表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/23

第11話:名前を聞かない夜/半分このコロッケ


朝の光が、山の稜線を白く縁取っていく。

フィアネは、昨日見た「街道の理屈」を胸に、静かに小屋の前に立っていた。


手には、温かい紙包み。

五〇円のコロッケ。

フィアネにとって、この五〇円はただの数字ではない。

昨日のバブルスライム四匹分(四八円)に、ほんの少しの「かつての自分」を足したものだ。


(……足した分だけ、重い)


ギィ、と扉が開く。

出てきたイルビアスは、昨晩よりもさらに深く眉間に皺を寄せていた。

だが、その視線はまっすぐに、フィアネが持つ紙包みへと落ちる。

「……また、それか」


「……はい。今日は、買いました。昨日の続きです」


「そうか」


イルビアスは短く応じると、無造作に地面に腰を下ろした。

フィアネも、少し離れた場所に座る。

昨日はノックもせずに置いた。今日は、隣にいる。

この数センチの距離が、フィアネにとっては「街道一里分」ほども遠く感じられた。


「……食え」


イルビアスが、包みを二つに割る。

立ち上がる湯気が、冷えた朝の空気に白く溶けていく。

半分にされたコロッケの、断面に見える牛すじ。


「……いいんですか」


「私は、借りを作るのが嫌いなだけだ。……お前が払った『価値』の半分を、私が責任を持つ。それで対等だ」

イルビアスの言葉は、ひどく硬い。

けれど、フィアネはその「対等」という言葉に、不思議な安堵を覚えた。

サクッ。

二人の口から、同じ音が漏れる。


(……あ。おいしい……)


衣の香ばしさ。芋の甘み。

そして、何よりも「熱」がある。

山で一人で食べる干し肉にはない、誰かが誰かのために揚げた、他人の労働の温度。


「……なあ」


イルビアスが、半分になったコロッケを見つめたまま口を開いた。


「お前、なぜこの山にいる。その『画面』が見えるなら、もっと楽な場所があるだろう。街に行けば、その力で王にだってなれる」


フィアネは、咀嚼を止めて考えた。

「王」という言葉。

「力」という言葉。


それらは、彼女のランドセルの中にある「円」と同じくらい、非現実的な響きを持っていた。


「……王様になると、値段がつけられなくなるから」

「なんだと?」


「王様は、世界を『管理』するでしょう? でも、管理する人は、その中に入れない。私は……ただ、コロッケが美味しいって思える場所に、降りていたいんです」

イルビアスは、動かなかった。

ただ、静かにフィアネの横顔を見ていた。

この少女は、世界を買えるほどのお金を持っていながら、

十二円の液体を売って、五十円のコロッケを半分こすることに、

全霊の価値を見出している。


「……降りない、か」


イルビアスは、ふっと自嘲気味に笑った。

それは、彼がこの物語の中で初めて見せた、感情の綻びだった。


「私は、降り損ねた男だ。……かつて、正しさの名の下に、守るべきものを制度で塗りつぶした。名前をつけ、役割を与え、それで全てを救ったつもりでいた」


フィアネは何も聞かない。


彼の過去も、犯した過ちも、その背負った剣の意味も。

ただ、冷めないうちにコロッケを食べる。

それが今、彼にできる唯一の「礼儀」だと思ったから。


「……ごちそうさまでした」


フィアネが手を合わせると、イルビアスも最後の一口を飲み込んだ。


「……名前は、教えないのか」


ふいに、彼が訊いた。


フィアネは、少しだけ考えてから、首を振った。


「今は、まだ。……名前がつくと、私は『お嬢ちゃん』じゃなくて、『フィアネ』という役割になってしまうから」


「……そうか。なら、私も名乗る必要はないな」


二人は立ち上がる。

朝日はもう高く、昨日の露は乾き始めている。


「……明日も、来ます。稼げたら、ですけど」


「……バブルスライムは、沢の西側によく出る。あそこなら、十二円が少しはマシな数字になるだろう」


イルビアスはそう言い残すと、背を向けて森の奥へと消えていった。


フィアネは、空になった紙包みを丁寧に畳み、ランドセルのサイドポケットに差し込む。



《所持金》

726,482 円

五〇円減って、十二円増えた。

差し引き、マイナス三十八円。

けれど、胸の奥に残った熱は、

どんな画面の数字よりも、確かな重さを持ってそこにいた。


次回:第12話「商人と魔女/街道の終わり、取引の始まり」


――動き出した歯車。

――差しのべられた、汚れた手。

――「お嬢ちゃん、いいモン持ってるね」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ