?」
「ええ。助けるでもなく、見捨てるでもなく、待つ」
ミーナは少し頷いた。
「それは、難しそうです」
「とても」
「でも、お嬢様は最近、難しいことばかりなさっています」
「好きでやっているわけではないのだけれど」
「そうでしょうか」
私はミーナを見る。
彼女は少しだけ笑っていた。
「お嬢様は、困った顔をなさりながら、少し楽しそうです」
「あなたまでそれを言う」
「はい」
私はため息をついた。
「人間が面倒なのは嫌いよ」
「はい」
「でも」
紅茶の水面を見る。
「面倒なものを面倒なまま扱うのは、少しだけ面白い」
ミーナはにこりとした。
「それは、よろしいことなのでは?」
「たぶんね」
たぶん。
まだ分からない。
その頃、王都の礼拝堂では、ミリア・アストレイがまた新しい噂を読んでいた。
『白百合会は、婚約者に脅された令嬢をすぐには救わず、本人の選択を待つことにしたらしい』
今回は、少し正確だった。
だが、ミリアの目には別の光が宿る。
「待つ救済……」
彼女はうっとりと呟いた。
危うい。
待つことまで救済の一部にする。
だが、ミリアは止まらない。
彼女は日記を開く。
『白百合の君は、手を伸ばせる力を持ちながら、あえて待つ。
それは相手の自由を尊ぶ、最も深い愛の形なのだろう。
彼女の周囲では、王太子も、宰相候補も、令嬢たちも、自分の言葉を持ち始めている。
彼女は中心に立たずして中心である。
なんという逆説。
なんという物語。』
美しい。
あまりにも美しい。
そして、少しずつ間違っている。
ミリアはペンを止め、微笑んだ。
「この物語を、誰かがきちんと残さなければ」
彼女の中で、役割が形を持ち始めていた。
記録者。
目撃者。
語り部。
白百合の君の物語を正しく伝える者。
正しく。
その言葉ほど危ないものはない。
正しく伝えたい者は、しばしば相手の矛盾を邪魔だと思う。
矛盾は美しい物語の端を汚すからだ。
そして人間は、だいたい矛盾でできている。
翌朝。
ことば箱の横に置いた封筒は、なくなっていた。
誰かが受け取った。
誰かは分からない。
リリアナはそれを見て、静かに息を吐いた。
クラリスは記録した。
『封筒、受け取られる。
誰かは不明。
追わない。』
追わない。
その三文字が、今日一番大事だった。
私はそれを見て、胸の奥が少しだけ軽くなった。
追わない。
でも、待つ。
白百合会は、今日も少しだけ、救済者ではなく居場所に近づいた。
そして私は、今日も少しだけ、お姉様の椅子から腰を浮かせた。
まだ立ち上がってはいない。
だが、座り続けてもいない。
まあ、今のところはそれで十分だろう。




