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第14話:名前を持つもの、持たざるもの/旅の終わりと、小さな火


前書き:物語の「端数」について


この物語において、フィアネが持つ「円」という単位は、異世界の住人には理解できない抽象的な概念です。しかし、彼女にとっては、かつての世界で自動販売機に投入し、あるいはコンビニのレジで支払った「確かな手触り」を持つ記憶そのものです。

効率を求めれば、彼女はもっと早く、もっと大きな変化を世界に与えることができるでしょう。けれど、彼女はそれを拒みます。

第14話では、大きな「正義」や「変革」という奔流に抗いながら、彼女が守りたかった「小さな個人の領域」と、一人の男との静かな対峙を描きます。

地の文に重きを置き、空流れる雲や、焚き火の爆ぜる音、そして言葉にならない感情の揺らぎを丁寧に綴りました。



———————————————



山を降りる風が、木々の葉をさざめかせ、夜の帳を連れてくる。

宿場町での「かき氷」という名の無駄使いを終えた一行は、深い森の入り口にある、いつもの古びた小屋へと戻っていた。


フィアネは、軒下に腰を下ろし、夕闇に沈んでいく街道を眺めていた。


ランドセルの中には、相変わらず「七十万二千円」という、この世界の誰にも価値の分からない数字が静かに眠っている。だが、今日使った百六十円という数字だけが、彼女の胸の中で妙に生々しく熱を持っていた。


(……あの子、リナちゃん。明日は何を飲むのかな)

喉の渇きは癒えない。根本的な解決は何一つしていない。

けれど、あの子の舌に残った「イチゴ味の冷たさ」という記憶だけは、誰にも奪うことのできない彼女だけの財産になったはずだ。

それは、制度や管理という大きな言葉からは、最も遠い場所にあるものだった。


「……お嬢」


背後から、エレハンドロの低い声がした。

彼はヨハムと共に、闇に溶け込むような姿勢で周囲を警戒している。


「あの男……イルビアスの『気』が、変わりました。……別れの予感です」


フィアネは、心臓が小さく跳ねるのを感じた。

言葉にしなくても、分かっていた。

イルビアスという男は、この山の一部ではなく、この山を通り抜けていく風のような存在だということを。

小屋の扉が開き、イルビアスが出てきた。


その背には、あの巨大な剣が背負われている。

彼はフィアネの隣、少しだけ距離を置いて座った。

焚き火の炎が、彼の深く刻まれた眉間の皺と、戦士としての荒れた手を赤く照らし出す。


「……ムルクの追っ手は、俺が撒いておいた。だが、あの手の連中はしつこい。明日には、この場所も嗅ぎつけられるだろう」


イルビアスの声は、どこまでもフラットだった。情に流されることを拒む、硬い鉄のような響き。

「お前は、ここを離れろ。……エレハンドロとヨハムがいれば、並の魔物や兵士に遅れは取らん。お前は、お前の『価値』を守り続けろ」

フィアネは、膝に置いた自分の手をじっと見つめた。

指先が、少しだけ震えている。


「……行っちゃうんですか」


「俺には、返さねばならぬ名前がある。……かつて、正義を振りかざして奪った命と、その家族に。……名前を捨てて逃げ回る夜は、今日で終わりだ」

イルビアスは、懐から小さな、煤けたメダルを取り出した。

かつて彼が、ある騎士団の長であったことを示す、剥げかけた金色の紋章。

「フィアネ」


ふいに、彼がその名を呼んだ。

偽りのない、まっすぐな響き。

フィアネは顔を上げた。彼と目が合う。その瞳の奥には、燃え盛る焚き火よりも熱く、そして静かな決意が宿っていた。


「……いや、お嬢ちゃん。……お前のやり方は、間違っている。非効率で、何の救いにもならん。……だが、俺はその『間違い』に救われた。……五十円のコロッケに、昨日までの俺の罪を許されたような気がしたんだ」


イルビアスは立ち上がり、剣の柄に手をかけた。

「名乗らぬまま、去る。……それが、お前が選んだ『降りない』生き方だろう? ならば、俺もそれを尊重しよう。……礼は言わん。代わりに、この言葉を置いていく」


彼は一歩、闇へと踏み出した。

「……また、どこかの街道で、無駄なものを売っていたら。……その時は、俺の全財産を叩いて、それを買わせてもらおう」


フィアネは、駆け出したかった。


彼の外套の裾を掴んで、まだ名前も知らない彼の過去を、その痛みを、自分の「円」で買い取ってあげたいと、一瞬だけ思ってしまった。

けれど、彼女は動かなかった。

彼女がそれをしてしまえば、イルビアスが取り戻そうとしている「自分自身」という誇りまで、値段をつけて買ってしまうことになる。

それは、彼女が最も忌むべき「管理」という名の蹂躙だ。


「……はい。……稼いでおきます。……次は、もっと高いものを買わせますから」


フィアネは、震える声でそう叫んだ。

イルビアスは振り返らなかった。

ただ、一度だけ右手を高く上げ、深い森の闇へと消えていった。


焚き火の音が、やけに大きく聞こえる。

フィアネは、再び軒下に座り込んだ。



《所持金》

726,430 円

数字は減った。

隣にいた温度も、消えた。

夜は、昨日よりもずっと深く、そして静かだ。


「……お嬢。……お疲れ様でした」


ヨハムが、そっと彼女の隣に膝をついた。

彼の無機質な瞳には、何の変化もない。だが、その指先は、フィアネの肩にかかったランドセルのストラップを、優しく整えてくれた。


「……ヨハム。……私、間違ってないかな」


「間違い、という定義は、観測者の立ち位置で変わります。……ですが、私の記録によれば、現在のあなたの心拍数と血流は、非常に『人間らしい』揺らぎを示しています」


「……そう。……なら、いいのかな」


フィアネは、空を見上げた。

雲の切れ間から、この世界特有の二つの月が顔を出している。


一つは大きく、一つは小さく。

彼女は、名前を呼ばれずに去ることを選んだ。

正義を制度にせず、誰かの人生を買い取らず。

ただ、夜に小さな火を灯し、誰かが「居ていい」と思える場所を、一瞬だけ作って去っていく。

それは、世界を救う旅ではない。


明日もまた、十二円の残液を拾い、五十円のコロッケの味に一喜一憂する、果てしない「生活」の続きだ。

けれど、フィアネは知っている。

このランドセルの中に眠る膨大な数字よりも、今、頬を伝った一滴の涙のほうが、ずっと「換算できない価値」を持っていることを。


「……明日も、稼ごう」


フィアネは、小さく、だが確かな声で呟いた。

街道は、どこまでも続いている。

まだ見ぬ街、まだ見ぬ誰か。

そして、いつかまた出会うかもしれない、あの不器用な背中。


世界を買わなかった少女は、今日もまた、夜を越えるための小さな火を守り続ける。





後書き:物語は「読者」という街道へ



第14話をもって、フィアネとイルビアスの、名前を巡る一区切りの旅は終わりを告げます。


この物語には、明確な「ラスボス」もいなければ、世界を破滅から救う「勇者」も現れません。

あるのは、ただ一人の少女が、自分の手の中に収まる範囲の幸せを、どうにかして守り抜こうとする足掻きだけです。


「降りない」という選択は、孤独です。

けれど、その孤独の先でしか出会えない温度があると、私は信じています。

ここまで読んでくださった皆様の心の中に、ほんの少しでも「コロッケの匂い」や「夜の焚き火の音」が残ったならば、作者としてこれ以上の喜びはありません。

フィアネの旅は、形を変えながら、またどこかで続いていくことでしょう。


いつか、あなたが歩く街道の隅で、ランドセルを背負った少女を見かけたときは。

……どうか、名前を呼ばずに、ただ「こんにちは」と声をかけてあげてください。

ありがとうございました。

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