世界一温かい宴
(ああ……硬水の成分のカルキとカルシウムが固まった『水垢』ね。これは確かに厄介よ)
油汚れが「酸性」なのに対し、この水垢汚れは「アルカリ性」。だから、先ほどの重曹ではビクともしない。
「ガブリエラさん。厨房から、一番酸っぱくて、そのままじゃ飲めない『酸味の強い果実酢(クエン酸の代用品)』と、またあの『透明な薄い皮』を持ってきて!」
私は果実酢を水で薄めたものを鏡にたっぷりと吹きかけ、再び必殺の【湿布パック術】を施した。
アルカリ性の水垢を、酸性の酢で中和して溶かす。主婦の科学である。
一時間後。
「さあ、透明な皮を剥がして、さっきハルバートたちが切り刻んだ『ドレスのボロ布』で乾拭きしてみて」
ガブリエラさんが、ごくりと唾を飲み込んで鏡を拭き上げた。
「……ああっ!!」
侍女たちから歓声が上がる。
白く濁っていた鏡が、まるで新品のようにクリアになり、湯気の中に立つガブリエラさんの驚いた顔を、くっきりと鮮明に映し出していたのだ。
「鏡が……蘇りました! 王太后様、これはまさに奇跡ですわ! 果実の酸を用いて白き呪いを打ち砕くなど……!」
「これで頑固な水回りのお掃除は完璧ね。さあ、みんな! 残りの廊下や窓も、この調子で一気にピカピカにしちゃうわよ!」
「「「はいっ!! 王太后様!」」」
◈
それから三日間。
ソルディス王宮は、かつてないほどの熱気に包まれていた。
騎士も、文官も、料理人も、侍女も。誰もが「マリエル王太后の指揮のもと、王宮を浄化せよ!」という合言葉と共に、見違えるように働き、王宮を磨き上げていった。
そして、ついに大晦日の夕刻。
王宮は、床の石一つ、窓ガラスの一枚に至るまで、チリ一つないほどピカピカに輝いていた。古い不要なガラクタは姿を消し、空間には澄み切った清浄な風が吹き抜けている。
(ふう……。完璧な大掃除だったわ)
私は自分の部屋のベッドにドサリと腰を下ろし、腰をトントンと叩いた。さすがに五十代の体には堪える。
「さて、今夜も美味しいものでも食べて、ゆっくりお風呂に入って……」
そう思って廊下に出たのだが、様子がおかしい。
「あら? ガブリエラさん?」
すれ違ったガブリエラさんは、なぜか私と目を合わせず「あ、あの、少々急用が!」と小走りで逃げてしまった。
厨房を覗いても、バルトさんが「いまは一人にさせてくださいませ!」と少し開いた扉をピシャリと閉めてしまう。
ライナルトの執務室に行っても、「母上、後ほど! 今は立て込んでおりまして!」と追い返されてしまった。
私は、ポツンと誰もいないサロンに戻り、冷え切った紅茶を淹れた。
(……なんだか、前世の年末を思い出しちゃうわね)
日本で主婦をしていた頃。年末の大掃除も、おせち料理の準備も、全部一人だけ張り切ってしまい、走り回ってやっていた。
夫や子供たちは「おお、綺麗になったな」「ご飯まだ?」と言うだけで、掃除以外、手伝ってくれることもなく、テレビを見て笑っていた。
主婦の仕事なんて、そんなものだ。
やって当たり前。裏で環境を整えても、スポットライトが当たることはない。
異世界に来て、みんなが大げさに喜んでくれるから少し浮かれていたけれど、結局、仕事が終われば「ただの主婦」に戻るだけなのだ。
少しだけ、鼻の奥がツンとした。
「……まあ、いいわ。王宮が綺麗になって、みんなが快適に新年を迎えられるなら。それが私の役目だものね」
そう自分に言い聞かせていた、その時だった。
コンコン。
「母上。よろしいでしょうか」
扉が開き、正装に身を包んだライナルトが入ってきた。なぜか、ひどく改まった顔をしている。
「どうしたの? そんなかしこまった格好をして」
「母上に、どうしてもお見せしたいものがあるのです。大広間まで、ご足労願えますでしょうか」
ライナルトにエスコートされて、私は不思議に思いながら大広間への廊下を歩いた。
巨大な両開きの扉の前に立つ。ライナルトが、コクリと頷いて扉を押し開けた。
パーーンッ!!!
パパパパーーンッ!!!
「えっ!?」
扉が開いた瞬間、私の頭上に色とりどりの紙吹雪が舞い散った。
そこには――王宮のすべての主要メンバーが、ズラリと勢揃いしていたのだ。
豪華なドレスに身を包んだガブリエラさん。正装のハルバート大臣とゴードン団長。パリッとしたコックコートを着たバルト料理長。宮廷魔術師のエリファスや、ロベルト医官。
そして、孫のシア王女とレオン王子までが、満面の笑みで私を迎えてくれた。
「おばあさま! 大掃除、お疲れ様でした!」
孫たちが駆け寄ってきて、私の両手に美しい花束を握らせてくれた。
「これ……は、一体……?」
驚いて立ち尽くす私に、ライナルトが進み出て、深く、深く頭を下げた。
「母上。本日は『大晦日』とやらですが……これは、我々から母上へ贈る【感謝の大宴会】でございます」
「感謝の、宴会……?」
「はい」
ライナルトが顔を上げ、優しく微笑んだ。
「母上がこの王宮に、いや、我々の心に光をもたらしてくださりました。最初は、急変ぶりに、我々は困惑しておりましたが、こうして『年末の大掃除』や『大晦日』という、母上の伝えたかった事を、ようやく理解でき、感謝として体現できるまでとなりました」
続いて、ハルバート大臣が一歩前に出た。
「王太后様の【断捨離】と数々の【生活の知恵】により、我が国の財政は過去最高の黒字を記録いたしました。無駄を省き、本質を見極めるその御心、深く敬服しております」
ゴードン団長が胸に拳を当てる。
「【塩水】と【冷汁】で熱中症から騎士団を救い、【湯たんぽ】で冬の凍傷をゼロにしてくださいました。母上は、一本の剣も振るわずに、我が国の士気を最大にまで高めてくださったのです」
ロベルト医官が深くお辞儀をする。
「【温冷療法】や【耳回し】など、薬に頼らない生命の理にかなった治療法。我々医療の歴史は、王太后様によって百年は進歩いたしました」
バルト料理長が、誇らしげに背後の豪華な料理を指差す。
「厨房から炎魔の呪痕を払い落としてくださり、ありがとうございます。今夜は、王太后様から教わった『出汁』を限界まで極めた、我々の集大成の祝宴料理でございます!」
最後に、ガブリエラさんが目に涙を浮かべて私の手を取った。
「王太后様……。縮んだ服を魔法のように直し、冷え切った体を温めてくださった。あなた様のその細やかな『気遣い』と『慈しみ』の魔法に、我々はどれほど救われたか知れません。王太后様は、我々にとっての太陽です」
みんなの、温かくて、真っ直ぐで、心からの感謝の言葉。
私の「ただの主婦の知恵」を、彼らはこんなにも尊び、愛してくれていた。
さっきまで感じていた孤独感なんて、一瞬で吹き飛んでいた。
誰も私を見ていないなんて、嘘だった。
この世界の人たちは、裏方で泥臭く働く「主婦」の頑張りを、ちゃんと見ていてくれたのだ。
「母上」
ライナルトが、最後に優しい声で言った。
「いつも、我々のためにご自身の身を粉にして働いてくださり、本当にありがとうございます。今夜ばかりは……どうか、何もなさらず、主役として、我々からの感謝をお受けください」
「みんな……っ……」
我慢しようとしたけれど、ダメだった。
目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出た。それは、悲しい涙ではなく、前世も含めて五十年の人生で、一番温かくて、幸せな涙だった。
「おばあさま、泣かないで!」
シアとレオンが、私のドレスの裾をギュッと握りしめる。
「泣いてないわよ……。もう、みんなして……大げさなんだから」
私は涙をハンカチで拭い、ゆっくりと顔を上げた。
そして、王太后として、いや、この大家族の「母親」として、とびきりの笑顔を咲かせた。
「みんな、本当にありがとう! でもね、主婦の仕事は明日からも休みなしなんだから! しっかり食べて、英気を養いなさい!」
「「「おおおおおっ!!!」」」
大広間に、割れんばかりの歓声と拍手が響き渡る。
磨き上げられたクリスタルのシャンデリアが、七色に輝いて私たちを照らしていた。
テーブルには、バルトさんが腕によりをかけた豪華な料理が並び、グラスには最高級の果実酒が注がれる。
私はみんなの輪の中心で、心の底から笑い合っていた。
前世では、誰にも気づかれなかった「主婦」という名の小さな魔法。
けれどこの世界では、その魔法は国を救い、みんなの笑顔を作り、そして何より――私自身の心を、最高に満たしてくれたのだ。
再び新しい年が、もうすぐそこまで来ている。
明日からもきっと、私はこの大好きな人達のために、腕まくりをして奔走するだろう。
だって私は、ソルディス王国の王太后であり――最強の主婦なのだから。




