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泥濘の塹壕から敵将の腕の中へ ~手柄を奪われ見捨てられた魔導士は、敵国の名将に愛される~  作者: だんよ


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第五話 落日の祖国と戦死宣告

 天幕の外で高らかに鳴り響いたファンファーレは、十年にわたる泥沼の戦争の幕引きを告げる号砲だった。


 ルーエン王国軍の「乾坤一擲・縦深突破大作戦」の完全な破綻。

 国家備蓄の魔石の九割と、十万人を超える選抜兵力を一度に喪失したルーエン王国には、もはや前線を維持する力すら残されていなかった。

 帝国軍の怒涛の反撃の前に各地の要塞は次々と陥落し、王都の喉元まで攻め込まれたルーエン王国政府は、ついに無条件降伏に近い形で停戦条約の締結を申し入れたのだ。


「戦争は終わったよ、エレナ」


 その日の夕暮れ、天幕に入ってきたヴィルフリートは、軍服のボタンを外し、静かな笑みを浮かべて私に告げた。

 その青い瞳には、長く過酷な責務を果たし終えた男の、深い安堵と疲労が滲んでいた。


「我が帝国とルーエン王国との間で、正式な停戦協定が調印された。国境線の再画定と賠償金の支払いが合意され、両軍の戦闘行為はすべて停止した」

「……そうですか。本当に、終わったのですね」


 私はベッドの端に腰掛け、窓の外に広がる夕焼け空を見つめた。

 十年。あまりにも長すぎた戦争。

 無数の命が泥の中に消え、私の両親も、クラウスも、ミリアも、もう二度と戻ってはこない。

 祖国の敗北に対して、不思議なほど悔しさや悲しみは湧いてこなかった。

 あったのは、ただ「もう誰も泥濘の中で死ななくていいのだ」という、空虚に近い静寂だけだった。


「捕虜交換の協定も現在進行中だ。両国の捕虜収容所から順次、将兵の送還が行われる手筈になっている。……貴殿が故郷へ戻れるのも、そう遠くはないはずだ」

「……はい」


 ヴィルフリートの言葉に、私は短く頷いた。

 だが、「故郷へ戻る」という言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥に冷たい隙間風が吹き抜けた。

 両親は飢餓で亡くなり、実家の畑も家屋も軍に接収されている。

 私を待つ人間など、ルーエン王国のどこにも一人として存在しないのだ。

 そんな私の憂いを帯びた表情に気づいたのか、ヴィルフリートは何かを言いかけ、しかし静かに口を噤んだ。


 ◇


 それから二週間後。

 帝国軍の輜重隊によって、ルーエン王国から提出された『第1次・第2次捕虜交換公式名簿』が前線司令部へと届けられた。

 だが、その名簿を確認したヴィルフリートとオットー副官の表情は、これまでに見たことがないほど険しいものだった。


「エレナ、少し話がある」


 天幕に入ってきたヴィルフリートは、一枚の公文書を私の前のテーブルに置いた。

 ルーエン王国陸軍省の朱印が捺された、公式の軍籍異動通知書だった。

 その背後で、オットー副官が苦々しげに腕を組み、深いため息をついている。


「……これは?」

「ルーエン王国政府から届いた、将兵の生死確認リストだ。……結論から言おう。貴殿の名前は、捕虜交換の名簿には存在しなかった」

「え……? 私の名前が……?」

「それだけではない」


 ヴィルフリートは痛ましげに目を細め、書類の一行を指差した。


「ルーエン王国の公式記録において――『エレナ・アルスター准尉』は、敵首都近郊の戦闘において敵陣へ単身突撃を敢行し、名誉の戦死を遂げたことになっている」

「戦死……私が……?」


 息が止まるかと思った。

 生きている私が、祖国の記録の上ではすでに「死人」として処理されていたのだ。


「なぜ……そんなことに……」

「我が軍の特務機関を通じて裏を取らせた」


 オットー大尉が怒りを抑えきれない様子で口を開いた。


「貴殿の上官であるバレット少佐だ。あの男は、前線崩壊時に部下を見捨てて逃亡した己の敵前逃亡罪と無能が露呈することを恐れたのだ。そのため、本国司令部に対し『自らの部隊は敵の圧倒的な大軍に対し最後まで奮戦したが、自分と側近数名を除く全将兵が玉砕・戦死した』と虚偽の戦闘詳報を提出した」

「……っ!」

「バレット少佐は『英雄的撤退を指揮した名将』として勲章を授与され、すでに中央で出世街道に乗っている。……もし今、貴殿が生きて捕虜として本国へ帰還すれば、バレットの嘘がすべて白日の下に晒されることになる。奴らにとって、貴殿の生存は不都合極まりないのだ」


 頭の芯が冷え切っていくのを感じた。

 手柄を奪われ、見捨てられ、仲間を全員殺された挙句――生きて帰ることすら、祖国の腐敗した貴族たちによって拒絶されていたのだ。


「もし貴殿がこのままルーエン王国へ送還されれば……バレットとその背後の名門貴族の手によって、事故に見せかけて暗殺されるか、人知れず地下牢へ消される可能性が極めて高い。あの国は、自らの面子を守るためなら、真の英雄を平気で踏み躪る掃き溜めだ」


 ヴィルフリートの言葉は、冷酷な現実を容赦なく突きつけていた。

 祖国に、私の帰る場所など最初からなかったのだ。


「私は……どうすればいいのでしょう」


 私の唇から、力のない掠れ声が漏れた。

 死人として祖国へ戻り、名を変えて追っ手に怯えながら日陰者として生きるのか。

 それとも、見知らぬ他国へ流民として逃げ延びるのか。


 絶望に俯く私の前に、ヴィルフリートがゆっくりと歩み寄り、片膝をついた。

 彼は私の冷たくなった両手を、自らの温かな両手で包み込んだ。


「エレナ。貴殿に、二つの選択肢を提示したい」

「……二つの選択肢、ですか?」

「一つは、帝国政府の難民保護プログラムを適用し、偽の身分証を発行して、帝国内の好きな街で一人の市民として自由な生活を送ることだ。生活に必要な資金と住居は、私が個人的に一生涯分を保証する」


 ヴィルフリートの青い瞳が、真剣な光を帯びて私を射抜いた。


「そして――もう一つの選択肢だ」

「……」

「私の妻として、ガルディニア帝国で私と共に生きてほしい」

「え……!?」


 予想もしなかった言葉に、私は思わず目を見開き、息を呑んだ。


「か、閣下……妻って……私と閣下は、敵同士で……しかも私は平民の捕虜ですよ!?」

「敵同士だったのは過去の話だ。戦争は終わった」


 ヴィルフリートは揺るぎない声で告げた。


「私は貴殿の身分など気にしていない。貴殿がどれほど高潔で、どれほど聡明で、どれほど温かな心を持っているか……この数週間の対話で、私は骨の髄まで知った。戦場で貴殿の部隊と刃を交えていた時から、私は貴殿という稀代の魔導士に心を奪われていたのだ。……私は一人の男として、貴殿を心から愛している。貴殿を私の生涯の伴侶として迎え、あの美しいベルンハルトの領地で、共に平和な明日を紡ぎたいのだ」


 ヴィルフリートの告白は、まるで冬の荒野に咲いた一輪の奇跡の花のように、真っ直ぐで、温かかった。

 彼の手のひらから伝わってくる熱が、凍てついていた私の胸の奥を激しく揺さぶる。


「もちろん、今すぐ返事をしろとは言わない。祖国を捨てること、敵国の将軍の妻になること……貴殿にとってどれほど重い決断であるかは分かっている。……ゆっくり考えてくれ。私は、貴殿がどんな道を選ぼうとも、貴殿の幸せを全力で守る」


 ヴィルフリートは優しく微笑むと、私の手をそっと離し、天幕を後にした。


 一人残された天幕の中で、私は自分の胸に手を当てた。

 ドクン、ドクンと、激しく脈打つ心臓の音。

 それは、十年の泥濘の塹壕の中で一度たりとも感じたことのない、生きている実感と、甘やかな熱情の鼓動だった。


 その夜、私はベッドの中で眠れぬ夜を過ごした。

 前世の記憶、祖国での理不尽な日々、散っていった仲間たちの笑顔、そしてヴィルフリートの温かな眼差し。

 私の選ぶべき未来は、すでに心の中で静かに形作られつつあった。


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