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第17話:精算の朝、あるいは価値なき少女の勝利


前書き:価値の再定義、あるいは「ゼロ」の向こう側


前話、フィアネは自らの「死」に全所持金を支払うという、究極のボイコットを宣言しました。


これは単なる自暴自棄ではありません。


「値段をつけられ、管理されること」を拒み続けた彼女が、自分という存在を最後の「商品」として提示することで、この世界の理不尽な市場そのものを崩壊させようとする、静かな反逆です。


ムルクという「管理」の権化に対し、フィアネが突きつけた「無」という答え。


「どんでん返し」のさらにその先にある、誰も予想しなかった「清算」の形を描きます。

数字では測れない物語が、いま、終着点へと向かいます。


静寂。

街道に吹き抜ける風の音さえも消え、時間は粘りつくような緊張感の中で停止していた。


フィアネの指先は、画面の「確定ボタン」の上で、あと数ミリという場所で止まっている。

彼女の瞳に、もはや迷いはない。


ただ、冷たい計算だけがそこにあった。


「……ま、待て。待て、待て待て!」


ムルクの喉から、ひきつったような声が漏れた。

先ほどまでの支配者の余裕は霧散し、その顔は土色に変色している。

彼は商売人だ。


「商品」が手に入らないことより、その「市場」そのものが消滅することを何よりも恐れる。


「お前が死んで何になる! その力があれば、この世界の頂点に立てるのだぞ! イルビアスも、あの貧民どもも、お前の意のままに……!」


「……それが、あなたの言う『価値』ですよね」

フィアネは、かすかに口角を上げた。

涙はもう、乾いている。


「でも、私の『価値』は、そこにはない。……私の価値は、十二円で買ったガムの味や、五十円で半分にしたコロッケの熱さにある。……あなたがそれを踏みにじった瞬間に、私の全財産は、ただのゴミになったの」

「狂っている……! お前は、狂っているぞ!」


ムルクが後退りする。

周囲の騎士たちも、得体の知れない魔族の少女の「死への渇望」に気圧され、剣を握る手が震えていた。

その時。


「――そこまでだ、ムルク」


低く、地を這うような声が街道の端から響いた。

騎士たちの包囲を割って、一人の男が歩み寄る。

ボロボロの鎖に繋がれ、全身は傷だらけ。

だが、その瞳だけは衰えていない。

イルビアスだった。


「……イルビアスさん……!」


「お嬢ちゃん、その指を離せ。……俺は、お前に買い取られるためにここまで来たんじゃない」


イルビアスの背後には、数人の男たちがいた。

それは、あの乾いた集落の大人たち――リナの父親たちだった。


彼らは、自分たちの農具や折れた剣を手に、ボロボロになりながらも立ち上がっていた。


「ムルク。貴様は一つ、重大な計算違いをした」


イルビアスは、繋がれた鎖を力任せに引きちぎった。

その筋肉が咆哮を上げ、鉄の輪が弾け飛ぶ。


「貴様は、お嬢ちゃんの『力』を奪えば勝てると思った。……だが、お嬢ちゃんが本当にあの集落に、そして俺に残したのは、力などではない。……『腹の底に溜まった、味噌汁の重さ』だ」


集落の男が、一歩前に出る。


「……俺たちは、あの日、自分たちが『生きていい』という値段を、お嬢ちゃんにつけてもらったんだ。……一度それを受け取った人間は、もう二度と、他人がつけた値段には従わない」


彼らの目は、もはや家畜のそれではない。

管理されることを拒み、自分の足で立つことを選んだ、一人の人間の目だ。

ムルクは、悟った。


自分が管理しようとしたものは、数字で制御できる「資材」ではなく、言葉にならない「意志」の集合体だったということを。

そしてそれは、どんな莫大な金貨を積んでも、決して買い戻すことはできない。


「……く、くそッ! 全員捕らえろ! 魔族の娘を殺すな、力だけを……!」

ムルクが叫んだ瞬間、フィアネの護衛たちが動いた。


「執行します」


エレハンドロの双剣が閃き、ヨハムが目にも止まらぬ速さでムルクの首元にナイフを突き立てる。

騎士たちが応戦する間もなく、街道は怒れる集落の人々と、圧倒的な力を持つ護衛たちの手によって制圧された。


混乱の中で、フィアネはゆっくりと手を下ろした。

消えていく画面。

残された、七十二万余円。


「……勝った……のかな」


フィアネが力なく呟くと、隣にイルビアスが立った。

彼は大きな手で、フィアネの頭を乱暴に、だが温かく撫でた。


「ああ。……一円も使わずに、お前は世界を買い負かしたんだ」


数日後。

街道には、再び静かな朝が訪れていた。

ムルクは汚職と不当な権利行使の罪で更迭され、集落の水の権利は「誰の所有物でもない」という曖昧な法律の隙間へと返された。

フィアネの味噌汁が、最終的に行政の歯車を狂わせ、新しいルールを作らせたのだ。

フィアネは、小屋の前で荷造りをしていた。


「……行くのか」


イルビアスが、壁にもたれて訊ねる。


「はい。……ここにいると、また誰かが私に『値段』をつけてきそうだから。……私は、もっと知らない街道で、もっと下らないものを買いたいんです」

「……そうか。お前らしいな」

イルビアスは、懐から一枚の紙を取り出した。

それは、新しく書き直された、名前のない白紙の推薦状。


「いつか、本当に困った時だけ使え。……まあ、お前のことだ。一生使わずに、焚き火の種にするんだろうが」


「ふふ、そうかもしれません」


フィアネは笑って、それをランドセルの奥へしまった。


二人は、握手も、再会の約束もしなかった。

ただ、朝の光の中で、一度だけ視線を交わした。

「……じゃあ、行きますね。おじさん」

「ああ。……元気でな、お嬢ちゃん」

フィアネは、エレハンドロとヨハムを連れ、街道を歩き出した。


ランドセルの中には、相変わらずの端数。

そして、これから出会うであろう「無駄なもの」のための、ささやかな希望。

世界を買える力があっても、買わないという選択が、夜を越える。

彼女の歩く先には、まだ名前のない物語が、どこまでも、どこまでも続いていた。

後書き:物語の余白に

全17話にわたる「世界を買わなかった少女」の物語、いかがでしたでしょうか。


フィアネが最後に選んだのは、自分を救うために「金」を使うことではなく、自分を捨ててでも「支配」を拒絶することでした。

この物語のテーマは、常に「価値の決定権を誰が持つか」にありました。

他人がつけた値段に依存せず、自分にとっての「五十円」や「十二円」を大切にする。


それは、現代を生きる私たちにとっても、最も難しく、そして最も尊い戦いではないかと思います。

フィアネの旅はこれで一旦の幕を閉じますが、彼女は今も世界のどこかの街道で、下らないガジェットや、少ししょっぱい味噌汁に、自分だけの価値を見出しているはずです。

もしあなたが、日々の生活の中で「自分の価値」に迷うことがあったなら。


……どうか、あのランドセルを背負った少女を思い出してください。

あなたの手の中にある、その「端数」のような時間は、決して誰にも買い叩くことはできない、あなただけの宝物なのですから。


最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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