聖なる大浄化
「……さて。今年も残すところ、あと数日ね」
しんしんと雪が降り積もる、ソルディス王国の年の瀬。
暖炉の火がパチパチと爆ぜるサロンで、私は温かい生姜紅茶をすすりながら、窓の外の銀世界を見つめていた。
この世界に来て、マリエル王太后として過ごした激動の日々。
思い返せば、重曹やクエン酸の代用品で掃除をしたり、冷汁を作ったり、湯たんぽを作ったりと、前世の主婦としての知識をフル稼働させてきた日々だった。
「王太后様。今年も無事に、大きな戦や疫病もなく新年を迎えられそうですわ」
傍らで編み物をしていた侍女長のガブリエラさんが、ふわりと微笑む。
「そうね。……でも、新年を迎える前に、一つだけ絶対にやらなきゃいけない『大仕事』が残っているわ」
「大仕事、でございますか? 年内の政務は陛下がすべて終わらせたはずですが……」
「政務じゃないわ。日本の……じゃなくて、由緒正しき年末の儀式というべきかしら」
私は立ち上がり、腰に手を当てて宣言した。
「明日から三日間、王宮の【大掃除】を決行します! 幾年分の汚れをすべて祓い落とし、清らかな状態で新しい年をお迎えするのよ!」
◈
翌朝。
私は動きやすい簡素なドレスに着替え、頭に三角巾を被り、腕まくりをして王宮の厨房へと乗り込んだ。
「バルトさん! これは一体どういうことなの!」
「ひいっ! お、王太后様!? そ、そのようなお姿で厨房に立たれるなど……!」
バルト料理長が、巨大なフライパンを磨く手を止めて目を丸くした。
私が指差したのは、厨房の奥にある巨大な石造りのオーブンと、その上の換気用の煙突周りである。
そこには、一年間分の油汚れと煤が混ざり合い、真っ黒でベタベタの『地獄のタール』のような汚れが、分厚い層になってこびりついていたのだ。
「ああ、その【黒き炎魔の呪痕】ですか……」
バルトさんが恨めしそうに黒い汚れを見上げる。
「あればかりは、我々も毎日ゴシゴシと金ダワシで削り落とそうと努力しているのですが、あまりに強固で……。完全に削り取るには、石の壁ごと削るしかなく、半ば諦めておりまして……」
(黒き炎魔の呪痕……。ただの『放置しすぎたギトギト油汚れ』じゃないの!)
「いい? 油汚れっていうのはね、冷えて固まるから厄介なのよ! しかも力任せに削ったら、壁の表面に傷がついて、来年はさらにそこに汚れが入り込んじゃうでしょ!」
私は厨房の若い料理人たちを呼び寄せた。
「まずは毎度の如く、かまどの灰から作った『強いアルカリ性の石鹸水(重曹の代用品)』を用意して! それと、パン生地を乾燥から守る時に被せる『透明な薄い獣皮(ラップの代用品)』をたくさん持ってきなさい!」
準備が整うと、私はその【黒き炎魔の呪痕】の前に立った。
「よく見てなさい。これが主婦の必殺技、【湿布パック術】よ!」
私は、アルカリ石鹸水を少し温め、ドロドロのペースト状にしたものを、真っ黒な油汚れの上にたっぷりと塗りたくった。
「王太后様、それでは汚れの上にさらにドロドロを重ねただけでは……」
「慌てないの。このままだとすぐに乾いちゃうから、上からこの『透明な薄い皮』を隙間なく貼り付けて、空気を遮断するのよ!」
ペタペタ、ペタペタ、と。
巨大な換気扇周りの汚れを、石鹸ペーストと透明な皮で完全に覆い尽くした。
「この状態で、三十分ほど放置! アルカリ性の成分が、酸性の油汚れをゆっくりと『中和』して、根元から溶かしてドロドロに分解してくれるのよ。力なんて一切いらないわ」
三十分後。
「さあ、バルトさん。その透明な皮を剥がして、いらなくなった布(ボロ布)で、軽く拭き取ってみて」
「は、はい……」
バルトさんが恐る恐る透明な皮を剥がし、布で石壁をサッと撫でた。
「…………おや!?」
ズルゥッ……!!
バルトさんの手が通った跡だけ、まるで厚いゴムのシートが剥がれ落ちるかのように、真っ黒な油汚れが『塊』となってごっそりと拭き取られたのだ。
その下からは、一年ぶりに光を浴びる、ピカピカの真新しい石壁が顔を出した。
「「「…………っっ!!??」」」
厨房にいた十数人の料理人たちが、一斉に息を呑んだ。
「ば、馬鹿な!? 我々が血豆を作って力一杯削っても落ちなかった炎魔の呪痕が……、撫でただけで、まるで泥のように溶け落ちていく!?」
バルトさんが、震える手でもう一度拭く。ズルリ。また見事に汚れが落ちる。
「おおおおっ!! 素晴らしい!!」
「なんという秘技の錬金術! アルカリと酸の属性をぶつけて相反させ、透明な結界で魔力を閉じ込めておくというのか! これぞ【中和の絶対封印陣】!」
「だからラップパックだってば……。ほら、感動してないで、さっさと全部拭き取っちゃいなさい! 終わったら水拭きも忘れないこと!」
歓喜の声を上げて壁を拭き始めた料理人たちを背に、私は次の戦場へと向かった。
◈
次なる戦場は、王宮の地下にある巨大な『旧第一宝物庫兼、旧軍備倉庫』である。
ここには、息子のライナルト王、財務大臣のハルバート、そして騎士団長のゴードンが腕を組んで深刻な顔で立ち尽くしていた。
「母上。わざわざこのような埃っぽい地下へ、一体どうされたのですか!?」
ライナルトが驚いて振り返る。
「年末大掃除よ! ……って、なによこのガラクタの山は!」
私は絶句した。
倉庫の中は、足の踏み場もないほどの凄まじい有様だった。錆びついた古い剣、穴の空いた鎧、何世代も前の王族が着ていた流行遅れのカビ臭いドレス、用途のわからない謎の石像などが、天井までうずたかく積まれている。
「恥ずかしながら……」ハルバート大臣が眼鏡を押し上げた。
「我が国の歴史と共に物資が増え続け、もはや管理の限界を超えております。このままでは新しい武具を保管する場所がありません。来年度の予算で、新たな巨大倉庫を建設しようかと陛下と相談していたところでして……」
「却下よ!」
私はピシャリと言い放った。
「収納場所がないからって、新しい収納箱(倉庫)を買うのは、一番やっちゃいけない『愚行』よ! 中身を減らすのが先決でしょう?」
「減らすと申されましても……。どれも歴史的価値があるやもしれず、捨てるには忍びなくて……」
ゴードン団長が、錆びて刃こぼれした剣を未練がましく撫でている。
(出たわね。片付けられない特有の『いつか使うかも』『もったいない』の呪い!)
「いいこと!? 今日からソルディス王国に【断捨離】という概念を導入します! 基準はただ一つ! 『思い出、金銭問わず価値があるのかどうか』。なんとなくとっておくのはダメよ。そして『今、それを見て心がときめくか(必要だと感じるか)』よ!」
「断……捨離……でございますか?」
「そう! 片付けが面倒だからって、過去の栄光にスペースを取られて、今の生活(新しい武具)を圧迫するなんて本末転倒よ!」
私は腕を振るい、猛然と仕分けの指示を出し始めた。
「ゴードン団長! その刃こぼれして直せない剣は、溶かして新しい農具や蹄鉄の材料に回すこと! 使えない武器を後生大事に抱えていても、国は守れないわよ!」
「は、ははっ! 確かにおっしゃる通りです!」
「ハルバート大臣! そのカビ臭くて虫食いだらけの古いドレス! 価値がある一部以外は、全部切り刻んで、掃除用の『ボロ布』にするのよ! 立派な絹や綿は、油汚れを拭き取るのに最高なんだから!」
「ドレスを、ぞ、雑巾に……!? しかし、確かにただ腐らせるより、王宮を磨き上げる糧となるならば、先祖も本望かもしれませぬ……!」
「ライナルト! あなたもボーッと見てないで、その謎の石像たちを城下町でオークションにかけて、国庫の足しになさい!」
「おおお! なんという凄まじい決断力!」
ハルバート大臣が、猛烈な勢いで書類にペンを走らせる。
「過去の遺物に『資源としての新たな命』を与え、循環させる……! 無駄な倉庫建設費という数百万金貨の出費をゼロにしたばかりか、再利用による利益すら生み出すとは! これぞ、国家財政を救う【究極の兵站・循環システム】!」
「母上の【断捨離の剣】の前には、いかなる迷いも断ち斬られる! ゴードン! 直ちに騎士を動員し、物資の詳細をすべて洗い出せ!」
熱狂し始めた男たちに地下倉庫を任せ、私は次の標的へと向かった。
◈
最後の難敵は、大浴場の『水垢』である。
ガブリエラさんをはじめとする侍女たちが、大浴場の石畳や、大きな姿見の鏡の前で、半泣きになっていた。
「王太后様……。この【白濁の呪い】だけは、どうにもなりません……。やはり改修工事を待つのが……」
ガブリエラさんが指差した隅の鏡は、白いウロコのような模様がびっしりとこびりつき、自分の顔すらまともに映らない状態になっていた。




