第10話 街道 ――値段のないもの、値段をつけるもの
街道というものは、不思議だ。
人の足音が消えても、そこに“人がいた痕跡”だけが残る。
轍。
踏み固められた土。
草が生えない細い帯。
フィアネは、山道からそれを見下ろしていた。
「……あれが、街道」
声は小さい。
だが、確かめるような響きがあった。
後ろには、従者が二人。
エレハンドロは腕を組み、ヨハムは周囲を警戒するように視線を巡らせている。
「行きますか、お嬢」
エレハンドロが言う。
「……うん。
でも、今日は“通るだけ”でいいの」
フィアネは、そう付け加えた。
彼女は、街に行ったことがないわけではない。
だがそれはいつも、
・急ぎの用
・必要最低限の補給
・人と目を合わせない移動
だった。
今日は違う。
“店がある方向”へ行く。
それだけで、少し胸がざわついた。
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街道に降りると、空気が変わる。
匂いが混ざるのだ。
革。
油。
鉄。
そして、かすかに――揚げ物の名残。
フィアネは、思わず立ち止まった。
「……いま、
“油”のにおい、した」
「しましたな」
ヨハムが頷く。
「店が近い証拠だ」
エレハンドロはそう言って、少しだけ歩調を緩めた。
街道沿いの店は、山の中のそれとは違う。
露骨に“人を呼ぶ”構えをしている。
木の看板。
布の暖簾。
開け放たれた扉。
フィアネは、無意識にランドセルの肩紐を握った。
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最初に目に入ったのは、道具屋だった。
鍋。
縄。
釘。
包丁。
値札が下がっている。
フィアネは、その一つ一つを、じっと見た。
「……これは、いくら」
「銅貨三十」
「こっちは?」
「五十」
彼女は、口に出して確認する。
だが――買わない。
買わずに、“換算”している。
(この鍋は……
山で三日分の薪と同じくらい)
(この縄は……
魔物の皮一枚分)
フィアネの頭の中には、常に別の通貨がある。
それは、
・生き延びるための労力
・危険度
・時間
金は、その“結果”にすぎない。
「……高い」
ぽつりと漏れた。
「高い、ですか」
ヨハムが驚いたように聞き返す。
「うん。
“危なくない”のに、値段が高い」
それは、彼女なりの基準だった。
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次に見えたのは、食い物屋だった。
鍋が火にかけられ、
油が、まだ静かに揺れている。
だが、揚げ物は並んでいない。
「今日はもう終いだよ」
店の女が言った。
フィアネは、何も言わずに一礼した。
引き返す。
その背中を、エレハンドロが見ていた。
「……残念だったな」
「ううん」
フィアネは首を振る。
「今日は、
“見る日”だから」
それは、自分に言い聞かせるような言葉だった。
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街道を歩きながら、フィアネは考えていた。
(“店”って、
価値を、まとめて置いてる場所なんだ)
山では違う。
価値は、散らばっている。
木一本。
石一つ。
魔物一匹。
それを拾い、使い、交換する。
でも、ここでは違う。
人は、
価値を“先に”決めてから、並べている。
「……不思議」
「何がです」
ヨハムが聞く。
「“欲しい”より先に、
“値段”がある」
それは、フィアネにとって、少し怖い感覚だった。
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街道の端で、彼女は立ち止まった。
遠くに、別の屋台が見える。
煙が、ほんのり立っている。
今日は、もう閉まっているだろう。
それでも、
フィアネはそこを、じっと見つめた。
(あそこに並ぶものは……
きっと、
“危なくないのに、温かい”)
胸の奥が、少しだけ、きゅっとなる。
理由は分からない。
ただ、そう思った。
「……明日」
フィアネは、小さく言った。
「明日、
また来よう」
エレハンドロとヨハムは、何も言わなかった。
だが、その言葉を“決定”として受け取った。
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山へ戻る道。
夜風が冷たい。
フィアネは、ランドセルを背負い直す。
この中には、
転生前の金。
七十二万六千九百円。
それは、
命を賭けずに稼いだ、
唯一の“過去の労働”。
(これを、
どう使うか)
(……無駄には、しない)
彼女は、強く思った。
今日、街道で見たものは、
まだ“買っていない”。
だが――
確かに、何かが動いた。
値段だけでは測れない何かが、
値段を通して、近づいてきた。
フィアネは、知らない。
明日、
その“油のにおい”が、
誰かとの出会いになることを。
ただ――
今日は、
値段を見て、帰る夜だった。
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次回予告(第11話)
「コロッケ」
――油の音。
――紙包み。
――半分こ。
そして、
降りないはずの魔女が、
“味”に触れる。
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