第三話 焦土の防衛線と散りゆく戦友
寒風が吹き抜ける塹壕の底で、私は凍りついた小銃の引き金を指先で温めていた。
空は重苦しい鉛色の雪雲に覆われ、帝都近郊の丘陵地帯には、白い雪と黒い硝煙の煤が混ざり合った灰色の雪が音もなく降り積もっていた。
呼吸をするたびに肺の奥が凍りつくように痛み、吐き出す息は真っ白に煙る。
兵士たちの軍服は泥と血でバリバリに固まり、飢えと不眠によって頬はげっそりと削げ落ちていた。
「小隊長! 後方補給線の第三中継基地から緊急入電! 敵の別働隊が森林を迂回し、我が軍の側背へ突入! 補給輜重隊が襲撃を受けています!」
血相を変えたミリアの叫び声に、私は弾かれたように立ち上がった。
敵将ヴィルフリートによる、予測通りの側面攻撃だった。
正面の帝都防衛線で我が軍の主力を釘付けにし、細長く伸びきった補給路の要衝を、機動魔導部隊で一気に急襲する――完璧な兵站遮断戦術。
「大隊本部からの命令は!?」
「『第4小隊は直ちに出撃し、第三中継基地の敵を撃退せよ。一歩も退くな』とのみ……! 増援や魔石の補給については何も指示がありません!」
大隊長のバレット少佐は、安全な後方本部の地下壕に閉じこもったまま、無茶な出撃命令を押し付けてきたのだ。
だが、補給基地が落ちれば、前線の数千人の将兵が今夜の食料と弾薬すら失う。行かないという選択肢は存在しなかった。
「小隊、出撃! 第三中継基地へ急行します!」
私たちは飢えと疲労で重い身体を引きずり、雪原を疾走した。
中継基地に辿り着いた時、そこはすでに燃え盛る炎と黒煙に包まれていた。
帝国軍の精鋭猟兵部隊が、輜重車輌を次々と爆破し、逃げ惑う輜重兵を掃討している最中だった。
「小銃班、左翼から散開射撃! クラウス、機関銃座を制圧して! 私が敵魔導士を叩きます!」
私は手持ちの最後の魔石を砕き、第4階梯の『局所雷撃嵐』を敵の指揮班へ叩き込んだ。
青白い電光が雪原を走り、敵の魔導障壁を粉砕する。
私たちの必死の奇襲により、敵の別働隊は中継基地の完全破壊を諦め、雪煙を上げて撤退していった。
補給線の完全寸断は、辛うじて防がれた。
しかし――その代償は、あまりにも大きかった。
ズガァァァンッ!
「くっ……!?」
敵の撤退間際に放たれた遅延信管付きの破片榴弾が、私の至近距離で炸裂したのだ。
猛烈な爆風とともに、無数の焼けた鉄の破片が私の右肩と脇腹を深々と切り裂いた。
熱い血が軍服を赤く染め上げ、雪の上にドッと崩れ落ちる。
「小隊長ッ!」
「エレナ! しっかりしろ!」
クラウスとミリアが駆け寄り、私を抱き起こした。
視界が急速に白く霞み、激痛が全身を苛む。
だが、この孤立した最前線に、後方の本格的な陸軍病院へと負傷者を後送する車輌など一台も残されていなかった。
◇
運び込まれたのは、前線の塹壕の奥に掘られた、粗末な野戦治療所だった。
消毒薬の匂いと、腐敗した血肉の悪臭が充満する薄暗い地下室。
薄汚れた担架の上には、手足を失った兵士たちが呻き声を上げ、床は血の海と化していた。
麻酔の薬すら底をついていた。
軍医は血まみれの手袋のまま、ピンセットで私の傷口から鉄の破片を強引に引き抜き、焼いた鉄ゴテで傷口を塞ぐという、中世さながらの乱暴な応急処置を施した。
「ぐっ……! あ……ぁぁっ……!」
激痛に奥歯を噛み締め、シーツを爪が剥がれるほど握りしめる。
額からは脂汗が滝のように流れ、全身の筋肉が痙攣した。
傷口を布で固く縛り終えた軍医は、疲れ切った顔で私に告げた。
「破片は抜いたが、傷口が深く、肋骨にヒビが入っている。本来なら王都の本国病院で三ヶ月の絶対安静だ。……だが、見ての通りここにはベッドも薬もない。歩けるなら、明日には部隊へ戻ってもらうしかない」
「……ええ、分かっています」
私は荒い息を吐きながら、弱々しく頷いた。
小隊には、私以外に戦術魔法を扱える者がいない。私が倒れれば、残された部下たちは全滅するのだ。
そんな私の枕元に、包帯を巻いたミリアが、震える手で一通の薄汚れた電報用紙を運んできた。
王都の陸軍省から届いた、公用電報だった。
「小隊長……これ、故郷の役場から……」
私は震える指先で、その紙片を開いた。
そこに記されていたのは、あまりにも冷酷な、短い数行の活字だった。
『父アルスター、母マリア、戦災および過酷なる徴発に伴う栄養失調により死亡。遺体は共同墓地へ埋葬済み』
――プツリ、と。
私の心の中で、張り詰めていた最後の糸が、音を立てて千切れ飛んだ。
幼い頃の記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
貧しいながらも、畑で採れた野菜をシチューにして笑顔で食べさせてくれた母。
軍へ志願する際、「無理だけはするな、生きて帰ってこい」と涙を浮かべて私の手を握りしめてくれた父。
私がこうして泥水を啜り、血を流しながら戦ってきたのは、故郷で待つ両親に仕送りを届け、彼らに平穏な余生を送らせるためだった。
だが、国は前線の兵士の命を使い潰すだけでなく、銃後の農村からも最後の種籾と食料を奪い尽くし、私の両親を餓死に追いやっていたのだ。
前線に補給すら送れない無能な参謀本部が、机上の空論で大攻勢を命じ、その裏で国民の命を絞り取っていた。
(何のために……私は戦ってきたの?)
手柄はすべて貴族の上官に奪われ、補給も送られず、親すら守れず。
この国は、私たち平民の命を、ただの燃料か使い捨ての消耗品としか思っていない。
熱い涙が一筋、泥と血で汚れた私の頬を伝い落ちた。
祖国に対する最後の忠誠心と未練が、氷のように冷え切っていくのを、私は確かに感じていた。
◇
そして――破滅の日は、それからわずか三日後に訪れた。
未明、地平線を揺るがす猛烈な砲声とともに、帝国軍の総反撃が開始された。
ヴィルフリート准将が自ら率いる三個師団が、再び私たちの背後――第二補給線を完全に包囲し、退路を物理的に遮断したのだ。
「全前線、崩壊! 左右の友軍連隊が潰走しました! 敵の戦車魔導部隊がこちらへ向かってきます!」
塹壕の外から、兵士たちの悲鳴が響き渡る。
私は右肩の激痛を堪えながら、小銃を杖代わりにして大隊本部へと駆け込んだ。
だが――そこに広がっていたのは、もぬけの殻となった司令部テントだった。
「な……少佐殿は!?」
「逃げたよ……!」
残された伝令兵が、絶望に満ちた笑みを浮かべて吐き捨てた。
「バレット少佐とその取り巻きの貴族将校どもはな、昨夜の時点で『敵の奇襲を警戒する』とか言って、最後の一台だった装甲指揮車に乗って、自分たちだけで本国へ高飛びしやがった! 俺たちには『陣地を死守せよ』という紙切れ一枚残してな!」
机の上には、飲みかけの高級ブランデーと、破り捨てられた作戦地図が散乱していた。
曖昧で無責任な命令だけを押し付け、部下を肉の壁にして、自分たちだけが安全な本国へ逃げ帰ったのだ。
「くそっ……! あの豚野郎どもが……!」
クラウスが怒りに任せて机を蹴り飛ばした。
だが、怒っている時間すら残されていなかった。
周囲からは、すでに帝国軍の小銃射撃と、地を這うような包囲の足音が迫っていた。
「全員、防衛陣地へ! 撃ち方始め!」
私は残された小隊の仲間たち十数名とともに、瓦礫のトーチカに立て籠もった。
補給は完全にゼロ。小銃の弾薬も、一人あたり数発しか残っていない。
それでも、私たちは生き残るために必死で引き金を引いた。
「死んでたまるかぁぁっ!」
クラウスが小銃を連射し、突進してくる敵兵を倒す。
だが――。
ドォォォンッ!
「ぐあっ……!」
敵の放った魔導榴弾がトーチカの天井を直撃した。
崩れ落ちたコンクリートの巨塊が、クラウスの身体を無慈悲に押し潰す。
「クラウス!」
「小隊長……逃げ……て……」
クラウスは血を吐きながら、二度と動かなくなった。
「いやあああっ! クラウス伍長!」
ミリアが叫びながら駆け寄ろうとしたその瞬間、銃眼から飛び込んできた敵の小銃弾が、彼女の胸を撃ち抜いた。
ミリアは人形のように糸が切れて崩れ落ち、その瞳から急速に光が失われていく。
「ミリア……! 嘘でしょう、ミリア……!」
一人、また一人と、私の目の前で戦友たちが冷たい骸へと変わっていく。
昨日まで共に乾パンを分け合い、戦争が終わったら故郷で何をしようかと語り合っていた仲間たちの命が、無残に散っていく。
最後には――トーチカの中に立っているのは、血まみれになった私一人だけだった。
「あ……ぁ……」
右肩の傷口から激痛が走り、足の力が抜けて膝をつく。
小銃の弾倉は空っぽになり、魔石のポーチには砕けた粉末しか残っていない。
体内魔力も完全に底をつき、指先一つ動かすことすらできなかった。
ジャリ、ジャリと、雪を踏みしめる重厚な軍靴の音が近づいてきた。
煙の立ち込めるトーチカの入口に現れたのは、銃剣を構えた十数名の帝国兵たちだった。
そして、その中央から、濃紺の将校外套を羽織った長身の男が、静かに姿を現した。
漆黒の髪に、鋭く澄んだ青い瞳。
帝国軍の若き名将――ヴィルフリート・フォン・ベルンハルト准将だった。
「銃を降ろせ。……戦闘は終わりだ」
ヴィルフリートが低く威厳のある声で命じると、兵士たちは銃口を下げた。
ヴィルフリートは血の海の中に一人倒れ伏す私を見つめ、ゆっくりと歩み寄ってきた。
その瞳には、侮蔑や嘲笑の色など微塵もなく、ただ深い痛ましさと、敬意が宿っていた。
「貴様が……この部隊の指揮官だな」
私は泥と血にまみれた顔を上げ、ヴィルフリートを睨み返そうとした。
だが、極限を超えていた私の意識は、そこでぷつりと途切れた。
視界が暗転し、崩れ落ちる私の身体を、誰かの温かな腕がしっかりと受け止めた感覚を最後に――私の戦争は、幕を閉じたのだった。
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