63:ダリル-3
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ヒューイは一人、備品庫に向かっていた。先ほどウォースの軍艦が境界水域に姿を見せ、こちらを挑発してきたが、何事もなくやり過ごし、少しだけほっとした。そろそろ次の補給船が来る頃で、どうせウォースとやり合うのなら、補給が終わってからの方が良い。
「まぁ、そんなこと言ってたって、あっちが来ちゃえば戦うしかないけどな……」
弾薬や帆、ロープなどは専用の保管庫で管理されているが、モップだとかバケツだとか盥だとかというような細々した備品だって無いと困るし、意外と戦や時化の時に、海に放り出されてしまうことも多いのだ。
「ん~と、シーツはそんなに減らないから良いとして……ああ、やっぱりバケツがずいぶん減ってるなぁ。今度の補給船でちょっと多めに分けて貰えないか通信鳥で連絡して貰おうかな……」
小脇に抱えたチェックシートに数を書き込んでいく。画板の上に小さなインク壺が就いている筆記版もあるが、ヒューイが使っているのは細い木炭である。木炭は折れやすいが、艦の上ではいきなり揺れてインクが飛び散ることがある。この木炭で文字を書くのも、ヒューイが船の上で覚えたことの一つだった。
備品のチェックをしていると、軋んだ音を立てて扉が開いた。だが、ここではよくあることなので気にしないでいたが……人が入ってくる気配がしてさすがにヒューイもそちらを見た。
そこにいるのは、ダリルだった。廊下の明かりを受けて立つダリルの顔は、暗くなってよく見えない。
「……ダリル。どうしたの? 何か用?」
今は確かダリル達は甲板の清掃をしていたのではないか。またサボっているのだろうか。こんな所にいるところを見つかったらダリルにだって良くないだろうに。
だが、ダリルはいきなり思いもしないことを口にした。
「……なぁ、ヒューイ。艦長にはやらせてるんだろ?」
「は?」
艦長にはやらせてるんだろ?
やらせる? やらせるって……何を?
「え? 何を?」
「そういうカマトトとかどうでも良いんだよ。艦長にやらせてんなら、俺の相手もしろよ」
言うなりヒューイは肩を掴まれ、床に引き釣り倒された。画板にピンチで止めていた在庫表が床に投げ出され、木炭はきっと踏みつけられているだろう。
なんだこいつ。自分の仕事をさぼるだけじゃなく、人の仕事の邪魔しやがって。さすがのヒューイもイラッとした。
「ダリル、これ、普通に軍律違反だぞ?」
艦の中で軍務中に、よりにもよって艦長の従卒を水兵が陵辱しようとしているのか。見つかったら軍法会議……いや、下手すると甲板から吊されても仕方の無い行為だ。
「はっ。お前が黙ってれば良いのさ。それとも、皆を呼んでやろうか? 艦長のお手つきが相手をしてくれるって、皆大喜びだろうな」
「……ダリル。お前、結構腐ってるな」
「何だと!?」
ダリルの声が大きくなった瞬間に、ヒューイはダリルのみぞおちを蹴り上げた。ダリルの体が宙を浮き、そのまま向かいの柱に打ち付けられた。信じられないという顔でダリルがこちらを見たが、次の瞬間には顔を真っ赤に怒らせてヒューイに掴みかかってくる。
「お前がいけないんだぞ! ガキのくせに、色仕掛けで艦長の従卒とか! そうやって楽しやがって! 目障りなんだよ!!」
「軍隊で楽をしようという、その考えがおかしいだろう!」
一度はダリルに床に引き倒されたヒューイだが、二度同じ失態を犯すようなことはなかった。ダリルの手は簡単に叩き落とされ、組み手さえも組ませて貰えない。
「楽してんのはお前だろ! 俺らがロープ持って走り回ってるような時に、偉そうに艦長の傍でふんぞり返りやがって!」
「……だったらダリルが艦長の従卒になれば良い。朝は皆より一時間早く起きて勉強して、船中走り回って、仕事が終わった後に剣術の稽古をする生活を、ダリルも送ってみれば良い。それがどれだけ“楽”な仕事か、きっとダリルにも分かるから」
「偉そうなこと抜かすな!!」
それでもなお掴みかかってくるダリルを躱して、足払いをかけるとダリルは簡単に転がされた。ダリルが憎々しげに下からヒューイを見上げてくるが、このくらいで床に這わされるなんて、どう考えてもダリルの実力不足だろう。
「ダリル。俺みたいなチビに床に這わされる気分はどうだ? なぁ、あんたがいっつも調練をサボってるから、今、こんなガキに這わされてんじゃないのか? これが移船戦で、俺が海賊だったらどうするんだよ。戦になれば、真面目にやった奴だけが生き残るんだ。なぁ、悪いことは言わないからさ。自分のために、自分を鍛えろよ」
「う、うるせぇ! ヒューイのくせに生意気に俺に説教する気か!」
そう言った瞬間。
ダリルの右目の脇に鋭い何かがダンッと突き下ろされた。
「ひっ!」
見ると、それはただのモップの柄だった。だが、もしあれが右目に振り下ろされていたら……そう思うと、ダリルの背中に冷たい汗が流れる。
見上げるヒューイの顔には何の感情も感じられなかった。こんな表情、今まで見たことがない。
「なぁ、ダリル。どんな生き物もね、魔獣だって人間だって、目を貫かれたら脳まで壊されて死ぬしかないんだよ。分かる? 人間は、簡単に死ぬんだ」
それは、たくさんの死を見てきた男の顔だった。あまりにも、たくさんの死を見てきた男の────。
「だから、ね? 悪いことは言わないから、自分が死なないためには何が必要なのか、もう少し考えた方が良いと思うよ」
ヒューイはそれだけ言って、そのまま外に出て行った。
備品庫のドアが軋んだ音を立てながらバタンと閉まると、ダリルは切れ切れにそっと息を吐き出した。今まで息を止めていたのだ。止めていたことにも気づかなかった。
「は……ちくしょう、生意気言いやがって……!」
なにも返せなかった。素手でやり合っても、何一つ返せなかった。
もしあの時ヒューイがやろうと思えば、自分は確かに簡単に死んでいたのだ。アレが自分なら、絶対に手加減なんかしなかった。すれば自分が殺されるから。でもあいつは俺に恩情をかけたのだ。手加減をされたのだ。自分なんて、ヒューイの相手にもならないような存在だから……!!
チクショウ! チクショウ!! あんなチビのくせに! 艦長に体を売って従卒になるような卑怯者のくせに……! それなのに、それなのに俺に手加減するなんて……! くそう!!
ダリルは床をのたうち回るほど悔しいと思った。
言い返せない自分が。やり返せない自分が。ヒューイよりも弱く、何かあれば真っ先に殺されるような自分の無力が悔しかった。
その日から、ダリルの調練は真剣な物に変わった。振り下ろす素振りの一振り一振りに重みがあり、それは誰かを斬り殺す勢いにすら感じられた。
「お、ダリル。気合い入ってるな。まぁ、最近デッセルの船団からしょっちゅうちょっかいかけられてるし、いつ戦闘態勢になってもおかしくないんだ。お前らもダリルを見習って気合いを入れろ!」
調練をつけている伍長がそう言って回りの男達に発破をかける。水兵達はダリルの急に変わった様子に目を見張り、何かあったのかとヒソヒソ話しているが、そんな物は気にならなかった。
くそう! くそう!! 今に見てろ! いつまでもあんなガキに舐められて堪るかよ!
そう思いながら、ダリルはいつまでも真剣に剣を振り下ろしていた。
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