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朝の光が差し込むサロンに、お針子のニナが、首を右にガッチリと傾けたまま、まるで壊れたからくり人形のようなぎこちない歩き方で入ってきた。
目の下にはくっきりと青暗いクマができているし、何よりその首の傾き方が尋常ではない。
「ちょっとニナ! どうしたのその首!? もしかして、昨日教えた『体操第一』を張り切りすぎて筋でも痛めたの?」
「い、いえ……体操のおかげで肩こりはスッキリしたのですが……。昨晩、寝て起きたら、首がこの状態で固まってしまって……。左を向こうとすると、首の付け根から背中にかけて、電撃のような痛みが走るのです……」
(ああ……これは完全に『寝違え』ね)
私は納得して小さく頷いた。
五十代の主婦にとって、「睡眠の質」は日中のパフォーマンスを左右する死活問題だ。前世の私も一時期、朝起きるたびに首や肩が痛くてたまらない『枕難民』に陥ったことがある。
高い低反発枕を買ってみたり、中にパイプが入った枕を試したりと、自分に合う枕を探してデパートを彷徨い歩いたものだ。
「ニナ、あなた普段どんな枕で寝ているの?」
「どんな、と言われますと……。王宮から支給されている、水鳥の羽毛がたっぷり詰まった、ふかふかで大きな枕です。頭を沈めると、フワッと包み込まれるような……」
「それよ」
私はピシャリと言い切った。
「ふかふかすぎる枕はね、頭が深く沈み込んでしまって、寝返りが打ちにくいのよ。人間は寝ている間に何十回も寝返りを打って、体の歪みをリセットしているの。それができないと、首の一箇所にずっと負担がかかって、朝起きた時に『寝違え』を起こすのよ」
「ね、寝返り……! たしかに、朝起きるといつも、頭が枕の奥深くに埋まって身動きが取れなくなっております……!」
ニナが首を動かさないようにしながら、目を見開いた。
「それにね、枕というのは『頭』を乗せるものじゃないの。『首の隙間』を埋めるためのものなのよ」
「首の、隙間……?」
人間の背骨、特に首の骨(頸椎)は、緩やかな『Cの字』のカーブを描いている。仰向けに寝た時、ベッドと首の間にできるこの隙間を埋めて支えてあげないと、首の筋肉が休まらず、常に緊張状態になってしまうのだ。
「ガブリエラさん。洗い立ての清潔なタオルケット(のような長くて厚手の布)を三枚ほど持ってきてちょうだい。ニナの『寝違え』と『睡眠不足』を、主婦の魔法で一発で治してあげるわ」
数分後。
サロンの長椅子に、ニナを仰向けに寝かせた。
私はガブリエラさんが持ってきた厚手の布を一枚、丁寧に折りたたんで平らな土台を作った。
「まずはこれがベースね。そして、もう一枚の布を、端からくるくると硬めに巻いていくの」
私が作ったのは、円柱状に丸めた細長い布だ。日本で言うところの『バスタオル枕』の要領である。
「ニナ、少し頭を上げるわよ。……そう。この丸めた布を、あなたの『首の裏側』のカーブにぴったりと当てるの。そして、後頭部はさっきの平らな土台に乗せる」
「あ……」
首の裏側に丸めた布がすっぽりと収まった瞬間、ニナの口から感嘆の吐息が漏れた。
「どう? 高すぎない? 首が苦しかったら、布の巻きを少し戻して低くするわよ。ミリ単位で調整できるのが、この『くるくるタオル枕』の最大の強みなの」
「い、いえ……! 凄いです、王太后様! 首の裏側を、誰かの温かい両手で優しく支えられているような……! 頭の重さがフワッと消えて、宙に浮いているみたいです!」
ニナの顔から、先程までの痛みに耐える強張りが嘘のように消え去った。
首の自然なカーブが保たれることで、首や肩の筋肉が完全に「お休みモード」に入ったのだ。
「これで寝返りもスムーズに打てるはずよ。……ついでに、もう一つ魔法をかけてあげましょう」
私は、自分のポケットから小さな匂い袋を取り出した。
これは先日、ロベルト先生の薬草園で見つけた、紫色の小さな花――地球の『ラベンダー』によく似た香りのする【リラのハーブ】を乾燥させたものだ。
これを、ニナの枕元にそっと置く。
爽やかで、どこか甘く、心の奥底まで解きほぐすような香りがフワリと漂った。
「リラの香りには、張り詰めた神経を鎮めて、深い眠りに誘う効果があるのよ。さあ、ニナ。昨晩眠れなかった分、少しここで休んでいきなさい」
「王太后様……なんて優しい香り……。首が、痛く、な……い…………すぅ……」
ものの十秒だった。
ニナは、先程までの寝違えの苦しみなど嘘のように、穏やかな寝息を立てて深い眠りに落ちてしまった。
「……見事です、王太后様」
一部始終を見ていたガブリエラさんが、感嘆の声を漏らす。
「これほど早く、そして深く眠りにつくとは。宮廷魔術師の【催眠】の魔法すら凌駕しておりますわ」
「ただ身体に合った枕を作っただけよ。高価な羽毛なんていらない、家にある布数枚で、人間はいくらでも快適に眠れるの」
ふふん、と自慢げに胸を張ったその時だった。
「はっはっは! 母上、昨日の『朝の舞』の効果は絶大ですぞ! 文官たちの仕事の処理速度が……って、あれ?」
いつものように、息子のライナルト王が、背後にハルバート財務大臣を従えて意気揚々と乗り込んできた。しかし、長椅子で爆睡しているニナを見て、ピタリと動きを止めた。
「しーっ。今、ニナを寝かせているところだから、静かにして頂戴」
私が人差し指を口に当てると、二人は抜き足差し足で近づいてきた。
その時、私はハルバート大臣の様子がおかしいことに気がついた。
昨日の『ラジオ体操』で肩こりは治ったはずなのに、彼の顔色は酷く青白く、目の下にはニナ以上のドス黒いクマが張り付いている。
「ハルバート大臣、あなた……もしかして、全然眠れていないの?」
「……お恥ずかしながら」
ハルバート大臣が、力なく首を振った。
「王太后様の【体操】と【青竹踏み】のおかげで、身体の疲れは完全に取れたのです。しかし……身体が元気になりすぎたせいか、夜、ベッドに入っても脳が冴え渡ってしまい、国家予算の計算が頭を駆け巡って、一睡もできなくなってしまったのです……」
(あー……あるあるね。自律神経の交感神経が優位になりっぱなしで、リラックスの副交感神経へのスイッチが切り替わっていないのよ)
真面目で責任感の強い中高年に多い、「脳の過労による不眠」だ。
「ハルバート、あなたもこの『くるくるタオル枕』に寝てみなさい。リラのハーブの香りもセットよ」
私は、予備のタオルケットを丸めて、もう一つの特製枕を作り上げた。
「ただの布を丸めただけに見えますが……はあ、失礼して」
疑心暗鬼のまま、ハルバート大臣が絨毯の上に敷かれた布の上に仰向けになり、その首裏に丸めたタオルをフィットさせた。さらに、鼻先にリラのハーブを近づける。
「……む。なんだこれは。後頭部ではなく、首の裏が支えられるという、この未体験の感覚は。……それに、この紫の花の香り。計算で熱を持っていた脳の芯に、冷たい清流が流れ込んでくるような……」
ハルバート大臣のまぶたが、ゆっくりと重そうに下がっていく。
「首の緊張が解けることで、脳への血流が正常化しているのよ。それに香りが、あなたの『お休みスイッチ』を押してくれたの。無理に寝ようとしなくていいわ、ただ、布に体を預けなさい」
「……あ、あぁ……。なんという、至福……。数字が、数字が……消えて、いく…………ぐごぉぉぉっ」
一分後。
国家の金庫番である厳格な財務大臣は、信じられないほどの大きないびきをかいて、完全に意識を手放していた。
「……ハ、ハルバート!?」
ライナルト王が、慌てて大臣の肩を揺さぶろうとしたが、私はそれを手で制した。
「そのままにしてあげて。よっぽど脳が疲れていたのよ」
ライナルトは、呆然とした顔で、爆睡するニナとハルバートを交互に見比べ、そして私の方へとゆっくり向き直った。
「母上……。恐るべきことです。我が国の最強の頭脳を持つハルバートを、魔法も使わず、ただの【丸めた布切れ】と【雑草の匂い】だけで、一瞬にして昏睡状態に陥らせるとは……! これはもはや、安眠を通り越した『必殺の暗殺術』にございます!」
「縁起でもないこと言わないで! 暗殺じゃなくて、ただの良質な睡眠!」
「おおお! これがあれば、戦場で興奮して眠れない兵士たちも、夜泣きに悩む赤子たちも、すべて深い眠りに誘うことができます! 母上! この【聖なる首支えの布】と【忘却の紫花】を、すぐに国定の寝具として認定いたします!」
「だから、大げさなんだってば……」
私のツッコミを背に受けながら、ライナルトは「すぐさま全国の布とリラ草を買い集めよ!」と部下に命じるため、嵐のようにサロンを飛び出していった。
残されたのは、心地よいラベンダーの香りと、二人の穏やかな寝息だけ。
「……本当に、この世界の人たちは極端なんだから」
私は苦笑しながら、自分用の温かいハーブティーを一口飲んだ。
でもまあ、みんながこうして健やかに眠れるなら、それが一番だ。よく食べ、よく動き、よく眠る。それが、五十代……いや、すべての世代を健康に生き抜くための、最強の「主婦の知恵」なのだから。
窓の外では、今日もソルディス王国の青空が平和かつ、どこまでも澄み渡っていた。




