第四話 氷解の檻と敵将の真意
ふわりと、鼻腔をくすぐる温かなハーブの香りで目が覚めた。
泥と硝煙の悪臭ではない。清潔なリネンのシーツの感触と、パチパチと心地よい音を立てて爆ぜる薪ストーブの温もり。
私が最後に覚えていたのは、凍てつくトーチカの冷たい床と、血まみれになって息絶えたクラウスやミリアの姿だった。
「……っ、痛……」
身を起こそうとした瞬間、右肩と脇腹に鈍い痛みが走り、思わず小さな呻き声が漏れた。
だが、その痛みは以前の野戦治療所のような焼け付くような激痛ではなかった。傷口には分厚く清潔なガーゼが丁寧に巻かれ、高純度の治癒軟膏が塗られているのが分かった。
見渡せば、そこは大型の天幕の内部だった。頑丈な絨毯が敷き詰められ、木製の机や本棚、そして温かなストーブが置かれている。
「おや、目が覚めたかい? 無理に動いちゃ駄目だよ、お嬢さん」
天幕の入り口をくぐって入ってきたのは、白いエプロンをつけた恰幅のいい中年女性だった。
ガルディニア帝国軍の衛生兵長――ハンナだった。彼女は湯気を立てる陶器のマグカップを盆に乗せ、ベッドサイドの木製テーブルへと置いた。
「ここは……?」
「帝国軍第3師団の野戦病院だよ。あんたが担ぎ込まれてから、丸二日間眠り続けていたんだ。傷口の破片は綺麗に取り除いて、第3階梯の治癒魔導士が付きっきりで術式をかけてくれたからね。肋骨のヒビも魔導骨癒合術で綺麗にくっついたよ。命に別状はないから安心しな」
「敵の……病院……」
私が警戒するように身を強張らせると、ハンナは困ったように眉を下げて優しく笑った。
「そう怯えなくていいさ。あんたを連れてきたのは、うちのヴィルフリート准将閣下直々だよ。『この方は名誉ある捕虜だ。最高の治療と食事を提供せよ』ってね。ほら、温かいカモミールティーだよ。蜂蜜をたっぷり入れてあるから、身体が温まるよ」
差し出されたカップを受け取り、一口含むと、優しい甘みと温もりが冷え切った身体の隅々まで染み渡っていった。
捕虜に対する扱いとは思えないほど、それは温かく、手厚いものだった。
ルーエン王国の前線治療所で受けた、麻酔なしで鉄ゴテを押し当てられた地獄のような治療が、嘘のように思えた。
その時、天幕の幕が静かに開かれ、冷たい風とともに一人の長身の将校が入ってきた。
濃紺の軍服に身を包んだヴィルフリート・フォン・ベルンハルト准将だった。
彼は脱いだ軍帽を副官に預けると、私に向かって静かに会釈した。
「意識が戻ったか。気分はどうだ?」
「……おかげさまで、生きています。ガルディニア帝国軍第3師団長、ヴィルフリート准将閣下」
私がぎこちなく敬語を使うと、ヴィルフリートは苦笑いを浮かべ、ベッド脇の丸椅子を引き寄せて腰掛けた。
「そう堅苦しくならなくていい。ここは尋問室ではないし、私も貴殿を拷問する気など毛頭ない。……名前を聞かせてもらってもいいか?」
「……ルーエン王国陸軍第4魔導歩兵連隊、エレナ・アルスター准尉です」
「エレナ准尉か。良い名だ」
ヴィルフリートは穏やかな声でそう呟くと、懐から木製のシガレットケースを取り出し、私に断りを入れてから一本火をつけた。
「閣下……私をどう処分するおつもりですか? 敵の魔導士など、通常であれば即座に軍事法廷へ送られるか、後方の収容所で過酷な尋問を受けるはずですが」
「処分など考えていない」
ヴィルフリートは紫煙を静かに吐き出し、その鋭くも澄んだ青い瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「私はただ、戦場で幾度となく我が軍を苦しめた稀代の戦術魔導士と、一度ゆっくりと言葉を交わしてみたかっただけだ」
「……買い被りです。私はただの平民出身の准尉にすぎません。作戦を立案していたのは、大隊長のバレット少佐です」
私が視線を落として答えると、ヴィルフリートは低く喉を鳴らして笑った。
「まだそんな嘘をつくのか、エレナ准尉」
「……え?」
「第七地区における、地下弾薬庫の誘爆を狙った精密な対砲兵射撃。浸透戦術による第一線・第二線塹壕の電撃的突破。そして第三中継基地における見事な迎撃戦闘……それらすべてが、貴殿の現場判断によるものであることは、我が軍の諜報部と無線傍受の記録からすべて筒抜けだ」
ヴィルフリートは手帳を開き、数枚の報告書を私に見せた。
「貴殿の上官であるバレット少佐とやらは、後方の安全な壕で震え上がり、貴殿の挙げたすべての功績を『自らの神算鬼謀』として本国司令部へ報告していたそうだな。そして前線が崩壊した瞬間、部下を見捨てて自分だけ装甲車で逃げ出した。……違うか?」
心臓を素手で握られたような衝撃が走った。
敵国の将軍が、私の祖国の軍隊の腐敗と、私が胸の奥に閉じ込めていた真実を、何から何まで正確に把握していたのだ。
「なぜ……そこまで……」
「戦場で貴殿の部隊の動きを見ていれば、誰にでも分かる。無能な貴族の立てる机上の空論と、現場の兵士の命を背負った真の指揮官の戦術は、その鋭さと切迫感がまるで違う。……私はね、エレナ准尉。敵ながら、貴殿の卓越した戦術眼と、部下を守るための献身に、心からの敬意を抱いていたのだよ」
ヴィルフリートの言葉には、一片の嘘も諂いもなかった。
泥濘の戦場で、誰にも認められず、手柄を奪われ、ただ使い潰されるだけだった私の努力と苦悩を――敵国の名将であるこの男だけが、完璧に理解してくれていた。
「我が帝国もまた、この十年の戦争で無数の有能な若者を失った」
ヴィルフリートは遠い目をしながら、静かに言葉を続けた。
「私の士官学校時代の同期も、半数以上が泥濘の塹壕に骨を埋めたよ。……貴殿のような類まれな才能を持つ女性が、腐敗した軍政の犠牲となって命を散らすことなど、決してあってはならないと思ったのだ」
「……ですが、私の部下たちは、全員死にました」
私の唇から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「クラウスも、ミリアも……みんな、あの無能な上官に見捨てられ、補給も弾薬もないまま、私を守って死んでいきました。故郷の両親も、過酷な徴発で餓死しました。……私は、何のために戦ってきたのか、もう何も分かりません」
張り詰めていた感情の堤防が決壊し、私は両手で顔を覆って声を上げて泣いた。
前世の知識があっても、どれほど戦術を尽くしても、大切な人たちを一人として救えなかった無力感と絶望。
そんな私の肩に、温かく大きな掌がそっと置かれた。
ヴィルフリートが椅子から立ち上がり、私の震える肩を優しく抱き寄せていた。
「もういい……もう戦わなくていいんだ、エレナ。貴殿は十分に戦った。誰よりも誠実に、自らの義務を果たした。……自分を責めるな」
その声は、凍てついた私の心を包み込む陽だまりのように、どこまでも優しかった。
私は敵将の胸の中で、子どものように泣き続けた。
◇
それからの日々、私の捕虜生活は、予想もしなかった平穏なものとなった。
天幕の外へ出ることは軍規上禁止されていたが、天幕の中は常に暖炉の火が絶やされず、柔らかなベッドと本が与えられていた。
何より驚いたのは、師団長であるはずのヴィルフリートが、激務の合間を縫って一日に何度も私の天幕へ足を運んでくれることだった。
「エレナ、今日のスープは美味いぞ。厨房のコック長に頼んで、刺激の少ない野菜シチューを作らせたんだ」
「閣下……師団長自ら配膳などなさらないでください。部下の方々が見ていますよ」
「構わんさ。傷病人の世話をするのは軍人の嗜みだ」
ヴィルフリートは甲斐甲斐しくスプーンを私の口元へ運び、私が恥ずかしそうに口を開けると、満足そうに目を細めて笑った。
包帯の交換も、衛生兵のハンナが忙しい時は、彼自ら手際よく巻き直してくれた。
大きな手なのに、傷口に触れる指先は驚くほど繊細で、温かかった。
軍服を脱いだ時のヴィルフリートは、戦場での冷徹な名将の顔とは打って変わり、驚くほど気さくで温厚な青年だった。
「閣下の領地は、どのような場所なのですか?」
「帝国の南部にあるベルンハルト伯爵領だ。山に囲まれた長閑な土地でね、葡萄畑が広がり、秋には素晴らしいワインが造られる。戦争が終わったら、一面の葡萄畑を馬で駆け回るのが私の夢なんだ」
ヴィルフリートが少年のように目を輝かせて故郷を語る姿に、私の胸はトクンと小さく高鳴った。
また、副官のオットー大尉や看護長のハンナも、頻繁に私の天幕へ顔を出して世間話をしてくれた。
ある日の午後、オットー大尉がチェス盤を抱えてやってきた。
「よう、エレナ准尉! 一手付き合ってくれよ。閣下が『彼女の戦術眼は並みの参謀より上だ』って自慢するもんだから、どれほどの腕前か試したくてな」
「ふふ、お手柔らかにお願いしますね」
私が前世のチェスの定石を用いてオットー大尉を瞬く間に追い詰めると、大尉は頭を抱えて叫んだ。
「参った! こりゃ本物だ! おいおい、閣下が惚れ込むわけだよ!」
「オ、オットー大尉、からかわないでください……!」
「ははは! 照れなくていいさ。あんたが来てから、閣下の眉間の皺がめっきり減ったんだ。いつも戦況図ばかり睨んでた閣下が、鼻歌交じりでシチューを運んでるんだぜ? 俺たち部下としても感謝してるんだ」
敵国のはずの彼らと交わす、温かな笑い声。
かつて祖国の冷たい塹壕で、上官の理不尽な怒号に怯えていた日々が、まるで遠い悪夢のように思えた。
自分を裏切り見捨てた祖国と、自分を慈しみ、人間として尊重してくれる敵国の人々。
そして――誰よりも私の心を温めてくれる、ヴィルフリートという一人の男性。
私の心の中の境界線は、春の雪解けのように、静かに、しかし確実に溶け去りつつあった。
だがそんなある日、天幕の外から慌ただしい軍靴の音と、全軍に響き渡るファンファーレの音が聞こえてきた。
戦争の終わりを告げる、運命の報せが届いたのだ。
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