王太后の異世界偉業
「おばあ様! 見て、見て! 裏庭の生垣の向こうで、とっても綺麗なトカゲを見つけたの!」
ドタドタと、およそ王宮の廊下には似つかわしくない足音を立てて飛び込んできたのは、私の「孫」にあたる子供たちだった。
兄のレオンは今年で八歳になる王子。妹のシアは六歳になる王女。二人とも、絵本から抜け出してきたかのように愛らしい、輝くような金髪と碧眼の持ち主だ。
……けれど、今の二人の姿は、お世辞にも「高貴」とは言えなかった。
「まあまあ、レオンにシア。元気なのは良いけれど、そんなに慌てて走ったら転んでしまうわよ」
私が椅子から立ち上がって声をかけると、二人の後ろから顔を真っ青にした年配の女性が滑り込んできた。この王宮の奥向きを仕切る侍女長のガブリエラさんだ。年齢は私と同じくらいだろうか。いつも髪をきっちりと夜会巻きにして、定規で測ったような隙のない態度を崩さない人である。
「王太后様! 申し訳ございません、私の監督が行き届かず、レオン殿下もシア殿下も、このような……このような浅ましい姿に!」
ガブリエラさんは今にも卒倒しそうな勢いで胸に手を当てている。
確かに、二人の衣服は凄まじいことになっていた。
レオンの白い上着の袖口には、べっとりと黒い泥汚れ。おそらく生垣の下を這いつくばったのだろう。そしてシアの淡いピンク色のドレスの胸元には、赤紫色の不気味な液体が飛び散ったような大きな染みができていた。
「シア、その胸の赤いやつは、もしかして果物?」
「うん! 裏庭になってた『ルル実』をね、レオンお兄様が採ってくれたの。甘くて美味しかったんだけど、じゅわって汁が出ちゃって……」
シアが小さくなって、上目遣いで私を見てくる。叱られると思っているのだろう。
ガブリエラさんは、キッと目を吊り上げて、控えていた若い侍女たちに鋭い声を飛ばした。
「すぐに職人を呼びなさい! このお召し物はどちらも、最高級のシルクと魔獣の毛を織り交ぜた一点ものです。染みが残るようなら、すぐに新しいものを仕立て直さなければ。……ああ、なんというもったいないことを。王族としての自覚が足りません!」
その言葉を聞いた瞬間。
マリエルとしての私の意識の奥底で、眠っていた「真理子」の懐かしき主婦魂が、カチリ、と音を立てて目覚めた。
(……ちょっと待って。一点ものの高級服? それを一回の泥汚れと果汁くらいで、使い捨てにするつもり?)
信じられない。もったいない精神の塊である日本の50代主婦に対して、なんという経済的暴挙だろうか。
前世での私の口癖は「まだ着られる」「まだ使える」「工夫すれば綺麗になる」だった。
息子(前世の我が子)が小学生だった頃、毎日毎日、膝に泥をすりつけ、お昼寝の時間にこぼした牛乳の匂いをさせて帰ってきた時のことを思い出す。あの時の洗濯の苦労に比べれば、この程度の汚れ、可愛いものである。
「ガブリエラさん、落ち着きなさい。職人を呼ぶ必要はありませんよ」
私は努めて穏やかに、けれど家庭を長年預かったベテラン主婦としての威厳を込めて言った。
「え……? しかし、王太后様。ルル実の果汁は、一度生地に染み込むと、宮廷魔法使いの『洗浄』の魔法でも薄く跡が残ってしまうほどの難敵でございます。ましてや泥汚れと混ざっては、もう……」
「魔法で落とせないなら、手で落とせばいいのよ。服の汚れを落とすのは、魔法の呪文ではなく、適切な手順とちょっとした知恵ですよ」
私はドレスの長い袖を、よいしょ、とたくし上げた。
ガブリエラさんをはじめ、周囲の侍女たちが「ひっ」と息を呑むのが分かった。王太后が自ら腕まくりをするなど、この国の歴史上、前代未聞に違いない。
「レオン、シア。その上着を脱ぎなさい。今すぐ処置すれば、綺麗に元通りにしてあげるわ」
「本当、おばあ様!? 怒らないの?」
レオンが目を輝かせる。私は彼の頭を優しく撫でた。
「お友達を探すのは楽しいものね。でも、お洋服を汚したら、次はどうすれば汚れが落ちるか、一緒に考えるのが大人になる為のルールよ。さあ、二人とも手を洗って、着替えてきなさい」
子供たちを侍女に預け、私はガブリエラさんを振り返った。
「ガブリエラさん、お湯を用意して。それから、厨房へ行きましょう。あそこには、私の探している『道具』があるはずよ」
「は、はい……? 厨房、でございますね」
狐につままれたような顔の侍女長を従え、私は記憶を頼りに、王宮の広大な厨房へと向かった。
王宮の厨房は、まるで一つの戦場のようだった。
何十人もの料理人や見習いが忙しなく動き回り、巨大な鍋からは湯気が立ち上っている。
そこへ、最高権力者である王太后が、ドレスの袖をまくり上げた姿で現れたのだから、現場は大パニックである。
「お、王太后様!? このような騒がしい場所に、一体どのような御用で……!」
恰幅のいい料理長のバルトさんが、持っていた特大のおたまを落としそうになりながら平伏した。
「バルトさん、急に押し掛けてごめんなさいね。ちょっと、お借りしたいものがあるの。……この国で、お掃除や、お肉を柔らかくする時に使う『白い砂のような粉』はあるかしら? 炭酸の味がして、水に溶けると少しシュワシュワするやつ」
私の脳内にあるマリエルの知識を検索する。地球での「重曹(炭酸水素ナトリウム)」にあたるものが、この世界にもきっとあるはずだ。
バルトさんは目を瞬かせた後、「は、はあ……それでしたら、アルカリ鉱山から採れる『ペコ草の灰塩』のことでしょうか? 確かに固いお肉を煮込む時に使いますが……」と、棚の奥から木製の古い壺を取り出してきた。
中を見ると、まさに少し粗めの重曹そのものだった。
「これよ! これを頂くわね。それから、酸っぱい果物の果汁……そうね、レモンのようなキリ果実の絞り汁も一杯ちょうだい」
「……? は、はい、ただいま!」
料理長は首を傾げながらも、最高級のキリ果実を絞ってガラスの器に淹れてくれた。これで「クエン酸」も確保。
重曹(アルカリ性)とクエン酸(酸性)。この二つがあれば、家庭の汚れの八割は落とせる。これが、前世の「ナチュラルクリーニング」の基本のキ、である。
私はそれらを持って、今度は洗濯場へと移動した。
王宮の洗濯場では、大きなタライを前に、洗濯係のメイドたちが固形石鹸で力任せに衣服を擦り合わせていた。生地が傷むのも当然だ。
「さあ、まずはレオンの泥汚れね」
私はレオンの上着を受け取ると、あらかじめ用意させたぬるま湯に浸した。
「王太后様、泥汚れでしたら、石鹸をたっぷりつけて擦るのが通常のやり方ですが……」
心配そうに見守るガブリエラさんに、私は首を振ってみせた。
「ガブリエラさん、それが大間違いなのよ。泥汚れっていうのは、油や汗の汚れと違って、細かい『砂の粒』が繊維の奥に入り込んでいる状態なの。そこにいきなり石鹸をつけて擦ったら、どうなると思う?」
「綺麗に、なるのでは?」
「逆よ。石鹸の泡が砂の粒を包み込んで、さらに繊維の奥へと押し込んでしまうの。だから、泥汚れの基本は『まずは乾かして叩き落とす』、あるいは『流水で砂粒を押し流す』こと。石鹸を使うのはその先よ」
私は上着を裏返し、裏側からシャワー……はないので、水差しのお湯を勢いよく注ぎ、繊維の奥の泥を押し出した。その後、バルトさんにもらったペコ草の灰塩(重曹)を少し水で練ってペースト状にし、汚れのひどい部分に塗って、使い古した柔らかいブラシ(馬の毛のものを見つけた)で、トントンと軽く叩くようにして汚れを浮かせた。
「擦っちゃダメ。繊維を傷めないように、優しく叩き出すのよ。ウチの主人が言っていたわ。戦場で汚れた軍服を洗う時も、これが一番だって」
口を突いて出た言葉に、ハッとする。
主人の健一。彼は自衛官だったから、服装、汚れ落としには妙に詳しかった。洗濯器がまだ珍しい時代、洗濯器が故障した時、二人で並んで、お風呂場で息子のドロドロのユニフォームを洗ったっけ……。
胸の奥が少しチクリとしたけれど、私はすぐに笑顔を取り戻した。
「よし、泥はこれでOK。次はシアの果汁の染みね」
ルル実の果汁。植物性の染みは、大抵が「酸性」か「色素」の汚れだ。
私は、染みの部分に直接、キリ果実の絞り汁(クエン酸)を少し垂らした。すると、不思議なことに、見る見るうちに赤紫色の染みが、サーッと薄い黄色へと変化していく。
「あ、色が変わりましたわ!」
ガブリエラさんが声を上げた。
「そう、植物の色の成分は、酸性やアルカリ性の度合いが変わると、色が変わる性質があるの。ここへ、さらにあの白い粉(重曹)を少しだけ振りかけると……」
粉を落とした瞬間、シュワシュワシュワ!と白い泡が弾けた。
洗濯場にいたメイドたちが「わあ!」と歓声を上げる。まるで魔法の実験を見ているかのような光景だろうが、これはただの中和反応による発泡作用だ。この泡が、繊維の奥に残った色素を弾き出してくれる。
最後に、ぬるま湯ですすぐと。
「……信じられない」
ガブリエラさんが、手を取り直したレオンの上着と、シアのドレスを見て、呆然と呟いた。
そこには、泥の黒ずみも、ルル実の禍々しい赤紫色の染みも、一切残っていなかった。新品同様の、美しい白とピンクの生地が、おひさまの光を浴びて輝いている。
「魔法を使わずに……ただの厨房のありふれた材料だけで、ここまでの洗浄を行うなんて……。王太后様、あなたは一体、どのような秘術(魔法)をお使いになられたのですか!?」
ガブリエラさんは、まるで神の奇跡を目撃したかのように、私の前に跪いた。洗濯係のメイドたちも、羨望と尊敬の眼差しを私に向けている。
「秘術だなんて大げさよ。ただの『主婦の知恵』。物を大切にする気持ちがあれば、誰にでもできることよ」
私はふう、と額の汗を拭った。
久しぶりに本格的な染み抜きをして、少し腰が痛い。けれど、何とも言えない達成感があった。やっぱり、汚れたものが綺麗になるというのは、いつの時代、どこの世界にいても気持ちがいいものだ。
その日の夕刻。
綺麗になったお気に入りのドレスを着たシアと、泥の取れた上着を着たレオンが、私の部屋で大はしゃぎしていた。
「おばあ様すごーい! 本当に魔法みたいだった!」
「ねえ、おばあ様。次からは、服が汚れても、おばあ様のところに来れば大丈夫?」
「こらこら、レオン。汚さないように気をつけるのが先決ですよ」
私は笑いながら、二人のために用意した「おやつ」をテーブルに並べた。
おやつと言っても、王宮の豪華なケーキではない。
さっき厨房を借りた際、余って硬くなっていた白パンを見つけたので、卵と牛乳、そして少しの砂糖に浸して、バターでじっくり焼いたもの……つまり「フレンチトースト」だ。
仕上げに、王宮の庭で採れた蜂蜜を少しだけ垂らしてある。
「わあ、いい匂い! これ、なあに?」
「フレンチトーストっていうのよ。硬くなったパンも、こうすれば柔らかくて美味しく食べられるの」
二人は一口食べると、目を丸くして「美味しい! 不思議な味だね」と声を揃えた。
贅沢な素材を使わなくても、一手間加えるだけで、おやつはこんなに優しく、温かい味になる。
そこへ、部屋の扉が静かに開き、息子のライナルト王が入ってきた。
彼の顔には、昼間の会談の疲れなど微塵も見えず、むしろ興奮で上気しているようだった。
「母上! お耳に入れたいことがございます!」
ライナルトは私の前に進み出ると、嬉しそうに語り始めた。
「昼間、母上にいただいたご助言通り、隣国の使節団に対し『まずは三年の試行期間として関税を半減する。その間の交易量に応じて、今後の免税を検討する』と提示いたしました。すると、あちらの代表は完全にこちらのペースに呑まれ、二つ返事で条約を締結したのです! 大臣たちも、母上の先見の明に、ただただ平伏しております!」
「まあ、それは良かったわね。ライナルト、お疲れ様」
私はお茶を淹れながら、微笑んだ。町内会の交渉術が、国家の外交に役立ったようで何よりだ。
「それだけではございません」
ライナルトは一歩近づき、畏敬の念がこもった目で私を見つめた。
「宮廷内が、今、大変な騒ぎになっております。母上が、厨房の聖なる粉と果実の雫を用い、錬金術師すら考えつかぬ『呪いの染み』を一瞬で消し去る【大洗浄】の秘術を披露されたと。侍女長をはじめ、使用人たちが『王太后様は、錬金学の化身であらせられる』と噂しております」
「……はい?」
私は淹れかけた紅茶をこぼしそうになった。
大洗浄の秘術? 錬金学の化身?
ただの重曹とクエン酸の裏技なのだけれど。
「母上、あなたは関税の複雑な心理戦を制し、さらには失われた古代の洗浄魔術まで復活させられた……。やはり、このソルディス王国を真に救うのは、母上、あなたです!」
キラキラとした、純粋な尊敬の眼差しを向けてくる息子。
横では、フレンチトーストを口いっぱいに頬張った孫たちが「おばあ様、しゅごい!」と拍手している。
(……大変。なんだか話が、どんどん大きな方向へ転がっていっている気がするわ……)
私は、温かい紅茶をすすりながら、遠い空を仰ぎ見た。
ただのもったいない精神と、ズボラ主婦の小細工が、この国では「国家の奇跡」になってしまうらしい。
でも、まあ……みんなが笑顔になって、服も綺麗になって、ご飯も美味しいのなら、それでいいいかもしれない。
「ライナルト、あなたもその硬いパンのリメイク、食べてみる? 美味しいわよ」
「は、はい! 喜んで、母上の聖なる料理をいただきます!」
「聖なる料理って……」
私の不慣れな異世界。この世界での二度目の人生は、どうやら思っていたよりも、賑やかで、そして「崇められる」ものになりそうだった。




