自家製・命の水とひんやり氷雪冷汁
「……あー、暑い。溶けそう」
雨季が明け、ソルディス王国に容赦のない本格的な初夏が到来した。
雲一つない青空から照りつける太陽は、まるでジリジリと肌を焼くオーブンのようだ。サロンの窓を開け放っても、入ってくるのは熱気を帯びた生ぬるい風ばかりである。
「王太后様、冷たいおしぼりをお持ちしました……。ふぅ」
侍女長のガブリエラさんが、額に汗を滲ませながら、水で濡らしたタオルを持ってきてくれた。彼女の顔も暑さでほんのりとのぼせている。
「ありがとう。でも、ただ濡らしただけじゃすぐにぬるくなっちゃうわね。……って!?」
突然、サロンの扉がバンッ!と開き、数人の兵士たちが、巨大な金属の塊を引きずりながら雪崩れ込んできた。
「た、大変です王太后様! ゴードン団長が……ゴードン団長が【熱魔の瘴気】に当てられて、中庭でお倒れに!」
「ロベルト医官をお呼びしろ! 急げ!」
兵士たちが床に寝かせたのは、近衛騎士団長のゴードンさんだった。
彼は顔を茹でダコのように真っ赤にし、大量の汗を滝のように流しながら、白目を剥いてハァハァと荒い息を吐いている。
「ちょっと! こんな猛暑日に、そんな分厚い銀のフルプレート鎧なんか着て訓練してたの!? 馬鹿なの!?」
私は慌てて駆け寄った。
「そ、それが……王族を護る騎士たるもの、いかなる時も完全武装でいるのが誇りでありまして……」
若い兵士が言い訳をするが、知ったことではない。
(これは完全に『重度の熱中症』よ! このままじゃ命に関わるわ!)
そこへ、医療カバンを抱えたロベルト先生が、血相を変えて飛び込んできた。
「団長! 今年も【熱魔】の季節がやってきたというのか……! 王太后様、すぐさま治癒のポーションを飲ませ……」
「ダメよ! 意識が朦朧としている時に無理やり飲ませたら、気管に入って窒息するわ!」
私はロベルト先生の手をピシャリと叩き落とした。
「いいから、まずはその熱の籠もった鎧を全部脱がせなさい! それと、誰かエリファスを呼んできて!」
数分後。
「お、お呼びでしょうか、王太后様……」
冬場にあれほど「寒い寒い」と震えていた宮廷魔術師のエリファスが、今度は暑さでドロドロに溶けそうな顔でやってきた。氷属性の彼にとって、夏は地獄なのだろう。
「エリファス! あなたの魔法で『氷』を出してちょうだい! 手のひらサイズのものを三つよ!」
「こ、氷ですか? 承知いたしました。」
エリファスがパチンと指を鳴らすと、空中にゴロンと三つの氷の塊が出現した。
私はそれを、ガブリエラさんが持っていた手拭いでそれぞれ包み込んだ。
「よし。熱中症で体温が上がりきった時は、むやみに全身を冷やしちゃダメなの。首の左右(頸動脈)、脇の下、そして太ももの付け根(そけい部)。この『太い血管が通っている三箇所』に、氷を当てて集中的に冷やすのよ!」
言われた通りに兵士たちがゴードンの首と脇、足の付け根に氷入りの手拭いを挟み込む。
冷やされた血液が全身を巡ることで、ゴードン団長の異常な熱が、スーッと引いていくのがわかった。
「……う、おお……。わ、私は、一体……」
五分ほどで、ゴードン団長がパチリと目を開けた。
「気がついたわね! ロベルト先生、今のうちに『特製の水』を作るわよ。ただの水を飲ませちゃダメよ!」
前世の五十代主婦は、夏の熱中症対策にはうるさいのだ。
汗と一緒に体内の「塩分」が大量に失われている時に、ただの水だけをガブ飲みすると、体液が薄まってしまい、余計に症状が悪化する(自発的脱水)。
必要なのは、体液に近い成分の『経口補水液』だ。
私は厨房から持ってこさせた冷たい水に、ひとつまみの塩と、吸収を良くするためのたっぷりのハチミツ、そして風味付けのレモン(のような柑橘)を数滴絞り入れた。
「これをゆっくり、少しずつ飲ませて!」
ゴードン団長は、起き上がると、渡されたカップの水をゴクリと飲んだ。
「……っ!! な、なんだこれは……! ただの甘い水ではない、塩気が……塩気が枯れ果てた肉体の隅々にまで、染み渡っていく……!!」
ゴードン団長は、まるで砂漠でオアシスを見つけた旅人のように、涙を流しながら特製水を飲み干した。
「おおおお! 身体の奥底から、力が湧き上がってくる! 熱魔の呪いが、完全に浄化されましたぞ!」
「よかった。でも、団長だけじゃないわよね」
私は窓の外を見た。中庭では、鎧を着たままフラフラになっている兵士たちが大量に発生している。
そこへ、またしてもバンッ!と扉が開いた。
「は、ははうえぇ……。あついです……とけます……」
「へいか、もう一歩も歩けませぬ……。国庫の計算をしようにも、頭が茹で上がって数字が踊っております……」
息子のライナルト王とハルバート財務大臣が、ゾンビのようにヨロヨロと入ってきて、そのまま絨毯の上にバタリと倒れ伏した。
「ああもう! どいつもこいつも、夏バテのフルコースじゃないの!」
私は呆れ果てて腰に手を当てた。
「バルトさんを呼びなさい! 食欲の落ちた男たちの胃袋に、栄養と水分を無理やり叩き込む『主婦の夏飯』を作らせるわよ!」
厨房に降り立った私は、汗だくで火の前に立つバルト料理長に指示を出した。
「バルトさん、火は使わないわ! キュウリを薄い輪切りにして、お塩で揉んで水分を絞ってちょうだい! それと、豆腐(ソイ豆の固まり)と、すり潰したゴマを用意して!」
バルトさんは不思議そうにしながらも、見事な包丁さばきでキュウリをスライスしていく。
「大きなすり鉢に、すりゴマと、お味噌(ソイ豆の発酵調味料)を入れて混ぜ合わせるの。そこに、冷たい魚の出汁を少しずつ注いで伸ばしていくわ」
香ばしいゴマの香りと、味噌のコクのある匂いが厨房に広がる。
「そこに、さっきの塩揉みキュウリと、手で崩した豆腐を入れる。最後に、エリファスの氷を浮かべれば……」
私が作ったのは、宮崎県の郷土料理であり、日本の夏の救世主――【冷汁】である。
「これを、水で洗ってヌメリを取った冷たいご飯(あるいは麦飯)の上に、たっぷりとかけて食べるのよ! さあ、持っていきなさい!」
サロンに運ばれた「特製・冷やし氷雪汁(冷汁)」。
夏バテで「もう肉もパンも見たくない」と呻いていたライナルトたちだったが、目の前に置かれた器から漂う、冷たい出汁とキュウリの爽やかな香りに、ピクッと鼻を動かした。
「……冷たい、スープかけご飯……?」
ライナルトが、匙ですくって一口食べた。
「「「…………っっ!!??」」」
三人の男たち(国王、大臣、騎士団長)の目が、一斉にカッと見開かれた。
「う、美味い!! なんだこの、喉を滑り落ちていく冷たさと旨味は!」
ライナルトが、ガツガツと音を立てて冷汁を掻き込み始めた。
「味噌の塩分とゴマの風味が、疲労した内臓に優しく染み渡ります! それに、塩揉みされたキュウリの『パリパリ』とした食感が、見事に食欲を刺激してくる……!」
ハルバート大臣も、眼鏡をずり落としながら匙を止めることができない。
「温かい肉料理など一切喉を通らなかったのに、これならばいくらでも腹に入っていく! しかも、豆腐と魚の出汁で、力(タンパク質)もしっかりと補給できるとは!」
ゴードン団長に至っては、すでに二杯目のおかわりを要求している。
汗をかいて失われた塩分と水分を同時に補給し、火照った体を内側から冷やし、消化にも良い。これぞ、日本の先人たちが生み出した究極の夏バテ対策レシピである。
「ぷはぁーっ!! 生き返りました!」
器を空にしたライナルトが、口元を拭いながらドーン!と立ち上がった。
「母上! あの【甘塩の命水(経口補水液)】と、この【氷雪の冷汁】……! これがあれば、我が国の兵士たちは、灼熱の太陽の下でも一切倒れることなく進軍することが可能です!」
「おおおっ! その通りですぞ陛下!」
ハルバート大臣が、完全に生気を取り戻した顔で叫んだ。
「あの『太い血管を氷で冷やす』という【三点冷却陣】の戦術と組み合わせれば、熱魔の瘴気など恐れるに足らず! すぐさま、全軍の兜と鎧の構造を改め、首と脇に冷却材を仕込める仕様に設計変更いたします!」
「それと、夏の陣中食はこの『冷やし汁』を正式採用する! バルト、ただちに国中のキュウリと味噌をかき集めよ!」
(だから、ただの夏バテ対策と冷汁だってば……!)
私のツッコミも虚しく、彼らは「熱魔に打ち勝つ最強の軍隊を作るぞ!」と大声で叫びながら、執務室へと嵐のように駆け出していった。
残された私とガブリエラさん、そしてロベルト先生は、ポカンとその背中を見送った。
「……王太后様。魔法薬の知識をひけらかしていた自分が、ひどくちっぽけに思えてきました」
ロベルト先生が、ポーションの瓶をそっとカバンにしまいながら苦笑いした。
「薬を使う前に、水分と塩分の濃度を調整し、物理的な冷却ポイントを的確に突く。まさに、生命の理を知り尽くした者の御業です」
「大げさね。主婦ならみんな、夏になればやってることよ」
私はふふっと笑いながら、自分の分の冷汁をゆっくりと匙ですくった。
窓から吹き込んでくる風はまだ熱を帯びているけれど、冷たい氷が浮かぶ器を手にしていると、ほんの少しだけ涼しさを感じることができる。
異世界の厳しい夏も、工夫次第で美味しく、そして健やかに乗り切れる。
五十代主婦の「夏の知恵」は、灼熱の熱魔さえも、見事に美味しく退治してしまったのである。




