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第19話:真鍮の鼓動、あるいは歴史の端数


前書き:都市の静寂と、失われた拍動

 新しい街、メト。

 そこは「最新」が「最善」と信じられている場所です。

 効率的なポンプ、管理された運河、計算された利潤。

 人々は古いものを「動かないゴミ」と呼び、新しいものへ買い換えることを「成長」と呼びました。

 けれど、フィアネがテッカの工房で見つけたのは、効率では測れない「時間」の集積でした。

 120円の真鍮の歯車。


 かつての世界では数百円で売られていた「部品」が、異世界の遺物と噛み合ったとき、物語は再び、誰にも聞こえない小さな音を立てて動き始めます。


 ガタ、と。

 その巨大な鉄塊が、肺に空気を吸い込むような音を立てた。

 フィアネがはめ込んだ百二十円の歯車。

 それは、現地の魔導技師が見れば、あまりの精緻さに絶句するようなオーパーツだった。


 だがフィアネにとっては、かつての世界の町工場が、当たり前の規格として生み出していた「端数」に過ぎない。

 テッカが、息を呑んだ。


「……嘘。……噛み合った」


 テッカの油まみれの手が、機械の表面を滑る。

 冷え切っていたはずの鉄が、微かな振動を帯びて、深海に沈むクジラの歌のような低音を響かせ始めた。


「ねえ、お嬢ちゃん。……あんた、これ、どこで手に入れたの?

 こんな滑らかな曲線、この街のどの鋳造所だって出せないよ」

 フィアネは、ランドセルの肩紐をぎゅっと握り直した。

「……それは、私のいたところでは、たくさん作られていたものです。

 安くて、どこにでもある……ただの、部品です」

 安くて、どこにでもある。

 その言葉が、テッカには信じがたい宝石の記述のように聞こえたらしい。

 彼女はゴーグルを跳ね上げ、フィアネを食い入るように見つめた。


「『たくさんある』ことが、一番の魔法だよ。

 この街じゃ、特別な一つを作るために、何百人もの職人が何ヶ月もかける。

 でも、あんたはそれを、まるでポケットから飴玉でも出すみたいに……」


 テッカは、笑った。

 その瞳には、打算のない純粋な知的好奇心が燃えていた。


「面白い。……気に入ったよ、フィアネ。

 あんたがその『端数』でこの街をどう引っ掻き回すか、特等席で見せてもらう」


 二人が工房の外へ出ると、運河の水の流れが、わずかに変わっていた。

 これまで淀んでいた水門の裏側に、小さな渦が生まれている。

 機械が動き出したことで、百年放置されていた浄化機構が、その「仕事」を思い出したのだ。

「お嬢、上層の管理ギルドから、複数の魔力反応がこちらへ向かっています。

 異常な出力の上昇を検知したのでしょう」

 エレハンドロが、街の灯りが反射する双剣の柄に手をかけた。

 ヨハムは既に、工房の屋根に飛び上がり、接近する集団の数を確認している。


「……せっかく動いたのに、また怒られちゃうかな」

 フィアネは、小さく呟いた。

 自分はただ、この子がもう一度呼吸するところが見たかっただけだ。

 けれど、この街において「無断で価値を動かすこと」は、山での魔物との遭遇よりも厄介な事態を招く。

 案の定、現れたのは豪華な法衣を纏った一団だった。

 メトの「水」を管理する、魔導行政官たちだ。


「……テッカ! また貴様か!

 許可なく遺構に触れるなと、何度言えば理解する!」


 先頭に立つ初老の男が、顔を真っ赤にして叫んだ。

 だが、彼の視線が、微かに震える水門の機械に落ちた瞬間、その怒声が止まった。


「……馬鹿な。……再起動したのか?

 失われたはずの、第九魔導回路が……」


 行政官たちは、フィアネという「小さな買い手」の存在など目に入っていないようだった。

 彼らが価値を見出すのは、あくまで「システム」としての機械。

 そして、それが生み出す「利益」だけだ。


「よし、すぐに解析班を呼べ!

 この出力を利用すれば、上層地区の魔導灯を倍増できるぞ。

 新しいポンプの予算も、これで別の事業に回せる!」


 彼らは、機械の脈動を「歴史の復活」ではなく、「効率の向上」として消費し始めた。

 その光景は、山で見たムルクのやり方と、本質的には何も変わらなかった。


「……お嬢ちゃん、ごめん」


 テッカが、苦い顔でフィアネの隣に立った。

「あいつら、すぐにこれだよ。

 動いた途端に、どこのパイプに繋げば金になるかしか考えない」

 フィアネは、じっと行政官たちの背中を見つめていた。


《現在所持金》

726,310 円

 百二十円を使って、街のシステムを一つ動かした。

 その結果、誰かの懐が潤い、誰かの管理がより強固になる。

 それは、フィアネが最も避けたい「物語の巨大化」だった。

(……でも)

 フィアネは、水門の足元を見た。

 渦巻く水流の影。

 そこに、一匹の小さな魚が、新しく生まれた流れに乗って、上流へと泳ぎ去っていくのが見えた。

 行政官には見えない。

 テッカにも、気づかれない。

 百二十円の歯車が生んだ、名前もない、価値もない、たった一匹の移動。


「……ううん。いいんです、テッカさん」


 フィアネは、微笑んだ。


「上の方は、好きにすればいいんです。

 私は、あの魚が泳げただけで……百二十円分の、元は取れましたから」


 フィアネは、混乱する広場を後にした。

 彼女が欲しいのは、名声でも、行政官からの報酬でもない。


 誰も見ていない場所で、誰にも気づかれない「端数」を置いていくこと。

 それこそが、この管理された街で、彼女が自分自身を買い取られないための、唯一の戦い方だった。

 夜のメト。

 上層の魔導灯が、昨日よりも少しだけ明るく輝いている。

 フィアネは、安宿の窓辺で、ランドセルから自由帳を取り出した。


『メトの街。

 歯車を一つ、買いました。

 魚が、一匹、泳いでいきました。』

 それだけの、短い記録。


「……お嬢、明日の予定は」


 影の中から、ヨハムが尋ねる。

「……そうだね。

 明日は、この街で一番『安くて、誰も買わないもの』を探しに行こう」


 管理された街、メト。

 その完璧な計算式の端っこに、フィアネは明日もまた、消えない数字を書き込んでいく。


後書き:一滴の波紋

 第19話をお読みいただき、ありがとうございます。

 大掛かりな「どんでん返し」を経て、物語は再びフィアネらしい、静かで、けれど確かな影響を世界に与えるトーンへと戻ってきました。


 行政官たちが「大きな利益」に目を向けている一方で、フィアネは「小さな魚」の泳ぎに価値を見出す。

 この価値観のズレこそが、本作の真骨頂です。

 彼女にとっての「勝ち」は、他人に認められることではなく、自分の納得のいく決済ができるかどうかにあります。


 次話、メトの街の奥深くで、フィアネはさらなる「無駄」に出会います。

 それは、名前も付けられないような、ささやかな、けれど決して無視できない「祈り」の形でした。

 お楽しみに。

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