第二話 乾坤一擲の縦深突破と迫る影
乾坤一擲:自分の運命や天下をかけて、いちかばちかの大勝負をすること
ルーエン王国陸軍・西部軍集団の最前線に、異様な静寂が訪れていた。
普段であれば絶え間なく鳴り響く小銃の単発音も、散発的な迫撃魔導の炸裂音も、この日の朝だけは完全に途絶えていた。
だが、それは平和の訪れなどでは決してない。
大気を切り裂くような暴風雨が吹き荒れる直前の、胃袋が縮み上がるような死の静寂だった。
「小隊長、本部の命令書……これ、正気なんですか?」
私の隣で、若い女性通信兵のミリアが、震える手で電文用紙を差し出してきた。
塹壕の薄暗い待機壕の中で、集まった小隊の兵士たち全員が息を呑んで私を見つめている。
私は電文の内容を一度だけ目で追い、静かに胸ポケットへと仕舞い込んだ。
「参謀本部直々の発令です。『全戦線同時大攻勢・乾坤一擲作戦』……文字通り、我が国が保有するすべての戦力と、国家備蓄の魔石の九割を一度に投入する総力戦よ」
兵士たちの間に、ざわりと動揺が広がった。
作戦の概要はこうだ。
第一に、前線全域に展開した数十個の特科魔導連隊が一斉に第5階梯・広域面制圧魔法を行使し、敵の第一線から第三線に至る塹壕網を文字通りの焦土と化す。
第二に、その砲撃の余燼が燻る中、私の所属する第4魔導歩兵連隊をはじめとする選抜突撃部隊が、敵の防衛線へ一点集中の楔を打ち込み、後方の補給拠点や指揮所を無視して敵首都近郊まで一気に突進する――いわゆる『縦深突破戦術』だった。
(前世の歴史で言う、ソ連軍の縦深攻撃理論……あるいは第一次大戦末期のドイツ軍による春季大攻勢ね)
私は冷たいコンクリートの壁に背を預けながら、心の中で冷静に作戦の構造的欠陥を洗い出していた。
(理論上は美しく見えるわ。敵の強固な防衛線を突き破り、後方連絡線を遮断して指揮系統を麻痺させ、一気に講和へと持ち込む。……けれど、この作戦は致命的な前提の上になり立っている。それは『全戦線で同時に前進する部隊へ、十分な物資と弾薬を届け続けられるだけの兵站能力があること』。今のルーエン王国に、そんな補給力があるはずがない)
十年の戦争で、国内の鉄道網は疲弊し、輓馬もトラックも燃料も枯渇している。
前線を一気に数十キロメートルも押し上げれば、先頭を進む突撃部隊の補給線は細い一本の糸のように伸びきり、左右からの反撃に対して無防備になるのは火を見るより明らかだった。
これは軍事的な合理性に基づいた作戦などではない。
国家財政が完全に底をつき、これ以上戦争を続けられなくなったルーエン王国上層部が、最後のチップをすべて賭け金として放り投げた、破れかぶれのギャンブルなのだ。
(失敗すれば、我が軍は予備兵力も魔石もすべて失い、完全な無条件降伏を迎えることになる……まさに背水の陣ね)
だが、前線の末端の准尉にすぎない私に、参謀本部の決定を覆す権限などない。
私にできるのは、この狂気の大攻勢の中で、自らの小隊の兵士たちを一人でも多く生き残らせることだけだった。
「全員、防毒マスクと魔導遮断ゴーグルを装着! 突撃梯子に足をかけなさい! 攻勢開始まで、あと三分!」
私の号令に、クラウスやミリアたちが青ざめた顔で頷き、装備を点検し始めた。
◇
午前六時整。
――ズズズズズズズズズズズッ……!
地殻そのものが悲鳴を上げているかのような重低音が、後方の地平線から轟き始めた。
空を見上げると、夜明け前の薄暗い空が、何千、何万という魔石の励起光によって真昼のように輝いていた。
ルーエン王国が十年かけて蓄積してきた戦略魔石のすべてを燃焼させて放たれた、百門を超える魔導大隊による一斉斉射。
ドガガガガガガガガアアアアンッ!
敵の塹壕線が、巨大な炎と土砂の噴煙によって視界から完全に消滅した。
第5階梯の爆轟魔法と紅蓮の火炎嵐が、無人地帯の鉄条網ごと敵の陣地を薙ぎ払っていく。大気が焼け焦げ、立っていられないほどの衝撃波が私たちの塹壕へと吹き抜けた。
「笛を鳴らせ! 突撃ィィィッ!」
大隊長であるバレット少佐の金切り声が、後方の安全な掩蔽壕から拡声魔導具を通じて響き渡った。
ピーーーッ! と無数の号笛が鳴り響き、何千人もの歩兵が一斉に塹壕を飛び出していく。
「小隊、前進! 弾幕の直後を追随しなさい! 遅れれば敵の立ち直りを許します!」
私は先頭に立ち、ボルトアクション小銃を構えて泥濘を駆け抜けた。
煙と炎が立ち込める敵陣地は、まさに地獄絵図だった。
頑丈な鉄筋コンクリートのトーチカは飴細工のようにへし折れ、敵の小銃兵たちは爆風で吹き飛ばされて塹壕の底に埋もれていた。
だが、生き残った敵兵の抵抗もまた死に物狂いだった。
「敵の機関銃座、健在です! 十時の方向のトーチカから撃ちまくってきます!」
「伏せろ!」
ダダダダダダダッ! と猛烈な掃射が地面を抉り、兵士たちのヘルメットをかすめる。
私は泥の中に滑り込みながら、手元の魔石を取り出した。
「クラウス、小銃班で牽制射撃を! 私が銃眼を塞ぎます!」
「了解! 撃てぇぇっ!」
クラウスたちの小銃斉射がトーチカの銃眼へ撃ち込まれる一瞬の隙を突き、私は第3階梯の『岩壁隆起』を展開。銃眼の真正面に分厚い岩石の柱を瞬時に突き立て、敵の射界を完全に封鎖した。
その隙に突撃した歩兵が手榴弾を投げ込み、トーチカを沈黙させる。
私の小隊は、前世の浸透戦術を忠実に実行した。
強固な抵抗拠点は後続の部隊に任せ、煙幕と第3階梯の風魔法で敵の視界を奪いながら、防衛線の隙間を縫うようにして奥へ、奥へと突き進んでいく。
「小隊長! 敵の第二防衛線を突破しました!」
「休む暇はありません! 敵の野戦砲兵連隊の集積所へ直行します! 魔石の補給を絶ちなさい!」
犠牲は決して少なくなかった。
泥濘に足を取られて後続からはぐれ、敵の散発的な伏撃に倒れる仲間たち。
だが、私たちの猛烈な進撃と、全戦線で行われた空前絶後の面制圧砲撃の威力は、確かに帝国軍の第一線防衛網を完膚なきまでに破砕していた。
一日、二日、三日――。
不眠不休の強行軍が続いた。
泥を舐め、冷え切った缶詰の固まった脂を啜りながら、私たちは敵の防衛線を次々と突破していった。
そして攻勢開始から一週間後。
立ち込める硝煙の彼方に、私たちはついにその姿を捉えたのだ。
ガルディニア帝国の帝都を取り囲む、壮麗な白亜の外郭城壁と、天を突く大聖堂の尖塔群を――。
「み、見ろ……敵の首都だ……!」
「俺たち、本当にここまで来ちまったのか……!?」
血と泥にまみれた兵士たちが、信じられないものを見るように声を震わせた。
かつて誰も成し遂げられなかった、敵首都近郊への到達。
前線部隊の誰もが、「これで戦争が終わる」「勝ったのだ」と歓喜に沸き立っていた。
しかし――私だけは、背筋を伝い落ちる冷や汗を止めることができなかった。
□□□□□□□
ガルディニア帝国首都・防衛司令部。
王宮の地下に設けられた臨時作戦室は、押し寄せるルーエン軍の影に怯える文官や政治家たちの怒号でパニックに陥っていた。
「前線がすべて突破されただと!? 敵の先鋒はすでに外郭城壁からわずか十キロの地点まで迫っているのだぞ!」
「皇帝陛下を直ちに東方へ避難させろ! もはや帝都の防衛は不可能だ!」
喚き散らす老貴族たちを一喝するように、バンッ! と重い軍靴の音が作戦室の扉を蹴り開けた。
煤にまみれた濃紺の外套を翻し、血走った青い瞳で部屋に入ってきたのは、前線から辛うじて脱出してきたヴィルフリート・フォン・ベルンハルト准将だった。
「見苦しいぞ、貴様ら。まだ帝都の城門は一つたりとも破られてはおらん」
ヴィルフリートの威厳に満ちた声に、広間の喧騒がピタリと止まった。
「ヴィ、ヴィルフリート准将……! 前線部隊は壊滅したのではなかったのか!?」
「第一線と第二線は突破された。だが、我が第3師団をはじめとする後方部隊の主兵力は、敵の面制圧砲撃の範囲外へと計画通りに後退させ、温存してある。現在、敗走してきた各部隊の将兵を帝都外郭の複郭陣地へと再編中だ」
ヴィルフリートは机の上の広域戦況図へ歩み寄り、赤いペンで帝都周辺に太い円を描いた。
「敵の進撃速度は異常だ。特に中央を突破してきた敵の魔導歩兵部隊――あの白銀にも似た見事な手腕の魔導士が率いる部隊の突破力は凄まじい。だが……それゆえに、敵は自滅の罠に足を踏み入れた」
「自滅の罠……?」
参謀たちが息を呑む。
ヴィルフリートは冷徹な眼差しで、細長く伸びきったルーエン軍の進撃ルートを指し示した。
「敵の補給線を見ろ。百キロメートル以上にわたって細長く伸びきり、左右の側面の防備はスカスカだ。全戦力と魔石を一度に投入した大攻勢など、長く続くはずがない。敵の前線部隊は、すでに弾薬も食料も、魔導士たちの魔力も限界を迎えているはずだ」
ヴィルフリートの口元に、氷のように冷たい確信の笑みが浮かんだ。
「帝都の頑強な城壁と、温存していた予備魔導部隊で敵の正面突撃を完全に受け止め、膠着させる。そして――敵の補給が完全に枯渇した瞬間、両側面から敵の補給線を断ち切り、突出した敵の主力を包囲殲滅する。全軍に通達! 外郭陣地に魔導重砲を配置し、一歩も退くな!」
□□□□□□□
ヴィルフリートの冷徹な読みは、恐ろしいほどの正確さで現実のものとなった。
帝都近郊の丘陵地帯に到達した私たちを待っていたのは、無秩序な敗残兵などではなかった。
ヴィルフリートによって完璧に統制され、外郭城壁の地形を巧みに利用して何重にも張り巡らされた、難攻不落の『帝都防衛線』だった。
――ズガガガガガガアアアアンッ!
丘陵の稜線から放たれる帝国軍の集中砲撃が、突進してきたルーエン軍の先頭車両を次々と鉄屑へと変えていく。
私たちは何度も突撃を試みたが、強固なトーチカ群と重機関銃の濃密な十字火網に阻まれ、前進は完全に停止した。
戦況は、帝都の喉元という最悪の場所で、再び泥沼の膠着状態へと叩き落とされたのだ。
そして――真の悪夢は、背後から音もなく忍び寄っていた。
「小隊長! 後方の輜重隊から連絡が入りました! 本日の魔石の配給量は……規定の『五分の一』に削減されるとのことです!」
通信兵のミリアが、泣きそうな声で報告してきた。
泥だらけの塹壕の中で、私は手元の魔石ポーチを開けた。中に残っているのは、濁った質の悪い小粒の魔石がわずか二個だけだった。
「五分の一……? 食料と小銃弾の配給はどうなっているの?」
「食料は一日一人あたり乾パン二枚……小銃弾は一人一クリップ(五発)まで制限だそうです……」
クラウスが小銃を地面に叩きつけ、激しく悪態をついた。
「ふざけやがって! こんな豆粒みたいな魔石と五発の弾で、どうやってあの化け物みたいな帝都の防衛線を突破しろって言うんだ! 後方の補給部隊は何をやってやがる!」
「……後方部隊のせいではないわ」
私は乾いた唇を噛み締め、後方の空を見つめた。
伸びきった補給線を維持できなくなったルーエン軍は、他の前線において帝国軍の反撃を受け、すでに各地で総崩れとなって後退を始めていたのだ。
今や、敵の首都近郊に突出しているのは、私たち第4連隊を含むごくわずかな先鋒部隊だけ。
寒風が吹き抜ける塹壕の中で、兵士たちは凍えた手足をさすりながら、わずかな乾パンを分け合って飢えを凌いでいた。
魔導士たちの魔力は枯渇し、傷ついた兵士を治療するための衛生用品すら底をついている。
かつて「勝利の栄光」に見えた帝都の尖塔群は、今や私たちを呑み込もうとする巨大な墓標のように、冷酷にそびえ立っていた。
そして、獲物が完全に飢え、動けなくなるのを待ち構えていた敵将ヴィルフリートの魔の手が、私たちの細い補給線へと、ついに伸ばされようとしていた。
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