第六話 選ばれた未来と新たな宣誓
夜明けの薄明かりが、天幕の白い布地を青白く染め上げていた。
私はベッドから起き上がり、鏡の前に立った。
鏡の中に映るのは、泥と硝煙に塗れていたかつての自分ではない。傷は綺麗に癒え、血色を取り戻した頬と、短く切り揃えられた亜麻色の髪。
そして何より、その琥珀色の瞳には、かつて塹壕の中で漂わせていた死人のような虚無感は、もはや微塵も残っていなかった。
「おや、もう起きていたのかい?」
天幕の入り口から、朝食の盆を抱えたハンナが入ってきた。
湯気を立てる焼きたてのライ麦パンと、温かいミルク、そしてリンゴのジャム。
「ハンナさん、おはようございます」
「顔色がずっと良くなったね。……昨夜、閣下から話を聞いたんだろ?」
ハンナは悪戯っぽく笑いながら、机の上に盆を置いた。
私は少し俯き、熱いミルクのカップを両手で包み込んだ。
「……はい。身分を偽って街で暮らすか、閣下の妻になるか……二つの選択肢をいただきました」
「それで、あんたはどうしたいんだい?」
ハンナは丸椅子にどっかりと腰掛け、温かな眼差しで私を見つめた。
「私は……祖国を裏切るような気がして、少し怖いのです。戦場で死んでいったクラウスやミリア、そして餓死した両親のことを思うと……私だけが敵国の将軍の妻になって、幸せになっていいのだろうかと……」
私の胸の奥に澱のように残っていた最後の迷い。
それを聞いたハンナは、ふっと優しく目を細め、私の手を優しく包み込んだ。
「あんたは本当に優しい子だね。……でもね、エレナ。死んだ者たちは、残された生者に不幸であってほしいなんて、これっぽっちも思っちゃいないよ。特にあんたの部下たちや親御さんは、あんたが泥水の中で命を散らすのを何よりも恐れていたはずだ」
「ハンナさん……」
「あんたはこれまで、十分に苦しみ、他人のために戦ってきた。もう誰かのために自分を犠牲にする必要はないのさ。あんたを心から愛し、命がけで守ってくれる男の手を取ることは、決して恥じることじゃない。胸を張って、自分の幸せを選びなさい」
ハンナの言葉が、私の背中を温かく押してくれた。
そこへ、天幕の外からオットー大尉が顔を覗かせた。
「よう、エレナ准尉! 邪魔するぜ。……閣下が東の丘で待ってるぜ。馬の手綱を持って、そわそわしながら行ったり来たりしててな、見てるこっちが恥ずかしくなるくらいだ」
「オットー大尉……」
「なあ、エレナ。閣下は士官学校時代からずっと、誰に対しても弱みを見せず、兵士の命を背負って戦い続けてきたお方だ。そんな閣下が、あんたの前でだけは、ただの不器用な一人の男になるんだよ。あんたとなら、閣下も戦場の亡霊から解放されて、本当の幸せを掴める。……俺からも頼む。閣下の隣にいてやってくれ」
オットー大尉の真摯な言葉に、私の瞳から迷いの霧が完全に晴れ渡っていった。
◇
宿営地の東に位置する小高い丘。
朝日に照らされて黄金色に輝く草原の上に、一頭の黒馬の傍らで佇むヴィルフリートの姿があった。
軍服の裾を朝風になびかせ、水平線の彼方を見つめていた彼は、私の足音に気づくと、パッと顔を明るくして振り返った。
「エレナ……来てくれたか」
「はい、閣下」
私は彼の目の前まで歩み寄り、立ち止まった。
澄み渡る朝の空気の中、二人の視線が真っ直ぐに交錯する。
「答えは……出たか?」
ヴィルフリートの声には、戦場では決して見せない微かな緊張と不安が滲んでいた。
私は深呼吸を一つし、静かに首を横に振った。
「閣下……私にはもう、帰るべき祖国はありません。私を使い潰し、死んだことにした国に、捧げる義理も未練もありません」
「……エレナ」
「私は、前世の記憶に縛られ、他人の期待に応えるためだけに戦ってきました。でも……貴方の腕の中で、貴方の優しさに触れて、初めて自分の心で生きたいと思えたのです」
私はヴィルフリートの青い瞳を真っ直ぐに見つめ、一歩前に踏み出した。
「私はもう、過去のために生きるのはやめます。これからは、貴方と共に、貴方の愛するベルンハルトの土地で、新しい明日を紡ぎたい。……私でよろしければ、貴方の妻にしてください」
私の言葉を聞いた瞬間、ヴィルフリートの表情が劇的に緩んだ。
戦場を支配していた歴戦の名将の顔が、愛する女性に想いを受け入れられた一人の青年の、至福の笑顔へと変わった。
「ああ……! エレナ……!」
ヴィルフリートは叫ぶように私の名を呼ぶと、力強く私を抱きしめ、宙へと抱え上げた。
柔らかな草の匂いと、彼の軍服から漂う温かな香りが私を包み込む。
「ありがとう、エレナ……! 我が命に代えても、貴女を生涯愛し、幸せにすることを誓おう!」
ヴィルフリートは私を地面へと降ろすと、優しく私の頬を包み込み、その唇を重ねてきた。
朝露のように清らかで、温かな誓いの口づけ。
十年の泥濘と戦火を越えて、私はついに、本当の自分の居場所を見つけ出したのだ。
◇
それから一ヶ月後。
停戦条約の批准を終えたガルディニア帝国軍第3師団は、全軍を率いて帝都への凱旋行進を行った。
大通りの両脇には、戦争の終結を歓喜する何十万人もの帝都市民が詰めかけ、色とりどりの花吹雪と万雷の拍手が降り注いでいた。
その先頭を進むオープンカーの助手席には、白銀の礼装用ドレスを身に纏った私の姿があった。
「見ろ! ヴィルフリート閣下の隣にいらっしゃる美しい女性はどなただ!?」
「閣下が戦場からお連れになった、命の恩人であられる魔導士様だそうだ!」
「閣下、ご結婚おめでとうございます!」
市民たちからの温かな歓声に、私は胸がいっぱいになりながら手を振った。
かつて敵国として砲火を交わしたこの街の人々が、今や私を温かく迎え入れてくれている。
皇宮の大広間で行われた戦勝祝賀会において、一部の保守派貴族から「元敵国の平民魔導士を妻に迎えるなど」という囁き声が上がった。
だが、ヴィルフリートは玉座の前で胸を張り、毅然とした声で広間に響かせた。
「我が妻エレナは、戦場において敵味方を超えて命を尊び、我が師団の防衛線を誰よりも熟知していた至高の戦術魔導士であります。彼女の知性と高潔さは、我がベルンハルト家の何よりの誇りであります!」
ヴィルフリートの一喝に、居並ぶ貴族たちは誰も反論できず、静まり返った。
玉座に座すガルディニア帝国皇帝は、満足そうに頷き、立ち上がった。
「ヴィルフリート・フォン・ベルンハルト准将。そなたの卓越した防衛戦術と、帝都防衛の功績を称え、伯爵位の継承を正式に認める」
「ははっ、身に余る光栄にございます」
「そして――エレナ・アルスター殿」
皇帝の威厳ある視線が、私へと向けられた。
「そなたが戦場で示した類まれな魔導の才と高潔な人柄は、我が軍の報告書によって余の耳にも届いておる。我がガルディニア帝国は、過去の所属を問わず、真に優れた才能と徳を持つ者を歓迎する。本日より、そなたをベルンハルト伯爵夫人として正式に帝国貴族名簿に登録することを宣言する」
「謹んで拝命いたします、皇帝陛下」
私は深々とカーテシーを捧げた。
祖国ルーエン王国から「戦死」として切り捨てられた名もなき平民の魔導士は、今、新たな祖国において、名誉ある伯爵夫人としての第一歩を踏み出したのだった。
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