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「……はあ。この時期になると、どこにいても憂鬱になるわねえ」
木枯らしが吹き始めた冬のソルディス王宮。
私は、暖かいサロンの窓から中庭を見下ろしながら、重いため息をついた。
窓の外では、たくさんの侍女や兵士たちが、長い箒や梯子を持って右へ左へと慌ただしく駆け回っている。
「王太后様、憂鬱とはどういう意味でございますか? 本日は、一年の邪気を払い落とす神聖なる【大清めの儀】の初日。王宮中が活気に満ち溢れておりますのに」
ガブリエラさんが、張り切った様子で腕まくりをしながら言った。
「大清めの儀」――要するに、年末の「大掃除」である。
前世の真理子だった頃、この言葉を聞くたびに胃が重くなったものだ。換気扇のベトベト油、お風呂場の水垢、窓ガラスのくもり。寒くて水が冷たい時期に、どうしてあんな重労働をしなければならないのかと、毎年こたつの中で現実逃避をしていた。
「ガブリエラさん。大掃除なんて、普段からちょこちょこやっておけば苦労しないのに、一年分をまとめてやろうとするから地獄を見るのよ……って、え!?」
突然、サロンの扉がバンッ!と勢いよく開かれ、煤と油で顔を真っ黒にした大柄な男が転がり込んできた。厨房のバルト料理長である。
「お、王太后様ぁぁっ! どうか、どうかお助けください!」
バルトさんは、私の足元にすがりついて泣きついた。
「どうしたというのバルトさん、そんな泥棒みたいな顔をして」
「厨房の『魔導排気口(換気扇)』でございます! 一日に何百人分もの肉を焼くせいで、飛び散った油が魔法石の熱でカチコチの黒い岩のように固まってしまい、束子で擦っても微動だにいたしません! 見かねた兵士が剣で削り落とそうとしたのですが、刃が欠けてしまいました……!」
「……剣で削るって、馬鹿なの?」
私は呆れてこめかみを押さえた。油汚れを物理攻撃で落とそうとするなど、主婦に対する冒涜である。
そこへ、今度は若い侍女が半泣きで駆け込んできた。
「ガブリエラ様! 大浴場と手洗い場の大理石にこびりついた白く濁った汚れ(水垢)が、いくら力を入れて磨いても落ちません! 爪が……爪が剥がれそうです!」
「ああもう、どいつもこいつも要領が悪いわね!」
私はついに、主婦の血が騒ぐのを抑えきれなくなり、ガバッと立ち上がった。
「いい? 汚れっていうのはね、力任せに削り落とすものじゃないの。汚れの『性格(性質)』を見極めて、それに合った『お薬』で溶かして落とすのよ。ガブリエラさん、バルトさん、私についてきなさい!」
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まずは厨房の「カチコチ油汚れ」である。
私が見上げると、天井に設置された巨大な魔導排気口には、茶色や黒のドロドロとした油が化石のようにこびりついていた。
「いいこと? 油汚れっていうのは『酸性』なの。だから、反対の『アルカリ性』のものをぶつけて、中和させて溶かすのが基本よ。バルトさん、かまどの底に溜まっている『綺麗な白い灰』と、少しのお湯を持ってきて」
バルトさんが持ってきた木灰に、お湯を少しだけ混ぜてペースト状にする。
これは、灰に含まれるアルカリ成分を利用した、前世でいうところの「重曹(あるいはセスキ炭酸ソーダ)ペースト」の代用品だ。
「これを、油汚れにベタベタと塗っていくの。……そう。そして、ここでさらに主婦の裏技よ。この上に、使い古した布を被せて『パック』するの」
「パ、パックですか? 先日の、お顔にヨーグルトを塗るアレと同じでございますか?」
ガブリエラさんが不思議そうに首を傾げる。
「そうよ。汚れを浮かせるには『時間』と『密着』が必要なの。このまま十五分ほど置いておくわ」
その間に、私たちは大浴場へと移動した。
豪華な大理石の浴槽の縁には、白くてガリガリとした「水垢」が石灰岩のようにこびりついている。
「こっちの水垢は、水の中に含まれる成分が固まったものだから『アルカリ性』なの。さっきの灰を塗っても全く意味がないわ。ここには反対の『酸性』をぶつけるのよ。バルトさん、料理で使う『果実酢』の古くなったやつはない?」
「は、はい。酸味が強くなりすぎて、料理には使えないものが樽に余っておりますが……」
「それで十分! その古いお酢を水で半分に薄めて、この水垢にたっぷりとかけてちょうだい。これも同じように、布を被せてしばらくパックよ」
十五分後。
再び厨房に戻った私たちは、灰ペーストを塗った布をそっと剥がした。
すると、あんなにカチコチだった黒い油の化石が、ドロリとした茶色い水飴のように柔らかくなっているではないか。
「ひいいっ! 油の岩が、溶けている……!?」
バルトさんが悲鳴を上げた。
「そのまま、その布で拭き取ってみなさい」
私が指示すると、バルトさんは恐る恐る排気口を拭った。
「ツルッ……」という信じられないほど滑らかな感触とともに、頑固な油汚れが、まるで嘘のようにスルリと拭き取れ、下からピカピカの金属の地肌が顔を出した。
「おおおおっ!? なんだこれは! 力など一切入れていないのに、油が布に吸い込まれるように落ちていく!」
バルトさんは目をひん剥き、狂ったように排気口を拭き始めた。
同じように、大浴場の水垢も、お酢の酸性成分によって柔らかく分解されており、軽くスポンジで擦るだけで、新品の大理石のような輝きを取り戻した。
「……王太后様。これは、どのような【分解の魔法】なのですか?」
いつの間にか背後に現れた宮廷魔術師のエリファスが、震える声で尋ねてきた。
「魔法じゃないわよ。ただの『中和』。酸にはアルカリを、アルカリには酸をぶつけるだけ。……あ、そうだ。せっかくだから、魔法みたいな面白いものを見せてあげるわ」
私は、排水溝の奥のドロドロとしたヘドロのような汚れに目をつけた。
「ここに、さっきの『灰』をたっぷり振りかけて……そこに、『お酢(酸性)』を原液のまま一気に注ぎ込むのよ!」
バシャッ!
お酢が灰に触れた瞬間。
シュワシュワシュワシュワァァァァッ!!
激しい音とともに、真っ白な泡が爆発的に発生し、排水溝の中からモコモコと膨れ上がってきた。
「ひぎゃあああっ!? 泡が! 白い魔獣が生まれてしまったぁぁっ!」
バルト料理長が腰を抜かしてひっくり返る。
「驚かないの。ただ炭酸ガスが発生しているだけよ。このシュワシュワの泡の力で、手の届かない奥の汚れを浮かせて剥がし取ってくれるの。ほら、最後にお湯を流せば……」
ザァーッとお湯を流すと、先程まで悪臭を放っていた排水溝が、新品のようにピカピカになり、嫌な匂いも完全に消え去っていた。
「……あり得ない。魔力波長が一切感知されないのに、これほど凄まじい物理的洗浄力を見せつけるとは……。王太后様は、我々魔術師の常識を根底から破壊するおつもりか……!」
エリファスが、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
こうして、灰とお酢による「主婦の化学お掃除」の知識はあっという間に王宮中に広まり、今年の「大清めの儀」は、例年の半分の時間と労力で、過去最高にピカピカに終わってしまった。
「皆様、本当にお疲れ様でした! 王宮がこんなに綺麗になって、気持ちがいいわね」
夕方、サロンに集まったガブリエラさんや侍女たちを労っていると、皆一様に、自分の両手を見つめてしょんぼりとしていた。
「……どうしたの?」
「王太后様……。お掃除が早く終わったのは嬉しいのですが、お湯と灰、それにお酢を触り続けたせいで、手がカサカサのシワシワになってしまいました。ところどころ、あかぎれが割れて痛みます……」
侍女の一人が、赤く荒れた手を見せて涙ぐんだ。
(ああ、大掃除の後の手荒れね。ゴム手袋がないこの世界じゃ、お湯とアルカリ成分に肌の脂を持っていかれて、当然そうなるわ)
五十代の主婦にとって、冬の「あかぎれ」と「ささくれ」は最大の敵だ。
私は深く頷くと、再びバルト料理長を呼んだ。
「バルトさん、厨房にある一番品質の良い『オリーブの油』と、それから養蜂場から取れた『蜜蝋(ミツバチの巣からとれるロウ)』を持ってきて」
私は火の魔法石の上に小鍋を置き、湯煎(お湯を入れた大きな鍋の中に小さな器を浮かべて間接的に温める方法)の準備をした。
器の中に、オリーブの油をたっぷりと入れ、そこに細かく砕いた蜜蝋を少しだけ加える。熱で蜜蝋がゆっくりと溶け、油と完全に混ざり合ったところで、火から下ろす。
「よし、これをかき混ぜながら冷ましていくの。……ほら、だんだん白く固まって、クリーム状になってきたでしょう?」
とろりとした黄金色の液体が、冷えるにつれて、柔らかく滑らかな白い軟膏へと変化していった。
「これに、安眠の時に使った『リラのハーブ』の精油を数滴垂らせば……はい、『王太后特製・天然蜜蝋ハンドクリーム』の完成よ!」
私は、出来上がったばかりの温かいクリームを指に取り、荒れた侍女の手に優しく塗り込んでいった。
「いい? ただ塗るだけじゃダメ。指の腹で、手首から指先に向かって優しくマッサージするように擦り込むの。爪の周り(キューティクル)にもしっかりとね」
「あ……」
侍女の顔が、ふわりと綻んだ。
「痛くないです……。それに、ガサガサだった皮膚が、見えない絹の手袋で包み込まれたように、しっとりと潤っていきます……! リラのお花の香りもして、凄く癒やされます……」
「蜜蝋が皮膚の表面に薄い膜を張って、水分の蒸発を防いでくれるの。天然のものだけで作っているから、このまま料理をしても大丈夫なのよ」
ガブリエラさんや他の侍女たちも、次々とクリームを手に塗り込み、「まあ!」「手が十歳若返りましたわ!」と大はしゃぎしている。
「はっはっは! 母上! またしても奇跡を起こされたと聞きましたぞ!」
そこへ、いつものように息子のライナルト王と、ハルバート財務大臣がサロンに飛び込んできた。
「聞きましたぞ! 母上が【灰と酢】を用いて、魔導排気口の長年の呪いを解き放ち、さらには排水溝から【浄化の白き泡獣】を召喚して王宮の邪気を一掃されたと!」
ライナルトが、大興奮で身振り手振りを交えて語る。
「ハルバートも感動の極みにございます! あの【灰と酢の中和魔法】を街の清掃にも導入すれば、伝染病の予防に繋がり、都市の衛生環境は劇的に向上します! さらには、その『蜜蝋のクリーム』! これを騎士たちの剣ダコや、農民のひび割れた手に支給すれば、我が国の労働力はさらに盤石なものとなりますぞ!」
(だから、ただの重曹とお酢の掃除と、ハンドクリームだってば……!)
私は、すっかりツッコミを諦めて、自分の手にも蜜蝋クリームを擦り込んだ。
しっとりとした潤いと、ラベンダーに似たリラの香りが、大掃除の疲れを優しく解きほぐしていく。
「……まあ、みんなが綺麗な王宮で、痛い思いをせずに年を越せるなら、それが一番よね」
私は、ピカピカに磨き上げられた窓ガラス越しに、冬の澄んだ青空を見上げた。
異世界での二度目の人生、私の「主婦の知恵袋」は、汚れも、そして人々の肌荒れや疲れまでも、しゅわしゅわと優しく包み込んで溶かしていくのだった。




