第13話:紙に書けない契約/フィアネの選ぶ、三十八円の未来
夜の静寂は、時として昼の喧騒よりも饒舌だ。
焚き火の爆ぜる音、遠くで鳴く夜鷹の声、そして隣に座る男の、重く、規則正しい呼吸。
フィアネは、ランドセルの中から一冊のノートを取り出した。それはかつての世界で、文房具店の隅に並んでいた何の変哲もない自由帳だ。
「……イルビアスさん」
「名前を呼ぶなと言ったはずだ」
男は、焚き火の爆ぜる火の粉を眺めたまま、無愛想に返した。だが、その声に拒絶の色はない。むしろ、名前という「ラベル」を貼られることに戸惑っているようにも聞こえた。
「……すみません。でも、聞きたいことがあって」
フィアネは、ノートの真っ白なページを指先でなぞった。
「さっきの行商人の人……ムルクさんは、私の『力』を、物流を変える魔法だって言いました。世界を便利にするって。……それって、いいことなんですよね?」
イルビアスは、しばらく黙っていた。薪が燃え尽き、赤い熾火が揺れる。
「便利、か。それは『速くなる』ということだ。価値が移動する速度が上がり、無駄が削ぎ落とされる。……だがな、お嬢ちゃん。無駄が削ぎ落とされた後に残るのは、冷徹な『効率』だけだ
彼は懐から、一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
それは、かつて彼が「正義」の名の下に執行した、ある村の接収許可証だった。
「この紙一枚で、俺はある村を救った。……いや、救ったつもりだった。経済的に立ち行かなくなった村を、王領の管理下に置き、効率的な農法を強制し、税を均一化した。村は豊かになった。飢える者はいなくなった」
イルビアスの拳が、膝の上で固く握られる。
「だが、三月も経たぬうちに、村からは歌が消えた。彼らが先祖代々守ってきた『非効率な祭り』も、収穫を分け合う『曖昧な慣習』も、全ては王領の規律に反する『無駄』として切り捨てられたからだ。……彼らは救われ、そして死んだ。心からな」
フィアネは、じっと彼の手元にある羊皮紙を見つめた。
文字が並んでいる。署名がある。印章が押されている。
それは、あまりに正しく、あまりに重い「紙」だった。
「……私のランドセルの中にある『円』も、同じかもしれません」
フィアネはぽつりと呟いた。
「これを使えば、この山の麓に立派な宿が建てられる。イルビアスさんに、もっといい剣を買ってあげることもできる。……でも、それをしたら、昨日一緒に食べたあのコロッケの味は、もうしなくなる気がするんです」
「……賢いな。あるいは、あまりに臆病か」
イルビアスは、自嘲気味に笑って羊皮紙を焚き火に投げ入れた。
高価なはずの許可証が、一瞬で炎に巻かれ、灰になって空へ消えていく。
「お嬢ちゃん。一つ、頼みがある」
「……はい」
「明日、街道のさらに先……『水のない宿場』と呼ばれる場所へ行く。……ムルクのような連中に、つけ狙われる前に、お前のその『画面』を使って、一つだけ『無駄なもの』を買ってほしい」
翌朝。
フィアネは、エレハンドロとヨハムを伴い、イルビアスと共に街道を南へ下っていた。
数時間の歩行の末に現れたのは、かつては宿場町として栄えたであろう、干からびた集落だった。
井戸は枯れ、家々の壁は剥がれ落ちている。
そこで立ち尽くす人々は、一様に泥にまみれ、希望という名の「価値」をどこかに置き忘れてきたような目をしていた。
「……ここは、見捨てられた場所だ。水の権利を上流の街に買われ、公的な支援からも外れた」
イルビアスの言葉に、一人の少女が反応した。
泥だらけの服を着た、フィアネと同じくらいの年格好の少女だ。
「……おじさん、また来たの? ここにはもう、何もないよ。売るものも、差し出す名前も」
少女の声は、カサカサに乾いていた。
「……リナ。今日は、客を連れてきた」
イルビアスがフィアネを促す。
フィアネは、おずおずと画面を開いた。
《商品検索》
・飲料水:設定不可
・公共設備:購入不可
(……やっぱり。直接的な『インフラ』は買えない……)
この世界の理は、フィアネが「神」になることを許さない。
彼女ができるのは、あくまで「消費」だ。
フィアネは、喉を鳴らす集落の人々と、リナという少女を見つめた。
そして、画面の検索バーに、ある言葉を打ち込んだ。
《商品検索》
・かき氷シロップ(イチゴ)
・家庭用手動かき氷機
・純氷(2kg)
「……フィアネ様。それは、栄養にも、水分の補給にも非効率ですが」
エレハンドロが冷静に指摘する。
「いいの。……今は、『正しい水』じゃなくて、『楽しい水』が必要だから」
――ヒュン。
フィアネの前に、場違いなほど真っ白な氷の塊と、鮮やかな赤色のシロップ、そして古めかしい回転式の機械が現れた。
集落の人々が、呆気に取られた表情でそれを見つめる。
フィアネは、氷を機械にセットし、ハンドルを回した。
ガリガリ、ガリガリ。
静かな集落に、軽快な音が響く。
削り出された雪のような氷が、木の器に盛られていく。そこに、ドロリとした赤いシロップをかけた。
「……はい。リナちゃん、食べてみて」
リナは、不審そうにその器を受け取った。
おそるおそる、スプーン(これも10円で買ったプラスチック製だ)で氷を口に運ぶ。
「……つめたい」
リナの目が、大きく見開かれた。
「冷たさ」という、この乾いた土地では何よりも贅沢な、そして何の役にも立たない「刺激」。
「……あまい。……おじさん、これ、あまいよ!」
リナの声に、湿り気が戻った。
一人、また一人と、大人たちが集まってくる。
フィアネは、黙々とハンドルを回し続けた。
一杯、また一杯。
《所持金》
726,590 円 → 726,430 円
一六〇円の支出。
それは、この集落を救うための「投資」ではない。
明日には消えてしまう、ただの「無駄使い」だ。
だが、氷を頬張る人々の顔には、数分前にはなかった「表情」が戻っていた。
「美味しい」「冷たい」「信じられない」。
そんな、値段のつけられない贅沢が、停滞していた集落の空気をかき回していく。
夕暮れ時。
フィアネたちは、集落を後にした。
井戸が治ったわけではない。水の権利が戻ったわけでもない。
明日になれば、彼らはまた喉の渇きに苦しむだろう。
だが、リナは、フィアネの姿が見えなくなるまで手を振っていた。
「……満足か、お嬢ちゃん」
「……はい。たぶん」
フィアネは、ランドセルの肩紐を握り直す。
「一六〇円分、世界を無駄にできました。……それが、私の『降りない』やり方です」
イルビアスは、何も言わなかった。
ただ、その大きな手が、一度だけフィアネの頭を不器用に撫でた。
「……次は、三十八円の未来、だったか。……お前のその『端数』が、いつか世界を追い越すかもしれんな」
街道の先には、まだ夜が待っている。
けれど、フィアネの歩幅は、昨日よりもほんの少しだけ、確かになっていた。
次回:第14話「名前を持つもの、持たざるもの/旅の終わりと、小さな火」
――「フィアネ。……いや、お嬢ちゃん」
――離別の予感。
――守られたのは、世界か、それとも。




