暴風竜の襲来と『気象病』!
「……んー。なんだか、空の様子がおかしいわね」
夏の暑さが和らぎ始めた、初秋のある日。
私はサロンの窓から、不気味などんよりとした鉛色の空を見上げていた。生ぬるい強風が吹き荒れ、庭の木々が大きく揺れている。前世の日本でいうところの「台風」が近づいている時の、あの独特の重苦しい空気だ。
「王太后様、窓から離れてくださいませ。間もなく【暴風竜の息吹】が到来いたします」
侍女長のガブリエラさんが、手際よく窓の鎧戸を閉めながら言った。
ソルディス王国では、この時期にやってくる巨大な嵐(台風)のことを、伝説の魔物の名を取って『暴風竜の息吹』と呼んでいるらしい。
「それにしても……あいたた。今日はどうにも、首の付け根から後頭部にかけて、ズーンと重い痛みが走りますわ……」
ガブリエラさんが、眉間にシワを寄せてこめかみを押さえている。
そこへ、重い足取りで男たちがサロンに入ってきた。
「ははうえ……。本日の報告、ですが……うぐっ」
「へいか……無理をなさいませんよう……。私も、頭の半分が割れるように痛く、吐き気が……」
「くそっ、古傷の右肩が疼きおる……! 暴風竜の呪いめ……!」
息子のライナルト王、ハルバート財務大臣、そしてゴードン騎士団長である。
見れば、三人とも顔面は蒼白。ライナルトとハルバートは頭を抱え、ゴードン団長は過去の戦で負ったという右肩をさすりながら、今にも倒れそうな様子で長椅子にへたり込んだ。
「あなたたち、見事に全滅じゃないの」
私は呆れてため息をついた。
「王太后様……。暴風竜が近づくと、決まって我々のように原因不明の頭痛や、関節の痛みに苦しむ者が続出するのです。これは間違いなく、竜が放つ見えない毒の瘴気……!」
ロベルト医官が、自身も青い顔をしてフラフラと入ってきながら解説した。
(竜の毒の瘴気って……。ただの『気象病(天気痛)』じゃないの!)
前世の五十代主婦だった頃、私もこの「台風前の頭痛」には酷く悩まされたものだ。
天気が悪くなる前、気圧が急激に下がると、人間の耳の奥にある「内耳」という気圧センサーが過剰に反応してしまう。それが自律神経を狂わせ、頭痛やだるさ、めまい、そして古傷の痛みを引き起こすのだ。
「いい? 毒でも呪いでもないわ。気圧が下がって、耳の奥の血流が悪くなっているのが原因よ。さあ、全員そこに座って。主婦の『くるくる耳魔法』を教えてあげるから」
私は頭を抱える男たちの前に立ち、自分の両耳をつまんで見せた。
「まずは、両耳を軽くつまんで、上、下、横に五秒ずつ引っ張るの。……そう、痛気持ちいいくらいの強さでね」
ライナルトたちが、しかめっ面をしながら自分の耳を引っ張る。
「次に、耳を横に引っ張りながら、後ろに向かってゆっくりと五回ぐるぐると回す! いっち、にー、さーん!」
「い、痛いですぞ母上! 耳が千切れます!」
「いいから回す! そして次は、耳の上下をつまんで、パタンと半分に折りたたむの。これを五秒キープ!」
屈強な騎士や大臣が、自分の耳を餃子のように折りたたんで「ふんぬぅ」と耐えている姿はかなり滑稽だったが、私は容赦しない。
「最後は、手のひら全体で耳を覆って、後ろに向かって円を描くように優しくマッサージ! ……はい、終わり!」
ほんの一分程度のマッサージである。
しかし、手を離した瞬間。
「「「…………あ、あれ?」」」
最初に声を上げたのは、ハルバート大臣だった。
「あ、頭を締め付けていた見えない鉄の輪が……消えた? 視界のモヤが晴れて、吐き気もスッキリと治まっている……!」
「本当だ! ズキズキと疼いていた肩の古傷が、ポカポカと温かくなり、痛みが引いていく……! これは一体どういうことだ!?」
ゴードン団長が、右腕をぐるぐると回して驚愕している。
「内耳の血流が良くなって、乱れていた自律神経が整ったのよ。天気が悪くなる前にこれをやっておけば、気象病の予防になるわ」
私がドヤ顔で説明すると、ロベルト医官が震える手でメモを取り始めた。
「み、耳を引っ張り、回すだけで、気圧の変化による肉体の不調を完全に相殺するとは……! なんという画期的な理学療法! この【聖なる耳輪の舞】を全軍に広めれば、嵐の日の行軍でも兵士の損耗を防げますぞ!」
「おおおっ! さすがは母上!」
頭痛が消えて完全に元気を取り戻したライナルトが、ドーン!と胸を叩いた。
その時である。
ヒュゴォォォォォォッ!!
窓の外で、一際大きな風の唸り声が響いたかと思うと、王宮を照らしていた照明(大型の光の魔石)が、フッと一斉に消えてしまった。
「な、なんだ!? 敵襲か!?」
ゴードン団長が剣の柄に手をかける。
「落ち着いてください!」
暗闇の中、侍女長のガブリエラさんが声を張り上げた。
「暴風により、城の地下にある『魔力供給塔』の伝導管が外れたようです! 予備の小さな魔石しか機能しておりません!」
ガブリエラさんが、引き出しから親指大の「小さな光の魔石」をいくつか取り出し、机の上に置いた。豆電球ほどの頼りない光が、部屋のほんの一部だけをぼんやりと照らしている。
「くっ……! これでは暗すぎて、緊急の防衛司令書にサインができぬ! 嵐の被害状況の集計も不可能だ!」
ハルバート大臣が、紙に顔をこすりつけるようにして焦っている。
(ああ、停電ね。台風にはつきものだわ)
前世でも、台風で停電した夜は、懐中電灯の光だけで心細い思いをしたものだ。しかし、主婦の防災知識を舐めてはいけない。
「ガブリエラさん。厨房から、水がたっぷり入った『透明なガラスの水差し』を持ってきてちょうだい! なるべく丸くて、模様の入っていないやつよ!」
「は、はい!」
数分後、ガブリエラさんが大きなガラスの水差しを抱えて戻ってきた。
「よし。ハルバート、その小さな光の魔石を、机の真ん中に上に向けて置いて」
「こ、こうですか?」
机の上にポツンと置かれた、豆粒のような魔石の光。
私はその魔石の上に、水をなみなみと入れたガラスの水差しを、ドスンと乗せた。
パァァァァァァァァッ!!
次の瞬間、驚くべきことが起きた。
水差しの下から放たれた豆粒の光が、水の中で複雑に乱反射し、水差し全体がまるで「巨大な発光体」のように眩い光を放ち始めたのだ。
先程まで手元すら見えなかったサロンの室内が、本が読めるほど明るく、そして温かい光で満たされた。
「「「…………っっ!!??」」」
男たちが、あんぐりと口を開けて光り輝く水差しを見つめている。
「な、なんという眩さ……! 光属性の増幅魔法か!? いや、魔力の波長は一切変わっていないぞ!」
エリファス(宮廷魔術師)がいたら発狂しそうな現象に、ライナルトが震える手で水差しに触れようとする。
「ただの光の乱反射(屈折)よ」
私は得意げに腕を組んだ。
「水を入れたペットボトル……じゃなくてガラス瓶を下から照らすと、光が水の中で広がって、簡易的なランタンになるの。停電の時の主婦の裏技よ。これなら、少ない光でも部屋全体を明るくできるでしょう?」
「す、素晴らしい……!」
ハルバート大臣が、明るくなった机の上で猛烈な勢いで書類にペンを走らせ始めた。
「これならば、魔力供給が絶たれた非常時でも、最小の魔石一つで完璧な執務環境を維持できます! 軍議も問題なく行える!」
「おおお! 母上、この【水鏡の聖光】はまさに奇跡の光! 暗闇に怯える民の心をも照らす希望の灯火ですぞ!」
「だから、ただの水と光の屈折だってば……」
私のツッコミをよそに、ライナルトたちは「すぐさま城中の水差しを集め、各部屋に【聖光の灯柱】を設置せよ!」と大興奮で指示を出し始めた。
外では暴風竜の唸り声が恐ろしい音を立てていたが、サロンの中は手作りの水瓶ランタンの優しい光に包まれ、嘘のように穏やかだった。
「王太后様。頭痛も消え、部屋も明るくなり、なんだか嵐の夜ということを忘れてしまいそうですわ」
ガブリエラさんが、水瓶の光に照らされながら、ホッとしたように微笑んだ。
「そうね。備えあれば憂いなし、よ。嵐が過ぎ去るまで、ここで温かいお茶でも飲みながらのんびり待ちましょうか」
異世界の恐ろしい自然の猛威も、五十代主婦の「防災の知恵」と「ちょっとした工夫」の前では、家族の団欒の時間を脅かすことはできないのだった。




