第七話 戦禍の残滓と築きゆく温もり
帝都から南へ向かう蒸気列車に揺られること二日。
車窓の外には、かつて前線で見ていた荒涼とした泥濘の塹壕とはまるで別世界の、息を呑むほど美しい風景が広がっていた。
温暖な陽光を浴びてエメラルド色に輝く緩やかな丘陵地帯、整然と植えられた広大な葡萄畑、そして遠くに見える澄んだ青い湖。
そこが、ヴィルフリートの故郷――帝国南部に位置するベルンハルト伯爵領だった。
「どうだ、エレナ。気に入ってくれたか?」
コンパートメントの向かいの座席から、ヴィルフリートが穏やかな笑みを浮かべて尋ねてきた。
軍服ではなく、上質なチャコールグレーの平服を着た彼は、どこから見ても領民を愛する若き領主そのものだった。
「はい……本当に、夢のように美しい場所ですね」
「これからは、ここが君の家だ。何一つ遠慮することはない」
ヴィルフリートは優しく私の手を握りしめた。
だが、伯爵領に到着してからの日々は、決して手放しの平穏ばかりではなかった。
◇
ベルンハルト城に到着した当初、出迎えてくれた使用人や領民たちの視線には、隠しきれない緊張と警戒の色が滲んでいた。
それも無理からぬことだった。
十年にわたる大戦で、この領地からも多くの若者が兵士として出征し、命を落としていたのだ。
いくら名将ヴィルフリート閣下の連れてきた妻とはいえ、元敵国ルーエン王国の魔導士である私に対して、最初から心を開けるはずがなかった。
「あの方が……ルーエン王国から来られたという奥様か……」
「戦場であの恐ろしい魔導砲撃を撃っていた魔導士様なんだろうか……」
廊下の隅や庭先で交わされる、使用人たちの控えめな囁き声。
だが、私は決して怒ったり、身分を笠に着て威圧したりはしなかった。
かつて泥濘の塹壕で命の儚さを知った私にとって、大切な家族を戦争で奪われた人々の悲しみと警戒心は、痛いほど理解できたからだ。
(言葉で弁解しても意味はないわ。私の行動で、この街の人々の役に立つことを示さなければ)
私は前世の知識と、長年培ってきた魔導の技術をフルに活用し、領地の復興支援へと乗り出した。
第一に、戦争による労働力不足と魔石の徴発によって荒れ果てていた葡萄畑の土壌改良だった。
私は農民たちと共に泥にまみれながら畑に入り、土壌の酸度とマナの循環を調査した。
そして、前世の近代農学知識と第2階梯の地属性抽出魔法を組み合わせ、身近な家畜の堆肥と枯草から超高効率の『魔導循環有機肥料』を開発したのだ。
さらに、初冬の寒波による霜害を防ぐため、安価な屑魔石でも数ヶ月稼働する『微小熱循環ランプ』を考案し、すべての葡萄畑へと無償で配備した。
「う、嘘だろ……! 今年の葡萄、去年までの不作が嘘のように粒が大きくて甘いぞ!」
「奥様が作ってくださった熱ランプのおかげで、霜で枯れた苗が一本もない!」
収穫の秋、葡萄農家のおじいさんたちが、籠いっぱいに実った紫色の葡萄を抱え、涙を流して城へと駆け込んできた。
第二に、領都の診療所における医療支援だった。
戦争で手足を負傷した帰還兵や、物資不足で適切な治療を受けられずにいた孤児たちのため、私は衛生兵長ハンナの協力のもと、領立病院の改革に着手した。
前世の衛生管理(煮沸消毒、手洗いの徹底、換気)を導入し、自らの魔力で安価かつ高純度の外傷軟膏や解熱ポーションを大量に調合して提供した。
「奥様! 息子の高熱が、奥様のお薬のおかげですっかり下がりました!」
「戦争で痛めていた足の傷が、こんなに綺麗に塞がるなんて……本当にありがとうございます!」
領民たちの私を見る目は、わずか半年で完全に変わっていた。
警戒と恐怖の眼差しは、心からの敬愛と親しみの笑顔へと変わっていったのだ。
市場を歩けば、八百屋のおばさんが「奥様、今朝採れたてのトマトを持っていって!」と声をかけてくれ、子供たちが「エレナ様ー!」と笑顔で駆け寄ってくるようになった。
「まったく、うちの奥様には敵わないな」
ある日の夕暮れ、執務室で報告書をまとめていたヴィルフリートが、私を後ろから抱きしめてクスクスと笑った。
「領民たち全員が、私よりも君の言うことを聞くようになってしまったよ。先週など、村の長老たちが『閣下、奥様を泣かせたら領民全員でストライキを起こしますぞ』と直談判に来たくらいだ」
「ふふ、ヴィルフリート様が意地悪をしなければ、泣いたりしませんよ」
私が振り返って微笑むと、ヴィルフリートは愛おしそうに私の額に口づけを落とした。
◇
そして――春の柔らかな日差しが降り注ぐ日、ベルンハルト城の大聖堂において、私たちの正式な結婚式が執り行われた。
純白のシルクに繊細なレースが施された花嫁衣装。
かつて泥だらけの軍服しか着たことがなかった私が、鏡の中に立つ自分の姿を見て息を呑んでいると、控え室の扉が勢いよく開いた。
「わあ……! エレナ、なんて綺麗な花嫁姿なんだい!」
軍服の胸に勲章を輝かせたハンナと、正装したオットー大尉が入ってきた。
オットー大尉は目を丸くして口笛を吹き、ハンナはハンカチで目元を押さえて鼻をすすっていた。
「オットーさん、ハンナさん! 帝都から来てくださったのですね!」
「当たり前だろ! 俺たちの英雄閣下と、世界一美しい奥様の晴れ舞台だぜ! 師団の連中もみんな祝福の手紙を預けてきてるんだ」
「本当に……あんたがこんなに幸せになってくれて、私しゃ胸がいっぱいだよ」
大聖堂の鐘が高らかに鳴り響き、重厚な扉が開かれた。
パイプオルガンの荘厳な音色が響く中、バージンロードの先で待っていたのは、漆黒の礼装に身を包んだヴィルフリートだった。
参列した数百人の領民たちや元部下たちからの、温かな拍手と歓声。
祭壇の前で、ヴィルフリートは私の手を取り、青い瞳に熱い光を宿して誓いの言葉を口にした。
「エレナ・フォン・ベルンハルト。私は生涯をかけて貴女を敬い、愛し、共に生きることを誓います」
「ヴィルフリート・フォン・ベルンハルト。私もまた、生涯をかけて貴方を愛し、支え続けることを誓います」
指輪が交換され、ベールが上げられる。
重なり合う唇に、大聖堂を揺るがすほどの祝福の拍手が降り注いだ。
振り返れば、大聖堂のステンドグラスから差し込む光の中に、かつて散っていったクラウスやミリア、そして故郷の両親が、温かく微笑んで手を振っているような気がした。
(私、幸せになるわね。みんながくれた命を、精一杯大切に生きていくわ)
私は胸の中で静かに祈りを捧げ、隣に立つ最愛の夫の手を、強く、強く握り返したのだった。
よろしければ評価・リアクションお願いします。




