第八話 揺り籠の記憶、夕暮れの語らい
ベルンハルト城の南庭に面したテラスに、黄金色の夕暮れの光が静かに降り注いでいた。
葡萄畑を渡る初秋の風が、白壁に絡まる蔦の葉をサラサラと揺らし、遠くの湖からは水鳥たちの穏やかな鳴き声が聞こえてくる。
「ねえ、お母様。お母様とお父様は、どうやって出会ったの?」
私の膝の上で、絵本を閉じた小さな女の子――四歳になる我が愛娘のリリアが、漆黒の髪を揺らしながら、ヴィルフリート譲りの澄んだ青い瞳をパチクリとさせて見上げてきた。
ふっくらとした小さな手のひらが、私の指をきゅっと握りしめている。
「ふふ、リリアはお父様とお母様の昔のお話が聞きたいの?」
「うん! オットーおじちゃんがね、『お前のお母様は、かつて軍神と呼ばれた閣下を虜にした、世界一かっこいい大魔導士だったんだぞ』って言ってたの!」
オットー大尉ったら、幼い子にそんな大仰な吹き込みをして……と苦笑しつつも、私の胸の奥に、懐かしくも切ない記憶の数々が鮮やかに蘇ってきた。
「そうね……リリアが大きくなったら、いつかちゃんと話してあげようと思っていたの。お母様とお父様が、どんな場所で出会い、どうやって家族になったのかを」
私はリリアの柔らかな髪を優しく撫でながら、夕暮れの空を見つめた。
「お母様はね、リリア。ずっと昔、ここガルディニア帝国とは違う、遠いルーエン王国という国で生まれたの」
「ルーエン王国? リリアの知らない国だわ」
「ええ。もうずっと昔のお話よ。その頃、世界ではとても長くて悲しい戦争が起きていたの。十年間も、泥と雨と煙の中で、大勢の兵士たちが戦っていたわ」
私は、幼いリリアにも分かるように、言葉を一つひとつ選びながら静かに語り始めた。
「お母様はね、少しだけ魔法が得意だったから、若い頃に軍隊に入って、泥だらけの塹壕という穴の中で、小銃を持ち、戦術魔法を使って戦っていたの。毎日が寒くて、お腹が空いて、いつ空から爆弾が落ちてくるか分からない……そんな真っ暗な場所にいたのよ」
「お母様……怖くなかったの?」
リリアが心配そうに眉をきゅっと寄せて、私の胸に顔を埋めてきた。
私はその小さな背中を優しくトントンと叩いた。
「怖かったわ。とても怖かった。……でもね、何よりも悲しかったのは、お母様が命がけで戦って成果を挙げても、偉い貴族の上官たちはその手柄をすべて自分のものにして、お母様たちの部隊にはご飯も弾薬も届けてくれなかったことよ」
「ひどいわ……!」
「ええ。そしてね、敵の首都の近くまで攻め込んだ時、その上官たちは部下を全員見捨てて、自分たちだけ逃げ出してしまったの。お母様の大切な仲間たち……クラウスおじさんや、ミリアおばさんは、最後までお母様を守って、戦場で星になってしまったわ」
リリアの瞳に、ポロポロと涙が浮かんだ。
私はその涙を指先で優しく拭った。
「そしてね、お母様も大怪我をして、一人ぼっちで倒れていたの。弾薬も尽きて、もうこれで死んでしまうんだわ……と思ったその時、煙の向こうから現れたのが――」
「お父様……?」
「そう。敵軍の将軍だった、貴女のお父様よ」
あの日、凍てつくトーチカの入口に立ち、泥だらけの私を抱き起こしてくれたヴィルフリートの姿を思い出す。
「お父様はね、敵だったお母様を捕虜として捕まえたの。でも、乱暴なことなんて何一つしなかったわ。最高の病院に入れてくれて、毎日温かいスープを運んでくれて、お母様の傷を一生懸命治してくれたの。そしてね……お母様がどんなに頑張って、どんなに苦しんできたかを、世界で一番理解してくれたのよ」
「お父様、すっごく優しい!」
「ええ、本当にね。……その後、戦争が終わった時、お母様の生まれ故郷の国は、自分たちの嘘や失敗を隠すために、お母様のことを『戦死した』って嘘の報告をして、帰る場所をなくしてしまったの」
「ええっ!? お母様が生きてるのに!?」
「そう。お母様には、もう帰るお家も、迎えてくれる家族もいなくなってしまったの。……その時、お父様がね、お母様の手を握って言ってくれたのよ。『私の妻になって、一緒にこのベルンハルトの地で生きよう』って」
リリアはパッと顔を輝かせ、嬉しそうに私の胸の中で飛び跳ねた。
「わあ……! 絵本のお姫様みたい!」
「ふふ、お姫様というよりは、命を救われた迷子ね。お母様はね、お父様の手を取って、この街に来たの。最初は敵国から来たお母様を怖がる人もいたけれど、葡萄畑を元気にしたり、お薬を作ったりして、みんなと仲良くなったわ。そして、神様の前で結婚式を挙げて……世界で一番宝物の、リリアが生まれてきてくれたのよ」
私がリリアの額に優しく口づけを落とすと、テラスの扉が静かに開かれた。
「何の昔話をしているんだい?」
仕事を終えたヴィルフリートが、上着を脱ぎながら笑顔でテラスへと現れた。
数年の歳月を経て、その精悍な顔立ちには領主としての風格と、家族を慈しむ大人の包容力が満ちていた。
「お父様ーっ!」
リリアが私の膝から飛び降りて、ヴィルフリートの足元へと駆け寄った。
ヴィルフリートは軽々とリリアを抱き上げ、高い高いをして笑った。
「お父様! リリア、お母様からお父様とお母様の出会いのお話を聞いたの! お父様、泥だらけのお母様をお嫁さんにしたんでしょう!?」
「おや……オットー大尉に続いて、エレナまでリリアにその話をしたのかい? まったく、少し恥ずかしいな」
ヴィルフリートは照れくさそうに頬を掻きながら、リリアを抱いたまま私の隣の長椅子に腰掛けた。
そして、空いた片腕で、そっと私の肩を抱き寄せた。
「だが、リリア。お父様はね、あの泥濘の戦場で、お母様の手を取った日のことを、生涯で一番誇りに思っているんだよ。お母様が私の手を取ってくれたからこそ、今の平和なベルンハルトがあり、こうしてリリアという宝物に出会えたのだからね」
「うん! リリア、お父様もお母様もだーいすき!」
リリアが二人の首に抱きつき、テラスに明るい笑い声が響き渡った。
◇
夕日が完全に沈み、西の空には一番星が青白く輝き始めていた。
ヴィルフリートの胸の中で、リリアは安心しきった寝息を立てて眠りに落ちていた。
「子供部屋に寝かせてくるよ」
「ええ、お願いしますね」
ヴィルフリートがリリアを抱いて屋敷の中へ入っていく背中を見送りながら、私は夜風に吹かれて夜空を見上げた。
(前世の記憶を持って生まれ変わり、泥濘の塹壕で命を削り、理不尽に裏切られたあの戦争……)
あの過酷な旅路のすべては、決して無駄ではなかった。
あの暗闇があったからこそ、私はヴィルフリートという至高の光に出会い、愛することの温もりを知ることができた。
戦友たちの魂も、故郷の両親も、きっとこの満天の星空のどこかから、私のこの幸せを見守ってくれているはずだ。
(私は、この温もりを守り続ける。この愛する家族と、平和な大地と共に、明日を生きていくわ)
部屋から戻ってきたヴィルフリートが、私の肩にそっと毛布をかけてくれた。
振り返り、微笑みかけると、彼もまた優しく微笑み返し、私の冷えかけた手を包み込んでくれた。
二つの手のひらが重なり合う温もりの中に、確かな希望と、永遠の愛が宿っていた。
(完)
気が向けば番外編的なものを追加するかもしれません。
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