厨房の『泥沼魔』と黒炎の呪い! 主婦のシュワシュワ火山と焦げ落とし
「……せっかくの春の陽気なのに、厨房から酷い匂いがするわね」
長く厳しい冬が終わり、ソルディス王国に暖かな春の風が吹き始めた頃。
王宮では、新しい季節を迎えるための「春の祝祭」に向けて、城を挙げての『大掃除』が行われていた。
しかし、私が侍女長のガブリエラさんと共に厨房の近くを通りかかると、まるで腐った沼地のような強烈な悪臭と、男たちの悲痛な叫び声が聞こえてきた。
バンッ!!
勢いよく厨房の扉を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「くそっ! 剣が通じぬとは! この厨房の排水溝に巣食う【泥沼魔】め、どれだけ突いてもヘドロが飛び散るばかりだ!」
近衛騎士団長のゴードンさんが、流し台の排水溝に向かって、名剣をスパスパと突き刺している。その度に、黒くてドロドロとした汚水が飛び散り、悪臭がさらに強烈に漂った。
「へ、陛下! お下がりください! 流し台のスライムは私が炎魔法で焼き尽くします!」
「頼むぞエリファス! それとバルトよ、この【黒炎の呪い】に取り憑かれた大鍋は、もはや魔界の瘴気を放っておる。ハルバート、残念だが新しい鍋を国庫の予算で手配してくれ!」
厨房の床には、底が真っ黒な炭のように焦げ付いた巨大な鍋が転がっており、バルト料理長が「私の一番のお気に入りの鍋がぁぁっ……!」と膝を抱えて号泣している。
そして、息子のライナルト王とハルバート財務大臣が、鼻をつまみながら鍋を遠巻きに眺めていた。
(泥沼魔に黒炎の呪いって……。ただの『排水溝の詰まり(ヘドロ)』と『鍋の焦げ付き』じゃないの!!)
「ちょっと、あんたたち! 全員ストップ!!」
私は厨房に響き渡る声で一喝した。
「は、母上! 危険です、ここはすでに魔物の巣窟と化して……」
「剣で排水溝を突く馬鹿がどこにいるの! 配管が傷ついたらどうするのよ! エリファスも、室内で炎魔法なんて使ったら厨房ごと丸焦げになるでしょうが!」
私は呆れ果てて腰に手を当てた。
「いいこと? これは魔物でも呪いでもないわ。冬の間に溜まった油汚れや野菜のクズが腐って、排水溝に詰まっているだけ。そして鍋の焦げは、火にかけたまま放置して中身が炭化しただけよ。主婦の『大掃除魔法』で、まとめてピカピカにしてあげるわ!」
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私はバルト料理長を立たせ、倉庫から二つのものを調達させた。
一つは、木の灰から抽出した「白い粉(重曹の代わりとなるアルカリ性の粉)」。もう一つは、調理に使えなくなってすっかり「酸っぱくなった古いワイン(お酢の代わり)」である。
「まずは、この【黒炎の呪い】こと『鍋の焦げ付き』からよ」
私は、底が真っ黒になった大鍋の中に、焦げが完全に隠れるくらいの水を張り、そこに「白い粉(重曹)」をたっぷりと振り入れた。
「これを火にかけて、ぐつぐつと沸騰させるのよ」
「王太后様! それでは、呪いの黒炭からさらに禍々しい闇のスープが……!」
ハルバート大臣が悲鳴を上げるが、私は無視して火にかけさせた。沸騰してから十分ほど煮立たせ、火を止める。
「よし、これでこの鍋は『半日放置』よ。冷めるまで置いておきなさい」
「ほ、放置ですか?」
「そう。アルカリ性の成分を入れて煮ることで、カチカチに固まった炭(タンパク質や糖分)が、ゆっくりと柔らかく分解されていくの。焦げ落としは『待つ』のが一番の近道なのよ。さあ、鍋を待っている間に、次は排水溝のヘドロを退治するわよ!」
私は、ゴードン団長が剣で突いていた流し台の前に立った。
ドロドロの油と生ゴミが絡み合ったヘドロが、排水溝の網にべったりとこびりつき、水がまったく流れない状態になっている。
「いい? こういうヌルヌルした汚れには、手を触れずに『火山』の力を使うのよ!」
私は、ヘドロが詰まった排水溝の網の上に、先ほどの「白い粉(重曹)」を、これでもかというほどたっぷりと山盛りに振りかけた。
男たちが固唾を呑んで見守る中、私はもう一つのアイテム、「酸っぱくなった古いワイン(お酢)」の瓶を手に取った。
「アルカリの粉に、酸っぱいお酢をかけるとね……いくわよ!」
ドボドボドボッ!
白い粉の山に、酸っぱいワインを勢いよく注ぎ込んだ。
シュワワワワワワワワッ!!
「「「…………っっ!!??」」」
次の瞬間、排水溝の中から、まるでマグマが沸き立つように、大量の「真っ白な泡」が猛烈な勢いでモコモコと膨れ上がり始めた。
「な、なんだこれはぁぁっ!!?」
ライナルト王が目を剥いて後ろに飛び退いた。
「泡が……! 白い泡が、排水溝の泥沼魔を丸飲みにし、自己増殖しながら湧き上がってくる! なんという強力な魔力反応だ!」
エリファスが、自身の銀髪を逆立てながら震えている。
「ただの『化学反応』よ。アルカリと酸が混ざることで、二酸化炭素の泡(炭酸ガス)が大量に発生しているの」
私は得意げに笑った。
「この細かい泡が、ドロドロのヘドロの隙間に入り込んで、汚れを根元からフワッと浮き上がらせてくれるのよ。これで三十分ほど待つわ!」
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三十分後。
私は厨房に熱いお湯(熱湯ではなく、六十度くらいの少し熱めのお湯)を用意させた。
「さあ、とどめよ! このお湯で、浮き上がった泡と汚れを一気に洗い流す!」
ザバァァァァッ!
勢いよくお湯を流し込むと、先程まで剣で突いてもびくともしなかったヘドロの塊が、白い泡と共に、面白いくらいにスルリと排水管の奥へと流れていった。
ズゾゾゾォォッという音とともに水が通り、後にはピカピカになった排水溝の網だけが残された。悪臭も、ワインの酸の力で見事に消え去っている。
「おおおおっ!! 水が……水が流れた! あの忌まわしき泥沼魔が、一切剣を振るわずして完全消滅したぞ!」
ゴードン団長が、信じられないものを見る目で排水溝を覗き込んだ。
「これなら、手が届かない配管の奥の汚れまで、泡が浸透して綺麗にしてくれるわ。さて、こっちの鍋はどうなったかしらね」
私は、すっかり冷めた大鍋の前に移動した。
鍋の中の水は、焦げが溶け出して少し茶色く濁っている。私は木のヘラを手に取り、鍋の底を軽く「スッ」と撫でた。
ペロンッ。
「「「…………っっ!!??」」」
今度はバルト料理長が、ひっくり返りそうになった。
まるでシールを剥がすかのように、カチカチだった真っ黒な焦げの層が、ヘラの動きに合わせてベロンと巨大な塊のまま剥がれ落ちたのだ。
私がヘラで数回こするだけで、頑固な黒炎の呪いはすべて剥がれ、底からは元の輝くような銀色の鍋肌が顔を出した。
「剥がれた……! 力いっぱい金たわしでこすっても、全く落ちなかったあの呪いが、赤子の肌を撫でるような力で……!」
バルト料理長が、鍋にすり寄って涙を流している。
「重曹が焦げをふやかしてくれたおかげよ。ゴシゴシこすって鍋を傷つけるのは、三流のやり方ね」
私がエプロンの埃を払いながら振り返ると、ハルバート大臣がガタガタと震えながら羽ペンを走らせていた。
「す、凄まじい……! 新しい鍋を買う必要がなくなり、下水道の修繕費も浮いた……! しかしそれ以上に……!」
ハルバートの眼鏡がギラリと光った。
「王太后様! あの【白粉と酸のシュワシュワ火山】の術! あれを巨大な樽で作り出し、敵の城門や防壁の隙間に流し込めば、強固なバリケードをも泡の力で内部から崩壊させる【攻城兵器】になり得ますぞ!」
「おおおっ! 天才かハルバート!」
ライナルト王がドーンと胸を叩いた。
「敵の罠が仕掛けられた鍵穴にも、この【白泡の術】を流し込めば、内部の機構を浮き上がらせて無力化できるはずだ! ゴードン! 直ちに兵士たちの標準装備に『白い粉』と『酸っぱいワイン』を追加せよ!」
「ははっ! 戦場に【シュワシュワ火山】を巻き起こしてみせます!」
(だから、ただの排水溝の掃除術だってば……!)
私のツッコミなど聞こえていないかのように、男たちは「泡の兵器化」について熱く語り合いながら、厨房を飛び出していった。
後に残されたのは、すっかりピカピカになり、春の爽やかな風が吹き抜ける厨房と、私、ガブリエラさん、そしてバルト料理長だけである。
「……王太后様。本当に、何から何までありがとうございます。これで、春の祝祭の特製ケーキを、心置きなく焼くことができます!」
バルト料理長が、復活した大鍋を抱きしめながら深く頭を下げた。
「ええ、期待しているわよ。ガブリエラさん、私たちはお茶にしましょうか。お掃除の後の紅茶は格別だからね」
「はい、王太后様! すぐに準備いたします」
異世界の泥沼魔も、黒炎の呪いも、五十代主婦の「化学の知恵」と「ちょっとした放置時間」の前では、シュワシュワと音を立てて消え去るほかないのである。
私は綺麗になった厨房を見渡し、満足げに微笑みながら、春の訪れを告げる紅茶の香りを楽しんだ。




