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第18話:隣領の市場、あるいは新しい端数の始まり


前書き:物語の「その後」と、変わらない足音


全17話でひとつの大きな清算を終えたフィアネ。彼女は「自分を売る」という極限の拒絶を経て、再び自由な「ただの買い手」に戻りました。


しかし、物語はここで終わりではありません。大きな事件が解決した後にこそ、本当の「生活」が再開されるからです。

第18話からは、新章の幕開けとなります。

ムルクとの対峙を経て、少しだけ大人びた――あるいは、より頑固に「端数」を愛するようになったフィアネが、隣領へと足を踏み入れます。そこで彼女が出会うのは、新しい文明の影と、やはりどこか「値段のつけられない」人々です。


地の文を厚く、朝の空気の冷たさや、新しい街のざわめきを丁寧に描き出します。


世界から「正義」や「悪」という劇的な色彩が消え去ると、あとに残るのは、驚くほど淡々とした日常の継続だった。


フィアネは、新しい領地の境界を越える石橋の上に立っていた。

背後には、かつての戦友とも呼べるイルビアスのいた山が、青い霞の中に遠ざかっている。


彼女が歩みを進める先には、これまで見てきた寂れた集落とは一線を画す、活気に満ちた「自由都市・メト」の全景が広がっていた。


「……大きい。……山より、ずっと高い建物がある」


「報告します。メトは水運と魔導産業の結節点であり、常住人口は推定十二万。……これまでの環境とは、経済の流動性が三桁以上異なります」


エレハンドロが、鋼の瞳に街の輪郭を映しながら解説する。ヨハムは既に、橋を渡る隊商の武器の質や、警備兵の配置を脳内の戦略地図に書き込んでいた。


フィアネは、ランドセルのサイドポケットに差し込んだ、あの「名前のない推薦状」を指先でなぞった。結局、一度も開いていない。焚き火の種にするには、まだ少しだけ、あの男の無骨な優しさが惜しかった。


「……行こう。今日は、新しい街で最初の『稼ぎ』を探さなきゃ」


メトの街に入ると、五感が情報の奔流に晒された。

石畳を打つ無数の蹄の音、街角の蒸留器から立ち上る魔力の匂い、そして何よりも、人々の「欲望」が熱気となって空気を震わせている。

ここの人々は、山の麓の人々のように「明日をどう生きるか」に怯えてはいない。


代わりに、「今日をいかに着飾るか」「いかに効率よく利益を上げるか」という、より高次の、そしてより複雑な数字に支配されていた。


フィアネは、広場に面した掲示板の前に立った。

そこには、この街の「価値」を示す依頼書クエストが、重なり合うように貼られている。


・下水道の害虫駆除:銀貨五枚

・魔導書院の書記代行:金貨二枚

・迷い猫の捜索:銅貨十枚


「……エレハンドロ、見て。猫を探すだけで、銅貨十枚ももらえるんだ」


「はい。ですが、この街の物価は山の三倍です。……昨日の五十円のコロッケは、この街では百五十円相当の価値にインフレしていると推測されます」


フィアネは、画面を開いた。

《所持金》

726,430 円

この数字は、ここでは何の意味も持たない。

彼女はこの街で、ゼロから「価値」を作らなければならない。


バブルスライムの残液(12円)を売るような、地道な作業。だが、この巨大な街で、そんな端数に耳を貸す者はいるのだろうか。

フィアネが掲示板を眺めていると、一人の風変わりな少女に声をかけられた。

大きなゴーグルを額にかけ、全身に煤と油の匂いを纏った、フィアネより少し年上の少女だ。


「……あんた、見ない顔だね。その背中のランドセル、面白い形してる」


「……これは、ただの鞄です」


「ふーん。まあいいや。私はテッカ。この街で一番『動かないもの』を直す仕事をしてる。……ねえ、あんた。もし暇なら、私の手伝いをしない? 報酬は……あんたが持ってる、その『画面』に免じて、特別な『情報』をあげるよ」


テッカと名乗った少女は、ニカッと笑った。

彼女の指先には、真っ黒な機械油がこびりついている。


「……私の力が、見えるの?」


「見えるっていうか、聞こえるんだよ。……あんたの周りの空気が、数字でパチパチ鳴ってるのがね」


テッカに連れられてやってきたのは、街の最下層、運河の水門の裏側にある、薄暗い工房だった。

そこには、巨大な時計の歯車のような、あるいは生き物の臓器のような、複雑怪奇な魔導機械が鎮座していた。


「これは、街の水の流れを制御する『心臓』の一部。……でも、もう百年も動いてない。誰が作ったかも、どうやって直すかも、誰も知らない『無駄な遺物』さ」


テッカは、その巨大な鉄塊を愛おしそうに撫でた。


「管理官たちは、これを壊して新しいポンプを作れって言う。その方が『効率的』だから。……でもさ、私はこいつの脈動をもう一度聞きたいんだ。……お嬢ちゃん、あんたなら、こいつの『欠けてる部品』、手に入るんじゃない?」


フィアネは、巨大な機械を見上げた。

それは、ムルクが愛した「新しい管理」とは真逆の、古く、不揃いで、説明のつかない過去の遺産だった。


(……これを動かしても、誰も褒めてくれないかもしれない)

(……稼ぎにも、ならないかもしれない)

けれど、フィアネは画面の検索バーを指でなぞった。

彼女がかつての世界で、どこかの古い工場の片隅で見たことのある、規格外の部品の名前を。

「……テッカさん。私、効率のいいポンプは買えません」

フィアネは、真っ暗な機械の隙間に手を差し込んだ。


「でも、この子がもう一度呼吸するための『端数』なら、持ってるかもしれません」


――ヒュン。

暗闇の中に、小さな、だが精巧な真鍮の歯車が現れる。

それは、現在のメトの技術体系では再現不可能な、精密すぎる「過去の結晶」。


フィアネは、一二〇円を支払った。

かつての世界で、プラモデルの予備パーツを買うような、そんな軽やかな決済。

カチッ。

歯車が噛み合う。


止まっていた時間が、一ミリだけ、未来に向かって動き出した。

後書き:新しい「無駄」への投資

第18話をお読みいただき、ありがとうございます。

新章の舞台は、文明の香りが色濃い「自由都市メト」。

ここでは、フィアネがこれまで培ってきた「端数への愛」が、より高度な形で試されることになります。

新キャラクターのテッカは、フィアネとはまた別のベクトルで「効率」に抗う、職人気質の少女です。

「動かないもの」を直すことに価値を見出す彼女と、フィアネの出会いが、この街の冷徹な数字をどう変えていくのか。

物語は、一人の男との別れを経て、より広い世界へと溶け込んでいきます。

フィアネのランドセルが、新しい街の石畳を叩く音。

その足音が、また誰かの静かな夜に届くことを願って。

次話もお楽しみに。

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