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Monster

 俺たち3人が異変に気づいたのは、7号の死からちょうど5日目の朝だった。

 氷のように冷たい風を頬に感じて、助手席で眠っていた俺はビクッと目を覚ました。人数分の毛布が無いから代わりにタオルケットにくるまって寝たせいで身体がすっかり冷えてしまっていた。深夜から早朝にかけては一段と冷え込むから、いいかげん何か手を打たないとそのうち凍死してしまうだろう。

 ゆっくりと伸びをしてから、後部座席で横になっているユイちゃんに目をやる。南部の作業着や毛布等、あり合わせの防寒具を上から被せられた彼女は小さく縮こまって眠っていた。あれからというもの、俺たちはろくに会話を交わしていない。必要最低限の言葉を機械的に喋り、移り変わる景色を呆けたように見つめるだけの日々。まるで抜け殻のようだった。誰もが心の奥に深い悲しみを押し込めていたのだ。その感情を無理に言葉に出そうとしても、空々しい単語しか生まれない。出来ることなら俺だってこの最悪な気分を誰かと分かち合いたい。でも、何もかも耳を傾けてくれるような女神のような人間はもうこの世にいない。今共に行動している3人は、年齢も境遇もまるで違うから、近くにいるようで実際にはもっと距離があった。

 そのうち俺たちは少しずつ理解していった。街には常に未知の危険がうようよしているのに、俺たちにはそれらから身を守る術がない。いたずらに進めば全員がいっぺんに命を失う可能性もあるため、食料を探す事さえ確実な策無しには出来なかった。

 用を足す時も残りのメンバーが常に辺りを警戒する。一度、俺が外に出ようとした時に後ろから通常種に襲われた事があった。その時は幸いにも南部が反撃してくれてなんとか逃げられたが、その一件以来俺たちはよりいっそう用心深くなった。

 そんな生活が続くとさすがに誰もが精神に異常をきたしてくる。

 俺たちは心底疲弊しきっていた。明日生きているかどうかも分からぬ不安感と、そろそろ食料が底をつくという焦燥感から来る過剰なストレスがじわりじわりと精神を蝕んでいった。

 俺の場合はぼーっとしている事が多くなった。南部が運転する車に揺られ、街の様子を茫然として眺めていると、よく南部から注意された。今は感傷的になっている場合じゃない事くらい分かっているはずなのに、ぽっかりと空いた心の隙間にふとした瞬間に悲しみがそっと入り込んでしまう。色々な記憶を思い出してしまう。このどうしようもなく不安定な気持ちを立て直したくて、俺は心を落ち着かせてくれる何かを探していた。でも、心の底では無駄だと理解していた。

 失ったものは二度と戻らない。

 運転席の南部が起き出した。眠い目を擦りながら何度か瞬きをして、俺の方を見た。そして、寒さに一瞬身震いしてから座席に座りなおした。

「何か来てるかい?」

 何もいない。と言いかけて、俺は言葉を変えた。身を屈めてフロントガラスに張り付く。

「いや待て……あれは何だ?」

 動揺で脳が熱くなる。

 俺は50メートルほど前方の神社の方を指差した。一つの黒い影が二足歩行でウロウロしている。あの頼りなげな歩き方は、かつて実家の前で見た通常種のそれと酷似していた。

 車内に緊張が走った。

「なにしろまだ暗いからなぁ。どこの事を言ってる……?」

 南部が身を乗り出して窓に手をついた。人影はしばらく鳥居の前を徘徊した後、突然パタリと倒れ込んだ。

「今のか?」

「そうだ」

「……見た所、通常種ってやつなんじゃねえか?人の形をしてるぞ」

「いや、それだけで通常種だとは決まらないぞ。前にマルカ堂の近くで遭遇したんだが、スプリンターで振り切れないくらい速く追いかけてくる変種がいたんだ。そいつはまるっきり人間の姿をしていた」

 俺は喋りながらあの日の事を思い出していた。追跡者の血走った眼がどんどん迫ってくる様子が脳裏に未だ生々しく蘇った。ごく最近の出来事なのに、遥か昔の事のように感じるのは何故だろう。あの時おっかなびっくり握り締めたハンドルの固い感触はよく覚えているというのに。

「なあ……あれ、変じゃないか?」

 南部が呟いた。見ると、さっきの人影は倒れ込んだままだった。ピクリとも動かない。死んでいるのだろうか。

「通常種がこんな死に方をするなんて、見た事ないぞ……」

 俺は息を飲んだ。妙だ。たしか彼らは半端な攻撃では死なないという事だったし、事実として俺は彼らが自然に死ぬ所を目撃した事が無い。というより、いつの間にか自然には死なない生物のように考えていた。不死身の化け物でも、いざ目の前で死なれると不安になる。何か原因があるに違いない、と疑ってしまう。

「とりあえずここから離れよう。何かあったら取り返しがつかないからな」

 微かに胸のざわめきを感じつつ、俺たちは車を東へ進めた。この辺りの土地勘は南部の方があるので、進路は彼に任せる事にした。漸く朝を迎えた街は、鮮やかな陽の光を受けてその凄惨な現実を再びさらけ出した。動くものは無く、人の住んでいた形跡だけが未だとり残されていた。こんな胸くそ悪い夜明けはもう嫌だと思った。また今日も命懸けの1日が始まる。太陽が上から笑っているかのようだ。

 広い道を選んで市街地に近づくにつれて、嫌な予感は見事に的中した。

 静かな街のあちこちに通常種の死体が転がっていた。それ自体は珍しいものでもないが、数が以前とは明らかに違う。数メートル進むだけで常に道端に2、3体は転がっている状態だ。バタバタと眠るように横たわっている死体たちの皮膚には、火傷の跡があるわけでもなく、致命傷になるような目立った外傷も無かった。

 異常な光景を前に俺たちは暫く言葉が出なかった。純粋に恐怖を感じたからではない。まっすぐに突きつけられた死の圧力が、俺たちの奥底にある本能を揺さぶっているのだ。ユイちゃんがまだ眠っていて本当に良かったと思った。恐らく彼女には耐えられるだけの精神力が備わっていないだろう。それほどの迫力だった。

「こいつら、よく見るとまだ死んでから新しいものばっかりじゃないか?ほら、あそこのヤツとか全然傷んでない」

 南部が指差した先には、幼い男児の亡骸が電信柱にもたれかかっていた。それが普通の人間の亡骸でない事は、口元に付着している血液と特有の表情で理解できる。何かを食べた後に絶命したのだとしたら、餓死の可能性は薄い。それでは、いったいこいつらは何が原因で死んだのだろう。病原菌か何かが蔓延しているのだろうか。いや、それならば何故俺たちは皆無事なんだ?

 考え始めたらきりがない。

 車はそろそろと街中を走行した。しかし、動いている通常種の姿は全く確認出来なかった。この街にまた何か新しい異変が起こっている。張りつめた大気全体がそう警告しているかに思えた。

「九瀬、前から言おうと思ってたんだけどよ……これから俺たちはどこを目指して動けばいいんだと思う?」

 南部が言った。

「どこって……とりあえずは食料と水を手に入れないとだろ。今日生き延びる方が優先だ」

「そうじゃなくて、もっと長期的な話だよ。こんな事聞いたってすぐに答えが出ないのは分かってる。でもお前、あの団地に来る前はどこに行こうとか決めてなかったか?」

 俺は首を振った。正直、スポーツセンターを出てから俺たちの行き先には明確な理由は無い。敵を避け、無我夢中で走るうちに適当な場所に辿り着いたという具合だ。だから、今何の手がかりも無しにいきなり危険な街に飛び込む羽目になってしまい、どこへ向かって行けばいいのか分からずに戸惑っている状態だ。

「こう言ったらなんだけどさ……」

 南部が苦しそうな声で唸るように言った。

「まだ、この世界に俺たちが安心して暮らせる場所なんてあるのかな」

 俺はいっそのこと泣き出したかった。それだけは誰の口からも聞きたくなかった。そんな事くらいとっくの昔に分かっているはずだった。たとえ自分の家が実は数キロ圏内にあるとしても、その場所にはもう俺の日常は無く、戻ったところで何の意味も無い事は知っていた。けれども俺は今すぐにでも帰りたかった。何でも揃っていたあの頃に帰りたかった。

「有るよな。どこかに」

 南部が言った。呪文を唱えるような不思議なトーンだった。

「だって、俺たちまだ死んでねえじゃん。あんなに色々あったのにバカみたいに生きてるじゃん。このまま道路でのたれ死になんて、いくら何でも納得いかねえだろ……」

「ひとりでブツブツ喋ってんじゃねえよ」

「……悪かったな」

「あと、俺らが生きてんのは奇跡でも何でも無いぞ。誰のおかげだか絶対に忘れるんじゃねえ」

「ああ……。分かってるよ」

 その後、ユイちゃんが目を覚ましてから俺は今朝気づいた異変について説明した。ユイちゃんは最後まで黙って聞いていたが、俺が話し終えるとすぐに窓から外を眺めた。止めようか迷ったが、どうせいつかは目にする事になると思い、結局そっとしておいた。本音を言うと、どう声をかけたら良いか分からなかっただけだが。

 見通しの利く大通りを選んでずっと走っていたにもかかわらず、その日は生き物に遭遇しなかった。どこまで行っても黒ずんだ死体や赤く変色した死体が景色の中に折り重なるように横たわっているだけだった。

 そういえば以前小本が言っていたと思い、一応埼玉方面に出来るだけ車を進めながら、夜は交代で眠った。

 翌日になると食料と水がとうとう底をついたので、俺たちはやむを得ず付近のコンビニに立ち寄った。

 窓ガラス越しに店内の様子が見えた。

「さすがに少し荒れてるな。ユイちゃんは車で待っててもらうとして、俺たちで積めるだけ貰って行こう。ペットボトルとか缶詰めは案外まだ口に出来るから」

 南部が言った。俺は後部座席からレミントンを取った。

「早めに済まそう。近くにまだ生きてる通常種がいるかもしれない。ユイちゃん一人を残してくのは危険だ」

「そりゃもちろんだ。最初に店内に敵がいるか確認したら、後は何回かに分けて少しずつ持って行こうぜ。で、どっちが先に行く?」

 南部が首をすくめた。

「俺が行く。こいつはお前が持ってろ」

 そう言って俺はレミントンを渡した。南部は驚いた様子で聞き返した。

「え、俺?なんで?」

「そいつは一発撃つたびにいちいち弾を装填しないといけないから、近くの敵は殴った方が早いんだ。それで狙うのはこっち」

 俺は車の方を指差した。

「何かあったらユイちゃんがクラクションを鳴らすだろ。そしたらまずお前が敵に向かって一発撃て」

「なるほど……。俺は後ろを気にしてれば良いってわけな?」

 俺は頷いた。

「よし、行こう……」

 背後で南部が撃鉄を起こした。カチャッとプラスチック製の薬莢が装填される快音が聞こえた。

 コンビニ内は薄暗く、散らばった飲食料の匂いが微かにする以外は特に異常は無い。一歩一歩慎重に奥へと進んだ。

 レジの奥のカウンターを調べた後、俺は足を止めた。床に何かの染みがべっとりと付着している。暗くて色は判らないが、黒っぽくてどことなく血のようだ。おまけにそれは引きずったように奥へと伸びていた。

 俺は南部と目配せし、さらに奥へ進んだ。すると、職員用トイレの前に何か小さい塊が落ちていた。何だろう、サッカーボールくらいの丸い物体に針金のような物が絡まっている。その周りには細い棒のような物が散らばっているように見えた。

 足で蹴ると、グシャッと柔らかい感触があった。

「何だよそれ……?」

 南部が酷く怯えたように囁いた。俺は少し屈んで塊を調べた。しかし、すぐにハッと後ろに後ずさった。

「どうした!?」

「これは……これは子供だ!周りのは全部骨。バラバラに折られて散らばってる!」

 額を嫌な汗が流れた。狼狽して心臓がドクンドクンと早く脈打つ音が聞こえる。

 あまりにむごい。長い髪の毛が白くて丸い頭蓋骨の上にクシャクシャに絡まっていることから推測するに、これは女の子の遺体だ。

 隣を見ると、南部も目を見開いたまま立ち尽くしていた。

「こんな……。何があったんだ……?」

 南部が言った。俺は首を振る。

「この街は何かヤバい。ここのところ、こんなに長距離を走り続けてるのに生き物を一匹も見てない。通常種も、変種すらいない。あるのはいつも死骸だけだ。……いや、もしかしたら本当は今に始まった事じゃないかもしれない」

「どういう意味だよ」

「ほら、よく言うじゃないか。自然界には生態系っていうシステムがあるって。微生物から大型の動物まであらゆる生き物には食う者と食われる者の関係があって、そのうちどれか一つが欠けただけでも全生物に影響が出るとか……」

「ああ、それならちょっと知ってる。でも、それがどうしたって言うんだよ」

 俺は息をのんだ。

「……もしもだぞ。通常種や変種が俺たち人間を殺すように野鳥やペット、その他にも野生動物を殺しているとして、その先にはいったい何が待ってるんだ?このまま街から人が消えて、そのうえ通常種も消えたら、結果的には何が残ると思う?」

 俺は南部の目を見た。彼は何も言わなかったが、その表情は強張ったままだった。その時から俺たちの間の空気ががらっと変化した。ずっと前から脳裏にあって離れなかった恐怖が、今まさに俺たちの運命の前をちらちらと過ぎったのだ。

「俺は心底怖い……。確かに昨日、まず今日1日を生きる事が精一杯だって俺は言ったけど、もしかしたらこの先を生き延びるためにはそんな狭い考えに囚われていると危険かもしれない。まだ漠然とした不安でしかないけど、いつか必ず行き詰まる日が来るような気がするんだ」

「待ってくれよ!そんなのどう考えたって無理だろ!たとえお前の仮説が正しかったとしても、俺たちがこの先どうすればいいかって事には繋がらないだろ。余計に絶望しちまうだけじゃねえのか!?」

 南部が言った。確かに彼の意見も分からなくはなかった。俺たちは今既に限界まで追い詰められている。こんな状況でさらに希望を失うような考えを持つのは、おそらく誰のためにもならない。でも、だからと言って、知らない振りをして生きていくべきだろうか。一日一日を生き延びる事だけを考えて、そのためだけに頭を使うべきなのだろうか。ただでさえ余裕が無い今、いたずらに視野を広げる事に意味はあるのだろうか。

 わからない。何もかもわからなかった。

 その後、俺たちはろくに喋りもせず機械的に物資を集めた。店内には何も居ない事が確認出来たけれど、俺はあまり安心出来なかった。

 一度直面してしまった問題はいまさら無理に忘れようにも頭を離れず、暗雲のように立ち込めては思考を妨げた。

 今この街に起こっている異変の正体は何なのか。規模はどれほどなのか。そんな事すら俺は知らない。目が覚めたら既に世界は何もかもが狂っていた。最初はこれが全て夢なのではないかと疑ってさえいたほどだ。

 考えれば考えるほど不可解だ。有り得ないじゃないか。

 俺はどうして生き残ったんだ。あの日、俺の家で何故俺は眠っていたんだ。外では大変なことが起こっていたというのに。いや、そんな問題じゃない。一週間もの期間を普通の人間が飲食もせずに生き延びられるものなのだろうか。俺の身体は異常なのか。確かに、頻発する謎の頭痛は異変が起こる以前には無かったものだ。頭痛と睡眠の謎に何らかの関連があるのだろうか。

 駄目だ。一度頭に浮かぶと、どうしようもなく不安になる。

 俺は南部に声をかけた。

「なぁ、南部……」

「ん?」

 スナック菓子の袋を抱えていた南部が振り返る。

「お前にはまだ話してない事があるんだ。聞いてくれ……」

「何の話だ?」

 南部が怪訝そうな目で俺に近づいて来る。俺はいつになく真剣な眼差しで南部を見据えた。

 どうして今まで黙っていたんだろう。なんだかどうしようもなく可笑しくなる。

 どうして俺だけが居たんだ。

 どうして俺だけ何も知らないんだ。

 どうして…?

 すべて聞いてしまいたい。俺が抱えているこの謎の真実を誰かに問い正したい。言葉が勝手に口をつく。

「実は、俺……」

「ちょっと待て!」

 突然、南部が遮った。何かを訝るような表情で、棚に陳列されている商品に目をやる。

 すると、一番端に並んでいたカップ麺の容器が棚から滑り落ちた。カラカラと床を転がり、俺たちの足下で倒れて止まった。

 黙ったままの南部が俺を見た。

 直感が何かを警告していた。

 得体の知れない何かの存在を感じる。敵か?それとも、別の何かか?

 全身の神経がキリキリと張りつめていく。瞬きを抑え、眼球の動きだけで辺りを警戒する。

 南部はゆっくりとしゃがみ込むと、床面に耳をぴったり押し付けた。一瞬、彼が何をしようとしているのか理解出来なかったが、次の瞬間、俺は無意識に上の方に目を奪われた。

 その時になって初めて俺は気づいた。店の天井から垂れたキャンペーンの広告がふらふらと揺れている事に。それは、注意して見ないと分からないほどの非常に微かな揺れだった。

 ひとりでに揺れているなんて妙だ。この店の窓ガラスは割れていないし、そもそも今日は風がない。だとしたら、地震か?

 地面に伏せていた南部が首を傾げて立ち上がった。

「おかしいな……。何も聞こえない。よく映画とかであるだろ、天井からぶら下がった物が揺れだして、不審に思った主人公が地面に耳を付けると地鳴りが聞こえたりして……」

 南部が意味不明な事を言った。

「何言ってるんだ?」

 俺は顔をしかめた。こんな状況でこいつは何故こんな馬鹿な事を言っているんだ。団地を出て以来、少しは話せる奴だと思っていたが、今の言動はあまりに緊張感が無さすぎる。

 こいつのせいで単なる地震にも神経をすり減らされる羽目になった。俺の憤りは頂点に達した。

 南部は待ってくれよと言って必死に無益な説明を繰り返した。

「いや、だから。巨人とかみたいに凄く大きな変種がやって来たのかと……」

 前から思っていたが、こいつには命を懸けた行動をしているという自覚が無いのだろうか。恋人を目の前で亡くした過去を背負っている割には軽はずみな行動が目立つ気もする。

「馬鹿にするのもいい加減にしろ。お前一人の行動で俺たちは命を失うかもしれないんだぞ。とにかく、ここは揺れが収まるのを待ってから――」

 嫌気がさし、南部から目を逸らして後ろを向いた瞬間、俺は奇妙な光景を目にした。

 コンビニの外。ユイちゃんがいる車の側に立つ電柱が見えた。番地が記載されたプレートの下に汚い貼り紙が何枚か貼ってある。そして、俺はハッキリと見た。電柱から伸びる電線は全く揺れていなかった。

 揺れているのは、ここだけ?

 その時、店内の揺れがいきなり強まった。というか、強い衝撃が一度だけ建物全体に走り、それによって棚の商品が一斉に崩れ落ちた。

 何かが軋む不快な音がした。硬い金属か何かがが折れる時の音だ。

 逃げろ!身体の中心の奥深くで何かが叫んだ。

「何かヤバい、逃げるぞ!」

 俺が南部の手を掴んで走り出したのと、背後の壁がぶち破られたのはほとんど同時だった。

 粉々に砕け散ったコンクリートの破片が背中に降り注いだ。衝撃とともに床に亀裂が走った。バラバラと天井のタイルが剥がれ落ちてきたので、俺たちは腕で頭を抱え込むようにして走った。

 入る時に開けたままにしておいた出入り口のドアの隙間をすり抜ける時、俺はチラリと後ろを振り向いた。

 先ほどまで俺たちがいた所の天井は無く、外の空が見えていた。破壊された壁に空いた穴から高さ5メートルはあろうかというほどの巨大な生物の頭部が突き出ていた。

 ずっと前からあそこに潜んでいたのだろうか。あれほどの巨大な生き物が、物音一つ立てずにじっとしていただなんて、考えただけで不気味だ。俺たちは知らないうちに、とんでもない場所へ足を踏み入れてしまっていたのだ。

 俺たちはすぐさまユイちゃんのいる車に戻り、南部がエンジンをかけた。

「早いとこ、ずらかろう!いくらなんでもあんなのと戦って勝てるわけがねえ」

 額が冷や汗でびっしょりの南部が言った。彼がアクセルを力任せに踏み込むと、俺とユイちゃんはバランスを崩して後ろにつんのめった。

「何かあったの?」

「変種に襲われた。物凄くデカい化け物がコンビニの裏に隠れてたんだ」

 俺はユイちゃんに言ってから、もう一度後ろを振り返った。すると、ちょうどコンビニの自動ドアがぺしゃんこに潰された所だった。いまや建物を踏み潰してこちらにゆっくりと近づきつつある変種が、太陽の下に現れた。

 ワニや恐竜といった大型の爬虫類を彷彿させるその巨体には胴体と呼べるものは無く、気味が悪いほどアンバランスに肥大した頭部だけが威圧するようにこちらを向いていた。口の端あたりに小さな腕が付いており、それを使って地面を這うように少しずつ進んでいた。

 俺たちの車はフルスロットルで走り出し、あっという間にコンビニから遠ざかった。逃亡中、俺は何度も後ろを気にしたが、あの巨大な変種が追ってくる様子は無かった。

 どれくらい走り続けただろう。大通りをひたすら突き進んだ結果、俺たちを乗せた車は見知らぬ街に迷い込んでいた。

「何だったんだ、あいつ。変種ってやつだよな?あんなにデカいのもいるのか?」

 南部が言った。長い間ぶっ通しでハンドルを握っていたのだから、相当疲れているはずだ。顔色もあまり良くない。

「さっきのは俺も初めて見た。また新しい種類。いったい何種類いるんだ……」

 俺の身体はまだ酷く怯えてるようで、尻が浮くような感覚が残っていた。変種とあそこまで接近したのは団地の変種以来だった。自分の目の前に迫る他の生き物の眼差しを思い出すと、心なしか胸の鼓動が激しくなる気がする。

「さっきはすまなかったな。おかげで助かったよ」

 南部が珍しく頭を下げてきた。彼なりに今日の事を反省しているらしい。

「別にいいって。それより、結局何も持って来れなかった。別の店を探すしか無さそうだな」

 食料の事を考えると、頭が重くなる。あれだけ神経を使った後だから腹も減っているし。これからまたあんな事をしなければならないかと思うと、生きるためには仕方ないと理解している反面、素直にもう嫌だと弱音を吐いてしまいたくなる。

「生きて帰れただけでも十分過ぎるくらいだ。食料ならまた探せばいいしさ」

 南部は笑いながらバックミラーの向きを直した。楽観的というか、あっさりしているというか。相変わらずだ。ここに至るまで彼なりに色々あっただろうに、それでもこんな調子でいられるなんて信じられない。人って誰もそんなものなのだろうか。

 だがまあ。たまにはこいつの軽い言葉を聞かされるのも悪くないかもしれない。

「急に物分かり良くなったな」

 俺は言った。

 車は少しずつ速度を落とし、街はずれの林道を走り抜けた。ここまで来ると、さすがに俺も南部も道が分からなくなったので、タクマのリュックから地図を取り出して現在地を調べた。

 あまり過疎地へ行き過ぎても、今度は食料を確保出来る店が限られてくる。だから、生き残るためには敢えて危険な市街地に身を置かなければならなかった。さらに、もう一つの深刻な問題が俺たちの頭を悩ませた。ガソリンが残り少ないのだ。ガス欠が怖いという事は、以前、スプリンターに乗っていた際に嫌というほど味わっている。しかし、ほとんどのガソリンスタンドは補給機器が電気で動いているため、現在では全く機能しないのだ。セルフサービスのガソリンスタンドを探してみたが、この辺ではさっぱり見あたらなかった。

 さんざん探し回った挙げ句、ついに太陽が沈みはじめた所で南部は車を止めた。

「今日はもうここで寝よう。見通し良さそうだし、夜までに何も来なかったらここにしよう」

 南部が言った。俺たちがいるのは市街地から少し離れた片側二車線の主要幹線道路の上だ。平常時なら毎時沢山の自動車がビュンビュン通っていく地元でも有数の大型道路なのだが、今は対照的に閑散としている。ここなら前と後ろだけ気にしていれば良いから、深夜の見張りも比較的負担が少ないだろう。俺は承諾した。

 周囲に何もいない事を確認してから、俺はユイちゃんを連れて車外に出た。曲げっぱなしだった足を思いっ切り伸ばし、腕を大きく振り上げた。リンパ管が開いて、滞っていたリンパ液の流れが再び勢いよく老廃物を運び出すような心地よい感覚が身体中に広がっていく。ユイちゃんは前屈みになって立位体前屈の体勢をとった。

「足だるくない?」

 俺が声をかけると、ユイちゃんは首を振った。

「たまにブラブラ貧乏揺すりしてたから平気。首が少し疲れちゃったけど」

「ずっと外見てたもんな。後ろは空いてるんだから、横になって休んでもいいんだぞ」

「いい。酔っちゃうし」

「そうか……」

 何てことない会話。それが出来ているって事は、つまり彼女が必要最低限にしか感情を出さなくなったという事だ。毎日異常な光景を見ているのに、ユイちゃんは顔色一つ変えない。今では悲鳴をあげたり泣いたりもせず、些細な出来事に対して微笑む事すらもなくなった。

「しばらくそこら辺を歩き回ってていいよ。明日もまた車だから」

 俺は言った。今、俺がしてやれるのはこれくらいだ。なるべく自由に、彼女がしたいようにさせてあげる事。辛い事が立て続けに起こった今、無遠慮に彼女の心をかき回したりしてはならないと思った。

 だが、本音を言えば、俺は何をするべきか分からず、自分がまた軽はずみな行動に走って失敗するのが怖かっただけかもしれなかった。

 思い返せば、俺はあの日目を覚ました時から常に何かに怯えているのように思える。。通常種、変種、仲間の死、この先に待つ運命、そして……。

 いつまでこんな弱虫でいるんだ。

 怖いのは、俺自身がそれらから目を背けているからじゃないのか。

「南部」

 ユイちゃんに話し声が聞こえない距離まで離れてから、俺は荷物の整理をしていた南部に言った。

「何?」

「ちょっと話がある。さっき、コンビニで話しそびれた件だ」

 そして、俺は南部に告白した。

 自分には、異変が起こってから数日間の記憶が無いという事を。その間に自分がずっと眠っていたらしいという事を。

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