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二度目の人生は王太后。前世の知識や捨てたはずの主婦の知恵が、王国を救うきっかけとなりました。  作者: 逆立ちハムスター


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1/5

霧の向こうは、見知らぬ玉座

「……ねえ、やっぱり『グルコサミン』、効く気がしない?」


親友の恵子が、石段を一歩上るたびに大げさな溜息をつく。私は苦笑しながら、手すりをしっかり握って自分の膝を労わった。


「恵子さん、それはまだ飲み始めて一週間でしょ。即効性があるのは痛み止めだけよ。私たちはもう、神頼みとサプリメントの併用が必要な年頃なんだから」


私たちの笑い声が、箱根の古い神社の裏参道に響く。

今日は、高校時代からの腐れ縁である恵子と良江との三人旅だ。子供たちはとっくに自立し、夫は……まあ、私の場合は、夫の健一が「行方不明」という扱いになってから、もう十年が経つ。

自衛官だった夫は、海外での災害派遣中に大規模な土砂崩れに巻き込まれた。遺体は見つからず、殉職として処理されたけれど、私の心の中では、彼は今もどこかのジャングルで道に迷っているような、そんな落ち着かない感覚がずっと消えずにいた。


「でもさ、真理子。あんたが一番元気よね。毎朝のラジオ体操と、あの『ズボラ掃除』のおかげかしら」


良江が感心したように言う。私は「ただの貧乏性よ」と返した。

五十を過ぎると、人生は「整理」の連続だ。重い家具を捨て、複雑な人間関係を整理し、自分にとって本当に必要なものだけを残していく。それが私の「主婦の知恵」の集大成。

便利グッズを買い込むより、古布を切った「ウエス」でさっと汚れを拭き取る潔さ。そんな小さな工夫が、私の日常を支えていた。


「あら、見て。あんなところに鳥居なんてあったかしら?」


恵子が指差した先。

地図には載っていなかったはずの、古びた、けれど妙に艶やかな朱色の鳥居が、深い霧の中に佇んでいた。

その先には、見たこともないほど真っ白な花々が咲き乱れている。


「ちょっと行ってみましょうよ。映える写真が撮れるかも」


映える。

初めはなんのことかさっぱり分からなかったけれど、子供達からチャットアプリの使い方を教わってからというもの、私達は仲間内で次第に子供達の言葉を面白く使い合うようになってっいった。『言葉使いで脳が若返るのよ』なんて冗談で使い始めたのが、もう懐かしい。


好奇心の強い良江に袖を引かれ、私たちは霧の中へと足を踏み入れた。

その瞬間だった。

お線香のような、懐かしくて少し甘い香りが鼻腔をくすぐったかと思うと、急に足元がふわっと浮き上がるような感覚に襲われた。


「えっ……!?」

「ちょっと、みんな!? 大丈夫!?」


視界が白一色に染まる。

血圧が急に上がった時の、あの耳鳴りに似た音が頭の中で鳴り響き、私は反射的に目を閉じた。


(……ああ、やっぱり。昨日、ちょっと無理して歩きすぎたかしらね。明日、膝が腫れなきゃいいけど……)


そんな、あまりに生活感溢れる不安を最後に、私の意識は深い眠りへと落ちていったようだった。


どれくらい、そうしていたのだろう。

お尻の下に、ひんやりとした、けれど酷く硬い感触を感じて、私はゆっくりと目を開けた。


「……いたた。……腰にくるわね、この椅子」


無意識に漏れたのは、いつもの独り言だった。

けれど、返ってきたのは恵子たちの笑い声ではなく、冷たく張り詰めた「静寂」だった。


「……あら!?」


焦点を合わせる。

まず目に飛び込んできたのは、高く、高くそびえ立つ天井だった。そこには複雑な星座のような模様が金細工で描かれ、巨大なシャンデリアが眩い光を放っている。

次に気づいたのは、自分の服装だ。

さっきまで着ていたお古の撥水パーカーとストレッチパンツはどこへやら。私は見たこともないほど重厚で、光沢のある深い紫色のドレスを纏っていた。

手元を見れば、何カラットあるのか想像もつかない巨大なルビーの指輪が、節くれだった……けれど、以前より少しだけ肌に張りのある指に嵌っている。


そして一番の問題は。

私が今、広大なホールの突き当たりにある、一段高い「黄金の椅子」に座っているということだった。


「……母上? 母上、いかがなさいましたか。急に黙り込まれて」


低い、けれど聞き覚えのない、それでいてどこか懐かしい響きを持つ声がした。

視線を下ろすと、そこには一人の男性が跪いていた。

四十代ぐらいだろうか。整った顔立ちに、意志の強そうな眉。そして、金糸で刺繍された豪華なマントを羽織っている。


「……あなたは?」


私の声は、自分でも驚くほど震えていた。

すると、その男性は驚いたように顔を上げ、心配そうに私の顔を覗き込んだ。


「何を仰るのです。あなたの息子、このソルディス王国の王、ライナルトです。……やはり、先日の遠征の疲れが溜まっておいでなのですか?」


……ライナルト?

……ソルディス王国?

……私が、王の、母親?


状況が飲み込めない。

けれど私の脳裏に、濁流のように「知らない記憶」が流れ込んできた。

この世界の私の名前は、マリエル・ド・ソルディス。

この国の王太后であり、数年前に先代の王……この世界での私の夫も戦死(やはり遺体は見つかっていないらしい)した後、幼い息子を支えて国を切り盛りしてきた「鉄の女」なのだという。


(ちょっと待って。私、ただの引退した主婦よ? スーパーの特売日に命をかけて、排水溝のヌメリと戦ってきただけの、ごく普通の五十代よ?)


パニックになりそうな心を、長年の主婦生活で培った「まあ、なんとかなるわよ」という図太さが、辛うじて繋ぎ止める。

深呼吸を一つ。

まずは、目の前の「息子」を安心させなくては。


「……ごめんなさい、その……ライナルト。少し、考え事をしていただけよ。……最近、物忘れがひどくて困るわね」


私は、近所の人に挨拶する時のような、穏やかな微笑みを浮かべてみせた。

すると、ライナルト王は心底ホッとしたように表情を緩めた。


「左様でございましたか。母上がお倒れにでもなったら、この国は立ち行きませぬ。……それで、先ほどの続きなのですが。隣国との通商条約、やはりあちらの要求通り、関税を免除すべきでしょうか? 大臣たちは、それが平和への道だと……」


……いきなり、国家レベルの相談?

私は膝の上でドレスの裾をぎゅっと握りしめた。

関税? 外交? そんなの、テレビの政治評論家じゃないんだから分かるわけがない。

けれど。


(関税って、つまり「お付き合いの経費」みたいなものでしょう? それをタダにするっていうのは……なんだか、近所付き合いで「うちは何でもあげるから、そっちは何も出さなくていいわよ」って言ってるようなものじゃないかしら。それって、最初はいいけど、絶対に後で問題になるパターンよね)


私は、かつて町内会の役員をしていた時の経験を思い出した。

譲りすぎる善意は、時に相手の増長を招く。


「……ライナルト。平和というのは、対等な関係の上にしか成り立たないものですよ。一方的な譲歩は、優しさではなく、弱さと取られることもあります」


私は、かつて息子が中学生の時に「友達にゲームを貸しっぱなしで返してもらえない」と泣きついてきた時に言った台詞を、そのままなぞった。


「一度『タダ』に慣れてしまった相手に、後から『やっぱりお金を払って』と言うのは、最初に交渉するより百倍難しいの。……まずは、半分。あるいは、期間を設けて、試行期間を制定する。主導権は、常にこちらが握っていなくてはダメよ」


言い終わってから、「あ、言い過ぎたかしら」と不安になった。

けれど、ライナルト王は目を見開いた後、深く、深く頭を下げた。


「……感服いたしました。私は、ただ争いを避けたい一心で、大局を見失っておりました。母上の仰る通りです。まずは『期間を設ける』という条件で、再交渉の余地を残しましょう」


彼は立ち上がり、側近たちに力強く指示を出し始めた。

その背中を見送りながら、私はふう、と大きな溜息をついた。


(……なんてこと。これ、夢じゃないのね)


手元のルビーをもう一度見る。

重い。けれど、この重みは責任の重さなのかもしれない。

もし、この世界に飛ばされたことに意味があるのだとしたら。

そして、あの鳥居の向こうで消えてしまった恵子たちや、十五年前に消えた夫の健一が、どこかで繋がっているのだとしたら。


「……やるしかないわね」


私は慣れないドレスの裾を少しだけ持ち上げ、王太后としての第一歩を踏み出した。

膝の痛みは、なぜか消えていた。

代わりに、私の心の中には、長年使い古した「主婦の知恵」という名の、最強の武器が詰まっていた。


掃除、洗濯、料理、そして人間関係の整理整頓。

それらが、この古めかしくも美しい王国を救うことになるとは、この時の私はまだ、知る由もなかったのである。


「おばあ様! おばあ様!」


ホールの向こうから、小さな二つの影が走ってくるのが見えた。

この国の王子と王女。つまり、私の「孫」にあたる子供たちだ。

私は、かつて公園で孫を待ち構えていた時と同じように、両手を広げて微笑んだ。


「さあ、おいで。……まずは、その汚れたお洋服の染み抜きの方法から、教えてあげましょうか」

側にいたメイドさん? が驚いて目を見開いているのが視界に入ってしまった。


異世界での波乱に満ちそうな私の二度目の人生。

主婦だった頃の知恵が、伝説になる物語が、今ここから始まった。

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