第15話:雨降る街道、あるいは名前のない弔い
前書き:日常という名の「戦場」について
前話で、フィアネは大切な友人とも呼べる存在、イルビアスと別れました。
物語であれば、ここで大きな喪失感に打ちひしがれ、旅の目的を見失うような劇的な展開が求められるかもしれません。しかし、本作が描くのは「生活」です。
誰かがいなくなっても、朝は来ます。
お腹は空きます。
そして、生きていくためには「稼ぐ」ことを止められません。
第15話では、イルビアスが去った後の静かな朝から始まります。
大きな物語のうねりに飲み込まれそうになりながらも、あえて「歩みを止めない、けれど急がない」ことを選ぶフィアネの心理描写、そして新たに現れる「街道の隣人」とのささやかな交流を、密度の高い地の文で描きます。
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朝、フィアネが目を覚ますと、世界は灰色に塗りつぶされていた。
昨夜まで燃えていた焚き火は、夜半に降り出した雨に叩かれ、冷え切った墨の塊へと変わっている。小屋の軒先を叩く雨音は、どこか規則的で、それでいてひどく無慈悲だ。
山を覆う霧が、昨日までそこにいた男の気配を、丁寧に、そして冷徹に消し去っていく。
フィアネは、ランドセルを抱えたまま、しばらく動けなかった。
(……いない)
わかっていたことだ。
彼は風のように現れ、風のように去っていった。
それこそが、フィアネが彼に求めた「適正な距離」だったはずだ。
けれど、昨日まで彼が座っていた場所が、雨に濡れて変色しているのを見るだけで、胸の奥に薄い氷が張り付いたような感覚を覚える。
「……お嬢、体温が低下しています。小屋の中へ」
エレハンドロが、濡れた外套を翻して歩み寄る。
彼の声には、雨音さえも通さないような鉄の規律があった。
ヨハムは、霧の深い森の奥をじっと見つめている。彼らの「監視」に休みはない。人が去ろうが、空が泣こうが、彼らはフィアネを守るために設計された装置なのだ。
「……大丈夫。ちょっと、寒かっただけ」
フィアネは立ち上がり、膝に溜まった雨水を払った。
今日、彼女がすべきことは決まっている。
悲しみに暮れることでも、彼を追いかけることでもない。
「……稼がなきゃ」
それは祈りにも似た、生存の呟きだった。
雨の日の街道は、昨日までの埃っぽさが嘘のように静まり返っていた。
ぬかるんだ土の上には、馬車の轍も、人の足跡も残らない。すべては水に流され、平坦な「道」へと戻っていく。
フィアネは、雨合羽代わりに安価なナイロンのポンチョ(120円)を購入し、それを被って街道の端を歩いた。
目的地は、昨日リナたちに「無駄な水」を振る舞った、あの干からびた集落だ。
だが、集落に着いた彼女を待っていたのは、静寂だった。
「……誰も、いない?」
井戸の周りには、昨日フィアネが使い捨てたプラスチックのスプーンが一本だけ、泥に半分埋まって落ちていた。
昨日、あんなに熱心に「冷たさ」を喜んでいた大人たちも、リナの笑顔も、そこにはない。
家々の扉は固く閉ざされ、まるで初めから誰も住んでいなかったかのような、不気味なほどの空白が広がっている。
「フィアネ様、生体反応は家の中にあります。ですが……極めて微弱、かつ沈滞しています」
ヨハムの報告に、フィアネは胸が締め付けられる思いがした。
彼女は、ある家――リナが住んでいたはずの、屋根の壊れかけた小屋の前に立った。
扉を、そっと叩く。
「……リナちゃん? 私です。昨日の、かき氷の……」
返事はない。
ただ、重苦しい湿り気を帯びた空気が、扉の隙間から漏れ出してくる。
「……お嬢、忠告します」
エレハンドロが、フィアネの肩を掴んだ。
「昨日、あなたが与えたのは『希望』ではありません。それは、死にゆく者に与えられた『最後の中毒』です。冷たさを知った体は、以前よりも今の渇きを苦痛と感じています」
フィアネは目を見開いた。
自分のしたことが、彼らを救うどころか、その苦しみを増幅させていた。
「正義」ではなく「無駄」を選んだはずの自分の独りよがりが、今、目の前の扉の向こう側で誰かを追い詰めている。
「……そんなの……」
「これが『価値』の等価交換です。一時の享楽を売れば、その後に訪れるのは同等、あるいはそれ以上の欠乏です」
エレハンドロの言葉は、雨よりも冷たくフィアネに突き刺さる。
彼女は、画面を開こうとした。
所持金はある。七十万余円。
これで、上流から水を引く工事を「購入」できるかもしれない。
あるいは、彼ら全員をここから別の街へ運ぶ「権利」を買えるかもしれない。
だが、指が止まる。
それをすれば、フィアネはこの世界の「神」になってしまう。
この集落の運命を買い取り、彼らの人生を自分の数字の中に収めてしまう。
それは、彼女が「降りない」と決めたあの誓いを、踏みにじる行為だ。
雨足が強くなる。
フィアネは、泥の中に膝をついた。
(どうすればいいの……)
買えば救える。
買えば支配してしまう。
買わなければ、死んでいく。
その矛盾した三叉路で、フィアネは呻いた。
その時、足元に埋まっていたプラスチックのスプーンが、雨に洗われて白く輝いた。
(……私は、何を売ったの?)
昨日、彼女が売ったのは、水ではない。
「甘さ」と「冷たさ」という、生きるために全く必要のない、けれど「居ていい」と思わせる瞬間の共有だ。
ならば。
今日、彼女がすべきことは、救済ではない。
「共にある」ことの証明だ。
フィアネは、震える指で画面を操作した。
検索したのは、水ではない。
《商品検索》
・カセットコンロ
・大きな土鍋
・インスタント味噌汁(徳用パック)
・乾燥わかめ、お麩
・紙コップ
総額、一、二八〇円。
フィアネの前に、実用的な「生活の道具」が現れる。
彼女は、雨を避けるように集落の中央にある、崩れかけた集会所の庇の下へ移動した。
カチッ、という点火の音。
シュンシュンと、鍋の中で雨水(浄化フィルターを通した一級品だ)が沸騰し始める。
味噌の香ばしい匂いが、冷たく湿った空気の中に立ち込めた。
フィアネは、言葉を発しなかった。
ただ、ひたすらにお湯を沸かし、味噌を溶き、コップに注ぐ。
その湯気が、雨の壁を越えて、家々の中にまで届くのを待った。
十分、二十分。
やがて、一番近くの家の扉が、ゆっくりと開いた。
出てきたのは、リナの父親だった。
彼は幽霊のような足取りで、湯気の方へと近づいてくる。
フィアネは、黙って温かい味噌汁の入った紙コップを差し出した。
「……飲んで」
男は、震える手でそれを受け取った。
湯気が鼻をくすぐり、凍えていた指先に熱が戻る。
一口、啜った男の喉が鳴り、その目から、雨とは違う熱い液体が溢れ出した。
「……ああ……」
その声が合図だった。
一人、また一人と、村人が家から這い出してきた。
フィアネは、ただ機械のように味噌汁を作り続けた。
そこには名前も、感謝も、契約もいらない。
ただ、「今、温かいものを飲んでいる」という、それだけの事実。
リナも、最後に出てきた。
彼女はフィアネの隣に座り、小さな手でコップを包み込んだ。
「……昨日のより、しょっぱいね」
「……うん。でも、こっちの方が、長くお腹に残るよ」
フィアネは、リナの頭を撫でた。
彼女たちがしているのは、明日を生き延びるための戦いではない。
今日という一日を、どうにかして「やり過ごす」ための、静かな連帯だった。
夜が来る頃、雨は上がっていた。
雲の間から、月明かりが泥だらけの街道を照らし出す。
集落の人々は、それぞれの家に戻っていった。
何かが解決したわけではない。彼らの喉は明日も乾くだろう。
だが、その背中には、朝方の絶望的な重さはなかった。
「……お嬢」
エレハンドロが、暗闇の中から声をかける。
「今回の出費は一、二八〇円。……得られた成果は、彼らの一晩の生命維持。……コストパフォーマンスとしては、最悪です」
「……わかってる」
フィアネは、空になった土鍋を画面の中に回収した。
「でも、これが私の『買い方』なんだと思う。……一度に全部を救うんじゃなくて、一円ずつ、一日ずつ、夜を越えるための火を置いていく。……それが、一番長く残るから」
フィアネは、ランドセルを背負い直した。
肩に食い込む重みが、今は心地よかった。
イルビアスはもういない。けれど、彼と一緒に食べたコロッケの油の匂いと、今日みんなで飲んだ味噌汁の湯気は、フィアネの中で一つの確信に変わっていた。
世界を買わなくても、世界と共にいることはできる。
フィアネは、月明かりの街道を歩き始めた。
明日は、何を売って、何を買おうか。
その「端数」のような思考が、彼女の明日を紡いでいく。
後書き:数字の裏側にあるもの
第15話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、フィアネが自身の「全能感」と「無力感」の間で揺れ動きながら、一つの答えを出す回でした。
「救う」という行為は、往々にして傲慢さを孕みます。
特に対等ではない力を持つ者が、持たざる者に何かを与えるとき、そこには必ず「歪み」が生じます。
フィアネは、その歪みを最も恐れています。だからこそ、彼女は「管理」ではなく「消費」という、対等な経済活動の枠組みから出ようとしません。
味噌汁一杯に、どれほどの価値があるのか。
それは、飲んだ本人にしか決められないことです。
フィアネはその「決める権利」を、最後まで人々に残そうとしました。
物語は少しずつ、街道の先にある「都市」へと向かっていきます。
そこでは、個人の「価値」がさらに複雑な数字に変換され、フィアネを惑わせることになるでしょう。
それでも、彼女がランドセルを背負い続ける限り、この物語は歩みを止めません。
次話もまた、静かな夜の灯火の下でお会いしましょう。




