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今、恐怖の先へ

「寒くないかい?」

 南部は7号に自分の上着を被せ、彼女の横に腰を下ろした。

<いいのか、お前は?>

「ああ、俺の事なら気にするなよ。これくらいどうってことねぇから」

 南部は肩をすくめた。

 ここはサクトたちに割り当てられた団地の一室。あれから数十分が経過した。南部を正気に戻すために7号はあらゆるアプローチを試みた。結果として今はこうして普通に会話出来ているように思えたが、彼の精神は今も常に崩壊と隣り合わせだった。目の前だけに集中する事でかろうじて平静を装っている状態だった。

 一息つくと、南部は急に表情を暗くして話しだした。

「そういえば・・・ここに来る途中でやっと外の様子を知ったよ。嘘みたいだけど、ぜんぶ君の言う通りだった・・・」

 彼は無理に笑った。案の定、声は途中で弱々しくなり消えてしまった。7号は彼の空虚感を感じ取り、自分の中に現れた同情の念に違和感を覚えた。

 7号はこの青年が少しずつ自分に対して信頼をおいている事を好ましい事と思っていた。しかし、同時にその過程でした自分の行為の正誤を判断しかねてもいた。

 7号は、自分が今まで見てきたサクトやタクマたちの物語を南部に語った。マルカ堂で2人に助けられた事も、協力して店舗から脱出した事も、スポーツセンターでの悲劇も・・・・・。全てを包み隠さずに話した。

 南部は最初のうちは信じられないといった様子で、ただただ戸惑うばかりだった。しかし、次第に彼も大人しく聞くようになった。

 どうして急にそんな事を思いついたのかは7号自身も不思議だったが、全てを淡々と話すうちに彼女は自分の言葉にだんだんと熱が籠もっていくのに気づいた。そうする事で彼女は改めて自分の置かれた位置が実は非常に重要である事を知った。

 その瞬間、ずっと彼女の頭を悩ませ続けていた何か暗くてずっしりと重いものが解消されたような気がした。

<必要以上に悲観的になるのは賢明とは言えない。手段が限られているのなら、手段を作るしかない>

 7号は肘を畳について身体を支え、軽々と起き上がった。その眼は力強く見開かれ、きらきらと美しい輝きを放っていた。

 あれほど7号を苦しめていた体の異常は、不可解にも嘘のように消えていた。今まで少しも動かせなかった関節も今ではしなやかに動く。

 7号は自分の手のひらを見つめ、二三度開いたり握ったりを繰り返した。

 指の筋肉が伸縮する感覚も、指先が親指の付け根の隆起した皮膚の丘に触る感触も、手のしわを伝ってじんわり広がる汗の感覚も今の彼女には非常に生々しくて鮮烈な体験だった。

 息を吸い込む時も、いつものように喉の奥に何かが引っ掛かるような感じが無かった。深呼吸をする度に7号の胸は喜びで膨らんだ。

「自分で立てたんだな・・・・・もう大丈夫なん?」

 南部が聞いた。今では彼の顔もそれほど見上げなくて済む。

<なぁ・・・・・。私は、私は生きているなあ?今、生きているのだな・・・・・・?>

 7号は何もかも分かっているかのような落ち着いた様子でそう言った。

「はぁ・・・?いきなり何だよ。心配になるじゃんか・・・」

 7号にはもう南部の話を聞いている余裕はなかった。手の中にある目新しい贈り物に心を奪われていた。

 彼女は自分の脚で歩いた。一歩一歩、慎重に、使った事のない筋肉の動きを噛みしめるように。

 この脚でどこまで行ける?何が出来る?そんな疑問が湧いてくるのが可笑しかった。

<・・・・・今漸くわかった。何もかも―自分はこれから何をするのか、何がしたいのか>

 7号は畳の上に散らかった荷物を一つ一つ整理してタクマのリュックに詰め込み始めた。

 その様子を見て南部が狼狽えたように言った。

「おい、まさかあいつらを探しに行く気かい?君だけで外を出歩くなんていくらなんでも無茶だろ!」

 南部が反対するのは想定内だった。7号は平然と返した。

<ならばお前も来い。以前からそう計画していたのだろう?>

「は!?で、デタラメ言うな!俺はそんな事考えてなんかいねぇよ!」

 南部は動揺を隠せないようだった。彼の心がまた閉ざされてしまう前に、7号は畳み掛けるように言った。

<あの女と一緒に逃げるために乗り物まで用意していたのではないのか?けれどもお前は結局外へは逃げなかった。何故だ?やろうと思えばお前はいつでも出来たはずだ。だのに、何故今もこうして躊躇する?何が怖いのだ?>

「な、何も怖くねえよ!だって・・・ここにいた方が安全じゃないか!・・・・・俺は、俺はあんたの友達みたいな奴じゃあないんだ!そうだ、誰があんな馬鹿な事をできるって言うんだよ・・・」

 南部は馬鹿にしたように言った。

「俺はもうこれ以上あんたらに関わるのは嫌だね!やっと独りになれたんだ・・・・・俺は誰にも手を貸さない。ずっとここで生き延びてやる!」

 南部は立ち上がって逃げようとした。

 7号は彼のズボンの裾を掴んで引き止めた。

<お前には理解出来ないかもしれないがな、私は知っている・・・・・。時には、自分から安全圏より一歩外へ飛び出さなければならない場合があると。他人を守るという事は自分の立場に目を瞑る事なのだと。少なくとも私はそう解釈している>

<南部、お前がどうしても行かないと言うなら私はこれ以上強いたりはしない。元はといえばこれは私個人の問題なのだから。だが、もしお前がこのままずっとこの壁の中に止まるつもりであるなら、お前はあの金原とかいう男たちと何が違うと言うのだ?>

 南部はもう何も言い返して来なかった。2人の間を支配する鉛のように重い沈黙が次第に形を形成し始めた。

 7号は、言うべき事は全て言ったと思い、サクトがそうしたのを思い出しながらタクマのリュックを背中に背負った。途端にその重さで後ろによろけそうになる。

 南部が反射的に彼女を支えようと手を添えたが、7号はそれを冷ややかに拒んだ。

 外に出ると、やはり風が冷たかった。氷のようなコンクリートの上を裸足で歩くたびに足の裏側はチクチク痛んだが、逆に直接冷気に触れている顔や手は何故だかちっとも感覚が無かった。それどころか、熱を帯びたように妙にぼんやりとした状態だった。一歩一歩は重いのだけれど、肩や腰はヘリウムガスでも入っているかのように浮遊感すら覚えた。

 7号は、自覚はなくても恐らく今自分は全身の力を振り絞って動いているのだと分かっていた。そして、今日は恐らく自分にとって最後の1日になるだろうと・・・・・。

 しかし、7号にはこれからやるべき事が山ほどあった。そのうえ時間は満足に残されてはいない。だが、何としてでも間に合わせなくてはならないと思った。何故そう思うのか・・・何故変種である自分が人間なんかを助けようとするのか。その答えは未だ見つかっていなかったが、この行為自体が証明してくれるだろう。

 足の痛みを堪えながらやっとの思いでフェンスまで辿り着いた時、後ろから走ってきた南部が追いついた。

 7号は振り返らずに彼の心を読んだ。

「待てよ!やっぱりあんたは馬鹿だ・・・本当に独りで行っちまうなんて、馬鹿としか思えない」

 7号は黙ってただ笑みを浮かべていた。

 すると、南部は付け足すようにこう言った。

「それに、あんた勘違いしてるよ。・・・俺は確かに優柔不断のチキン野郎かもしれねぇけどさ・・・でも、それでもあんな先輩方とは一緒にされたくない!」

 彼の目を見た瞬間、7号は自分の確信がもはや疑う余地のない事を知った。

「あいつらは、あんなになったカナを無理やりここから追い出したんだ!感染してるから危ないって理由で!可哀想に・・・・・それからだ。カナがおかしくなったのは・・・。あいつらは自分たちの事しか頭にないんだ!俺は・・・・・俺はあんなヤツになりたくない」

 南部は興奮のあまり身体を震わせながら7号に訴えた。彼の目にはもう迷いの色は無く、紛れもなく同じ方向を向いているように見えた。

<お前の気持ちは分かった。サクトとユイを助けるのに手を貸してくれるか?>

 南部は深く頷いた。






 それから、7号と南部は団地を出て近くの駐車場まで行った。南部の車はすぐに見つかったが、一つ問題が生じた。

「ヤバい・・・キーが無い!」

 南部はしばらくポケットを探っていたが、諦めて頭を抱え込んだ。

<キーとは何だ?>

「鍵だよ。あれが無いとこいつを動かしようがないんだ。ちくしょう、もう少しだってのに!」

 南部は白いクラウンのドアを蹴った。

<無闇に音を立てるな!今ここで死にたいか!>

「うわっと!ごめんよ・・・。でも、どうするよ?最悪、俺だけで歩いて探しに行くって手もあるぜ?」

<いや、変種第9号の習性から考えてそんなに近くにはいないだろう。彼らが連続して飛行できるのは3キロ圏内だ。つまり、巣のある場所まで最長で3キロはある>

 7号は言った。

「まじかよ・・・厄介だな。つーか、何だってそんな事まで知ってるんだ?」

<さあな・・・それが変種第7号の役割なのかもな>

 7号は謎めいた事を言った。

 南部はさすがに得心がいかないようだったが、すぐに別の話題に切り替えた。

「とりあえず部屋に戻って探してみるしかなさそうだな・・・。俺の荷物って言ったらあそこしか無いだろうし、残していくと困るもんもあるからなぁ。じゃあ、見つかるまでここで待っててくれ」

<部屋・・・か>

 7号は懸念を抱いた。部屋に戻れば、例の深谷とかいう女との接触は避けられない。先ほどから動きは無いとはいえ、いつ変種として覚醒するか分からない。

「すぐ帰って来るから心配すんなよ。すぐだって。すぐ!」

 南部は早く行きたいと足踏みした。

 彼の頭に深谷の事が浮かんでいるのに7号は気づいていた。彼女に会いたいがために嘘をついたわけではないようだが、実際に行くとなると決心が揺らぐかもしれない。

 しかし、この状況ではやはりやむを得ないか。

<わかった。行け。ただし、くれぐれも用心しろ。感情に流されず、何があっても私の命令には逆らうな>

 南部はニコリとして頷いた。

 彼が去った後、7号は第6感覚を集中させた。

 終わりが始まっている今、第6感覚はもはや満足に機能しない。この団地の囲いの中くらいがギリギリで把握できる範囲だ。不鮮明な情報が必要不要に関わらず脳内にモヤモヤと蜘蛛の巣を張るようにぐるぐると巡り、全体像を掴む事すら容易では無かった。しかし、7号はこの変化に対して全く悲観していなかった。それどころか、むしろ当然の事と受け止めていた。

 南部が部屋の前に到着したという情報が脳内で電気信号のようにほとばしった。


 扉を開け放つ瞬間の空気の動きや、ドアノブと南部の指先との間に生じる静電気がリアルに感じられた。細かな情報の一つ一つが徐々に認識出来るようになってきた。


 変種の反応は以前より強くなっていた。深谷の体内で一定のリズムを刻む生命の存在が伝わってくる。おぞましい胎児が今にもその目を開いて動き出しそうだ。


 7号は最悪の事態を覚悟した。


 南部が変種に近づいた。ほんの数メートルの距離だ・・・。


 キョロキョロと辺りに目をやり、自分の荷物を探す。


 片膝を地面につき、ゴソゴソと鍵を探した。


 しかし、目当ての鍵はなかなか見つからない。


 南部の心に焦りが生まれた。


 南部は深谷の顔を見た。


 生前の美しい姿からは著しくかけ離れたその無惨な姿を見つめると、途端に彼の心は罪悪感に鷲掴みにされた。


 どうしてあたしを置いていくの?そんな声が聞こえた気がした。


 大丈夫、また戻って来るからと言い聞かせる。


 だが、彼の心はさらに痛んだ。


 カナは応えない。


 たぶん、もう永遠に。


 そんな事くらい前からわかっていた。


 でも、離れたくない。見ないようにしてきた本心が息を吹き返した。


 もう一度、カナの声を聞けたら・・・・・。


 震える手が、空虚な理想へ向かってそっと伸びた。


 その時、深谷の身体がビクッと揺れ動いた。


 彼女の胸部が腹部にかけてボコボコッと膨れ上がり、次の瞬間ゴム風船のように張り裂けた。


 そして、その中から鱗に覆われた奇形児のような変種が姿を現した。


「カナ・・・・・ッ!」


 南部が呻いた。


 目の前には最も残酷な光景が広がっていた。


 守っていると信じていたものが、今まさにぼろぼろに崩壊していく。


 その時、変種が這い出た衝撃で深谷の握り締められていた右手が開かれた。


 軽い音とともに、その中にあった何かが畳の上に落ちた。

 

 一瞬、時間が止まった。


 それは、まさしく彼が探していた車の鍵だった。


 こんな所に・・・・・というより、このタイミングで彼女の手が開いた事に南部は驚いた。


 このまま彼女を置いて逃げ出す事は罪にはならないのか。


 何一つ力になれず、今もまた眼を背けて・・・。


 南部は改めて深谷の顔を見つめた。


 干からびて硬くなった肌の表面に頭髪が苔のように張り付いている。


 眼のあるはずの位置には真っ暗な穴が空いているだけだ。


 ここにあるのは抜け殻だ。


 自分はそれを認めるのが怖かったんだ、と南部は思った。


 心から愛していた深谷カナの魂はもうとっくにこの地上の何処にもないのだ。


 そっと指先で触れる事すら出来ない。


 彼女を守れなかったという罪の意識は永遠に自分を苦しめ続けるだろう。


 どう考えたって、自分に生きてる価値なんて無い。

 

 でも、右手は開かれた。


 こんな自分にカナは小さな可能性を、生きる道を示してくれたような気がした・・・・・


<走れ!>


 7号の声が電撃のように南部の脳内を駆け巡った。


 しかし、それよりも前に南部は立ち上がっていた。


 今さらどう足掻いた所で、過去の事実は変わらない。


 だからこそ、今を変えるべきなのかもしれない。


 さよなら。


 やっと、出せた言葉だった。







 じゅもっこ・・・・・

 意識が薄れていく中で俺の頭にそんな言葉が浮かんだ。

 今朝気を失った時に聞こえた声が言っていた言葉だ。ジュモッコって何だ?どちらかと言えば日本語っぽいし、昔どこかで聞いた事があるような気もする。でも、何を意味する言葉なのかは全く思い出せない。

 何で突然そんな事を思い出すのだろう。いよいよ最期が近いってことか?

 俺は瞬きをした。脳が一瞬覚醒する。しかし、またぼんやりとした状態に戻ってしまった。

 ああ、どうしてこんな事になっちまったんだ・・・。

 俺の身体はもう腰から下がほとんど生暖かい泡の中に没しており、表面から伸びてきた小さい手がゴソゴソと服の上を這い回っていた。おまけに泡からは嗅いだことが無いような物凄い悪臭が漂ってきた。例えるなら、磯の生臭さに人間の体液の臭いが混ざったようだ。さっきからずっと嗅ぎ続けているためか、頭がクラクラする。力が入らない腕の中に辛うじてユイちゃんを抱えているが、いつまでこの状態を維持出来るかわからない。おまけに頭上のエイたちもさっきからやたら慌ただしく飛び回っているから、見つからずに逃げ出すのは絶望的だ。

 失敗するなんて思ってなかった。あの時走り出した直後、近くを低空飛行していた小さなエイに見つかり、触手による攻撃を受けた。攻撃は俺の左肩を僅かに逸れたため、目標の真下に行くまでは予定通りに運んだ。しかし落ちてきたユイちゃんを絶妙のタイミングでキャッチした瞬間、俺はバランスを崩して泡に突っ込んでしまった。スライムの海にめり込んだようなおぞましい感覚とともに俺の身体は自由を失い、その隙に後ろから追ってきたさっきのエイの触手をまともに喰らった。攻撃の瞬間に痛みは無く、目の前が突然真っ暗になった。そして全身がぼうっと熱を帯びてきて、あらゆる感覚が少しずつ遠のいていった。気がつけば俺は泡の中で溺れかけていた。痺れたように上手く動かない手足をばたつかせる事で漸く息が吸える体制に戻したが、どうにかなったのはそこまでだった。

 このまま泡から出てくる無数の手に引き裂かれ、2人とも飲み込まれてしまうのだろうかと思ったが、泡はさっきから俺たちを調べるだけで危害を加えようとはして来なかった。食い過ぎで一休みでもしているのだろうか。ひとまず安心する反面、この状況からどうやって抜け出すかを考える作業は困難を極めた。身体の自由が利かない以上、どんな手段も使い物にならないとしか思えなかった。こうしているうちにも俺たちは体重によって下へ下へと沈んでいくばかりだ。

 7号が一緒にいたら・・・・・。追い詰められ、つい弱音を吐いてしまう。

 あの時は非常事態だったとはいえ、団地に置いてきぼりにするべきではなかった。一つの事だけに集中して全体が見えなくなるのは俺の悪い癖だ。

 今頃どうしているだろう。南部は?深谷さんは?残酷な想像力が独りでに働き、頭の中が暗くなる。

 こんな所で死んだら駄目だ。こんなの犬死にだ。

 腕一本で繋ぎ止めている親友の妹の命を守る事も出来ないなら、俺に死んでいく資格はない。

 太腿の付け根から爪先にかけてグッと力を込めてみる。さっきよりは確かな感触があった。泡は全体がドクンドクンと常に脈打っており、そのリズムに合わせて少しずつ俺たちを飲み込んでいる事に気づいた。

 さらに、最も深く飲み込まれている脚の先には空洞が空いているように感じられた。

 その時、ユイちゃんが苦しそうな呻き声を上げた。

「ユイちゃん!俺だよ!聞こえる?」

 俺はユイちゃんの身体を揺さぶりながら呼びかけた。

 すると、ユイちゃんは僅かに目を開けて反応を示した。ほっとしたのも束の間で、俺はすぐにまた問いかけた。

「良かった。あの・・・・・怖い思いさせちまってごめんな。7号に何かあったから助けを呼ぼうとしてくれたんだね」

 ユイちゃんは小さく頷いた。

「7号さん、急に倒れちゃったの。白目をむいて・・・・・凄く怖かった。大丈夫かな?」

 呂律が回っていないその声を聞いて俺は胸が熱くなった。自分が今こんな危機的状況に置かれているというのに他の誰かの心配をするなんて、この子はやっぱりあいつの妹だ。忘れてはいけない何かをそれとなく俺に教えてくれている。

「ああ、もちろんだ。あいつならきっと自分で持ち直すさ。だから、俺たちも早いとこ帰ろうぜ」

「うん。でも・・・・・」

「やっぱりまだ身体が動かないか。あのエイみたいな化け物の攻撃をまともに食らったからな。どこか痛むかい?」

「ううん、痛くない。でもなんだかぼーっとする」

 ユイちゃんはゆっくりと瞬きをした。それでは症状は俺とほぼ同じという事か。それが良いことなのか詳しくは判らないが、とりあえず意識がはっきりしている今のうちに状況を伝えておこう。

「いいかい、どうやら今俺たちはさっきの化け物の巣に運ばれちまってるみたいなんだ。ほら、この周りのピンク色が見えるだろ?」

 俺は顎で泡を示した。ユイちゃんは今になって初めてその事に気づいたようで、流石にぎょっとしていた。

「こいつが何なのか正確な事は判らないけど、たぶんあいつらの卵か何かだと思う。ウネウネ動いてるのはたぶんそのためだ。しかも最悪な事に俺たちを喰っちまうつもりらしい・・・・・・」

「じゃあ・・・・・・・あたしたち死ぬの」

 ユイちゃんが不安げに尋ねたので、俺はありのまま喋りすぎた事を反省した。

「いや、それはさせない。何とかしてこいつらの中から抜け出そう。ほら、ちょっとだけどだんだん腕も動かせるようになってきた」

 俺は歯を食いしばりながら両脚に渾身の力を込めた。

「このっ!動けよちくしょう・・・!」

 脚はさっきよりは若干スムーズに動いたが、逆に動けば動くほど深く身体が沈み込んでいってしまった。まるで底なし沼のように静かに、そして確実に獲物を捕らえるシステムとして機能しているようだ。

 ついにユイちゃんの顎の辺りまでが泡に潜ってしまい、俺は一旦もがくのを止めた。これでは無闇に動けない。

「ダメそう?」

 ユイちゃんが不安げに尋ねた。

「はははっ、まだまだ・・・・!」

 俺は諦めたくなかった。彼女だけは救ってやりたかった。

 しかし、それから15分ほど格闘してみても状況は全く変わらなかった。

 焦りが慢性的な不安に質量を与え、刻一刻と過ぎていく時間が忘れかけていた恐怖を呼び覚ました。

 ユイちゃんはそんな俺を心配してくれてか、ずっと励ましてくれた。その優しさに後押しされて俺も力を振り絞るのだが、疲労による痛みで腕が動かなくなりつつあった。

 両脚はというと、もう随分前からほとんど感覚が無かった。

 もしかしたら、本当に死ぬのかもしれない。ついにそんな言葉が頭に過ぎった。

 今までそれほど深刻に考えていなかったけれど、現実はこのままだと間違いなく俺たちは死ぬという未来を示していた。

 嫌だ!途端に俺の胸にとてつもない恐怖感が押し寄せてきた。

 俺は思わず腕や上体をめちゃくちゃに動かした。するとそれに反応した泡がゆっくりと蠢いて俺たちの身体をさらに奥へ奥へ引きずり込んでしまった。

 動いたらダメだ!俺は何か別の方法を考えようとした。

 しかし、浮かばない。目の前の恐怖にしか頭が働かない。恐るべき死のイメージが脳内を占領していく。

 我を忘れて慌てるだけの人間に新しい考えが閃くはずが無いのだ。

 無理だ。自分の力ではもうどうする事も出来ない・・・・・。

 目の前が真っ白になった。そして目頭がじんわりと熱くなった。

 俺は、子供の頃にゲームに負けた時のような心地がしていた。

 こんなの嘘だ、と俺はまだどこかで思っていた。ユイちゃんを助けに来た自分がこんな場所で死ぬはずが無いと。何の根拠もなくそんな気がしていた。

 しかし、俺は今までに何度となく見てきたのだ。信じられないくらいに呆気ない死を。あまりにも残酷過ぎる死を。親しい人間の死を。

 それにもかかわらず、きっと俺は未だに自分だけはと過信していたのだ。こんな馬鹿げた話があるだろうか。

 動かない腕に力を込め、俺は現実の壁の分厚さを痛感していた。この壁は、純粋に俺個人にとっての壁なのだろうか。それとも、人間というか弱い生き物全体にとっての壁なのだろうか。大きく改変されてしまった世界で俺たち人間にハナっから生きる価値なんか無いというのなら、俺はいったい何のために生きるんだ?

 苦しみの渦に呑まれながら必死に生き、悲しみに胸が引き裂かれるのにも耐えたたとして、お空の上から誰かがご褒美をくれるとでも?

 ちゃんちゃら可笑しい・・・・・。

 俺には生きる事すら不可能だったんだ。あの時―タクマが来た時に外に出なければ良かったんだ。そうしていたらこんな事にはならなかった。足手まといは最初から居ない方が良かったんだ。

 視界が縦方向に狭まってきた。目蓋が重いはずなのに、何故だかそんな感覚もどこかへ行ってしまった。

 お前が死んだらユイちゃんはどうなるんだ、と誰かに咎められた気がした。

 罪悪感は消えないけど、いずれどうでも良くなるだろう。

 俺は答えた。

 俺じゃあ駄目なんだ。こんな馬鹿野郎じゃあ何も出来ねえんだよ。タクマ・・・・・許してくれ。






 車は風のように走った。

 窓には目まぐるしく移り変わる景色が映し出された。いざ外に出てみると、暗い時には見えなかった様々な物が南部の目に飛び込んできた。

 南部は言葉を失った。

 最も違和感を覚えたのは色だった。アスファルトで舗装された灰色の道路には至る所にどす黒い汚れがべっとりと染み付いていた。路上の車や家々には煤が付いていたり、二次災害の痕跡がいくつも見受けられた。

 南部は、まるでどこか知らない世界に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥っていた。

「酷いな・・・・思ってたのと全然違ったよ。こんなに大変な事になってたなんて、俺は知らなかった。沢山死んだんだろうな・・・・・」

 南部は誰に向かってでもなく言った。彼は馴れた手付きでハンドルをさばき、車は細道を避けて大通りを北進していた。

<次を左だ!急がないと手遅れになるぞ>

 7号は助手席に座って眼を閉じていた。南部はついさっきから彼女の顔色が優れない事に気づいていたが、運転に夢中で追及したりはしなかった。

「あの2人がどこにいるか分かったのか!?」

 南部はハンドルを素早く切りながら聞いた。

<ここからすぐ近くの雑木林に2人ともいる。だが・・・>

「だが何だ!?」

 南部が叫んだ。

<変種第9号に捕まって意識を失っている・・・・・>

 7号は何も出来ない自分の無力さが腹立たしかった。

 精神感応能力は、無意識下の対象に語り掛ける事は難しい。そこにいるのに触れる事が出来ないもどかしさが彼女に焦りをもたらした。

 サクトたちの反応は非常に微弱で、無数の情報からそれだけをピンポイントに選び出すのはほとんど不可能に近かった。また、物理的な距離も影響してか、感覚を飛ばしてから返ってくるまでに大幅に時間がかかってしまった。


これらのアクシデントは全て7号にとって未体験の事であり、一瞬たりとも気が抜けなかった。

 首筋を汗がほんの一筋流れるだけで、ピンと張りつめていた集中の糸が容易に断絶されてしまう。その度に彼女はもう一度第6感覚の糸を伸ばさなければならなかった。

 それでも彼女は決して諦めなかった。求める先には必ず何かがあると信じていた。

「絶対間に合わせる・・・・!あんたの仲間には・・・なんつーか、これくらいで死なれちゃ困るんだ。俺はあの団地で色んな人間を見てきたけど、他人のために命張る奴なんて一人も居やしなかった。壁を固めるだの何だの言っても、結局は自分の身を守るためだったんだ。そういうのって、やっぱりなんか違うよな。・・・よく分かんねえけど、あんた達みたいな人には生きててもらわなくちゃって気がするよ」

 重々しく気持ちを噛み締めるように南部が言った。

<ふん、一部の人間の他愛的行動の意義は私にだって解らない。だが、それによって救われた者たちがこうして立派に生きているのだ。案外、これが真理なのかもしれないな>

 そう呟くと7号は呼吸を整え、意識を一点に集中させた。

 しゅるしゅると第6感覚の糸が伸びていく―

 あらゆる角度、距離から無数の生命の声が聞こえる。7号は脳内に立体的な地図を作り上げた。

 闇の中で物質と精神を示す朱い立体が白い線で一つずつ繋がれていった。

 美しい、と7号は思った。

 そこにはか細くて今にも消えてしまいそうな声もあれば、力強く自己主張する声もある。その一方で、新しく産み落とされた未熟な声たちも全く同時に存在している。何かが死ねば、別の何かは生きる事が出来る。消滅と誕生の狭間で、一つの例外もなく法則は守られている。

 そんな残酷な世界で自分が今まで生きられた事はほとんど奇跡に近い。

 もちろん、独りきりでは絶対に不可能だっただろう。サクトやタクマたちと一緒にいるうちに、自分がそれまでどれだけ無知だったかを知った。限界を知った。だが、それでも自分は生きた。誰かに守られながら自分も彼らに力を貸し、共に生きた。その事実こそが、7号に今最後の力を与えている。

 7号はもう一度世界に目を向けた。どんな不利な状況でも、逃げ出さない覚悟があれば活路は自ずと見えてくるはずだ。立ち向かうか退くかは、どれだけ自分を信じられるかに懸かっている。

 程なくして、それは見つかった。

 無限に存在する選択肢の中で、それだけは特別な光を放っているように見えた。

 精密機械のように素早く、脳内で未来が組み立ててられていく。

 7号は決断した。

<よく聞け!これから、私は変種第9号の精神に攻撃を仕掛ける。お前は今から私が言う道に従ってサクトたちの所へ向かえ>

 南部は頷いた。

<チャンスは一度だけだ。これを逃せば私たちは全員変種第9号の餌食となるだろう・・・・・・が、そうなるつもりは毛頭無い。奴らは強敵だが、付け入る隙はある。私を信じるか!>

「ああ、何処だろうがついて行くさ。そのために俺はあそこから飛び出したんだ」

 南部はぐっとアクセルを踏み込んだ。タイヤがアスファルトの地面に擦れてギュルンギュルンと音を立て、車は薄暮の迫る街へ消えていった。

 同時に、7号の意識も第6感覚に従って飛んだ。






 その瞬間の感覚は水中に飛び込んだ時のそれに似ていた。頭頂部から肌の上を滑るように伝う水が身体の輪郭をよりはっきりさせていきながら足の先までを包み込んだ。

 闇の中に7号の意識だけが浮かんでいた。

 肉体を離れてここまで深く潜行を試みたのはこれが初めてだった。未知の世界を前に、7号は不安を押し殺せずにいた。しかし、たとえ勝算が無くても今はもうやるしかない。

 やがて、暗闇の先に真っ赤に燃える靄が見えてきた。7号にはそれが変種第9号の群れを意味しているという事が即座に理解できた。

 その総数は幼・成体を合わせて31体だ。こちらの存在には未だに気づいていないようだ。

 7号は考えた。変種第9号は自分と同じように第6感覚を持っており、群れ全体の思考は巣の中心で守られている巨大な泡状の神経細胞群体によって統括されている。あの泡は幼体を外敵から守るのと同時に、群れを率いる管制塔のような役割を担っているのだ。狩りの際、非常に統率の取れた組織的行動を行えるのはそのためだ。

 逆に中央の細胞群体さえダウンさせる事ができれば、個体はそれぞれの意志で動くようになるはずである。大将を失った兵隊がバランスを失って崩れ落ちるように、彼らは総崩れになるだろう。

 未来があるとしたらその一点だけだ。

 7号は意を決して変種第9号の靄の中に突入した。

 途端に頭が割れるように痛んだ。異種の精神に干渉するといつも現れる症状だ。物凄い力によって意識が後ろに引っ張られるような感覚を覚えたが、7号は引き返そうとは思わなかった。

 変種第9号の内部には宇宙的な空間が広がっていた。果てしなく続くトンネルの側面を摩訶不思議な色の光線が気の遠くなるような速さで進んでいる。

 7号の意識も奥へ奥へと突き進んでいった。

 突然、悪魔のような甲高い悲鳴がトンネル中に反響した。

 音が頭に直接突き刺さり、7号はぐっと呻いた。

 どうやら敵も自分の精神が侵されている事に気づいたようだ。

 その時、トンネルの奥から銀色の円盤がクルクルと回転しながら飛んできた。それらは7号の上下左右を取り囲むと、一斉に眼を開いた。

 見開かれた灼熱の眼球が7号の精神を捉えた。その瞬間、7号は自分の脳内に得体の知れないものが忍び込むのを感じた。

 心を覗かれるような不快感。今まで自分が何度もやってきた行為だから間違う筈がなかった。

 恐らくあの円盤は変種第9号の第6感覚だ、と7号は判断した。形状は自分のそれと著しく異なるが、この精神世界で認識できるのだからその可能性は高い。

 7号は円盤を無視して突入を続けた。ここで終わるわけにはいかない。

 トンネルの直径が徐々に小さくなってきていた。

 その時、心の中に変種第9号の思念が流れ込んできた。警告、殺意といった感情がごちゃ混ぜになって巨大な怪物のように唸り声を上げている。

<お前は何だ・・・????なぜ邪魔をする・・・・・????>

<私は7号だ。捕らえられている仲間たちを返せ!>

 7号は高らかに宣言した。

<????理解できない・・・・・我々の生命を脅かすのか????>

<生きるために、障害は排除するだけだ>

 すると、正面の空間に銀色の隔壁が現れた。行く手を完全に塞いでしまっている。

 7号は気にせずに速度を上げた。円盤たちもそれに合わせてピタリと併走してくる。あくまでもついて来るつもりらしい。やれるものならやってみろ、と7号は思った。

 そして、7号は隔壁に思い切り突っ込んだ。

 瞬間的に全ての感覚が途切れる。激しい衝撃が7号の精神に亀裂を生じさせた。

 気がついた時は、ガラスのように薄くて硬い何かを割った感覚とともに、7号は隔壁を突き破っていた。

 恐ろしい絶叫がトンネルに響きわたる。どうやら敵の精神に何らかのダメージを与える事が出来たようだ。しかし、円盤は依然として回転しながら追いかけてくる。

 その時、トンネルの側面の光線が不規則に歪んだ。

 そして、変種第9号の勝ち誇ったような笑い声が聞こえてきた。

 その途端、ゆらゆらと揺れていた光の束が何かの像を作り出した。それはサクトやユイ、そしてタクマの姿になった。

 3人の像はもみくちゃになりながら7号の方を睨みつけていた。

<これは・・・・・何のつもりだ?>

 ふいに、サクトが何かを叫んだ。7号には聞き取れない何かを。

 すると、タクマやユイまでもが彼女を罵倒した。しかし、同じく彼女にはその言葉の意味が理解できない。

 サクト、タクマ、ユイの3人は揃って共通の表情―怒りと憎悪に満ちた表情をしていた。

 それが変種第9号が見せている幻想に過ぎない事は明らかだった。

<消えろ!>

 次の瞬間、バチンという音とともに7号は全ての円盤を弾き飛ばした。円盤はコントロールを失ってトンネルの側面に激突し、霧消した。

 7号は飛び続けた。変種第9号の焦りと恐怖に満ちた悲鳴が聞こえてきたが、もはや彼女は興味すら示さなかった。

 やがて、目の前に新たな黒い隔壁が出現した。どす黒い闇の帷の奥は見透かす事が出来なかったが、7号は飛び込む覚悟を決めた。

 あの闇は今までの自分そのものだと思った。第6感覚はどんなに遠くの事象も完璧に捉える事が出来るが、それらのどれよりも近くにある真実に関しては一切教えてくれない。だから本当に知りたい事はずっと判らないままだった。

 でも、その答えをサクトはさも単純な事であるかのように教えてくれた。

 “7号は7号だろ”。なんて優しい言葉だろうと改めて思う。

 サクトやユイにとって、自分はきっと7号でしかないのだ。それ以上でもそれ以下でもない。変種だとか、人間だとか、そんな物差しでは肝心な事は測れない。測る必要などそもそも無いのかもしれない。拘っていたのは自分だけだ。

 自分以外の誰かに覚えていてもらえたなら、彼らにとっての何者かで在れたなら、それだけでもう最高に幸せなのだ。

 だからこそ、まだ自分には力尽きる前にやるべき事がある。

 この先に起こるはずの事に、後悔はない。自分の存在が何なのか、何を望むのか、何がしたいのか・・・・・今、この手で世界に見せつけてやろう。

 今、自分を象る輪郭線が完全に定まった。

 7号は呟いた。

<ありがとう・・・>

 7号の突入と同時に、最後の隔壁が粉々に砕け散った。

 最後の防御策を失った変種第9号の精神はバラバラに千切れて崩壊し、巨大な渦を巻いたかと思うとやがて消滅した。

 変種第7号の魂は目映い光の中へ吸い込まれるように飛んでいき、そのまま見えなくなった。






「7号・・・!聞こえてるだろ・・・!7号・・・・・おい!!」

 叫び声が遠くの方で聞こえた。俺自身の声なのに、ちっとも耳に入って来ない。

「こんなッ・・・・ああ・・・嘘だろ・・・・・なあ・・・!」

 俺は7号の身体を揺さぶり続けた。

 ユイちゃんはぐったりとシートにもたれながら、呆けたように7号を見つめていた。

 7号は目を開けない。

 世界が、静かに終わった。

 俺は拳を痛いくらいに握り締めた。

 心臓に穴でも空いてるのかと思うほど、胸が冷たくなっていく。跳ね上がる鼓動を感じる。

 漠然とした恐怖感が全身を襲った。

 全てが信じられなかった。

 今目の前で起こっている現実が飲み込めなかった。

「ちょっと・・・待ってくれよ・・・・まだ、まだ何か・・・・・」

 こんな時どうすれば良いんだ?どうしたら彼女を救えるんだ?

「南部・・・!何してんだよ・・・・・お前も・・・お前も手伝ってくれよ!なあ、早く!!」

 運転席の南部は振り返らない。

 俺はイライラしてきて、つい声を荒らげた。

「おい!!聞いてんのか・・・!!7号が息してないんだ!早くしないと死んじまう!!だから―」

「九瀬!」

 南部が雷のような鋭い声で叫んだ。

 俺はびっくりして思わず色を失う。

「もう駄目なんだ・・・・・。もう・・・7号はもうここには居ないんだ・・・・・」

「はッ・・・?」

 声にならない喘ぎが洩れた。

 喉が震えてくる。肩が、腕が、膝が、現実から逃げ出したくて震えている。

 俺は7号の頬に触れた。

 まだぷくぷくと弾力のある頬は氷のように冷たかった。

 彼女の眼は眠るように柔らかに閉じられている。

 今までよく見てきた寝顔のはずなのに、ただ眺めているだけでこんなにも悲しみが込み上げてくるのはどうしてだろう。

 7号の手足はカサカサに乾燥していて、足の裏は土で汚れていた。

 とうとう自分の足で地を歩けたんだね。

 物珍しそうに自分の身体を見つめ、嬉しそうに地面を走り回る7号の姿が浮かび、俺は思わず涙ぐんだ。

 俺は7号のために何をしてやれただろう。

 自由に動く事すら出来ない、弱くて無邪気な彼女のために、俺は何もしてやれなかった。

 それどころか、勝手に危険を冒しては彼女に迷惑をかけた。こんなどうしようもない俺なのに、彼女は身を犠牲にしてまで助けようとした。

「どうしてだよ・・・・・?何で俺なんか・・・・・・」

 自分への怒りと悔しさ。

 俺はまた一人、大切な仲間を死へ追いやってしまった・・・・・。

「俺には・・・幸せそうに見えたぜ・・・・・?」

 そう言ったのは南部だった。

「7号さぁ、俺にあんたの事を話してくれたんだ。あの団地に来るまでの事、全部。マルカ堂でお前が助けに来てくれた事とか、命懸けでオトリになった事とか・・・・・・タクマって人の事も聞いたけど、・・・とにかくお前の話ばっかりするんだよな。向こう見ずで危なっかしくて、そのくせ傷つきやすくて理解に苦しむって・・・・・・でも、それが人間らしいのかもしれないって。そんな事まで嬉しそうに言ってた。・・・俺には人の心を読んだりはできねぇけどさ、7号はたぶん最後の最後までお前を助けるんだって必死だったと思う。だから、きっと7号は満足してるんじゃねぇかな・・・」

 俺は7号の顔を見つめた。しっかりと真正面から全てを受け止める覚悟で。

 そうなのか?お前は本当に幸せだったのか?

 安らかなその顔には、確かに苦しんだ痕跡は無い。自然なままで凍りついてしまったかのようだ。

「大したもんじゃねぇか・・・。たった一人の女の子がだ、あの化け物の大群を蹴散らしてお前たちを救ったんだぜ?なぁ。お前たちはちゃんと生きてるじゃねぇか。情けない話、俺には・・・それができなかった。だから、7号の事は心から尊敬するよ・・・・」

 南部が言った。

 7号の腕は病的なほど細く、抱きかかえると羽根のように軽かった。

 この小さな小さな身体のどこにそんな強さが秘められていたのだろう。

 きっと彼女は誰よりも自分の弱さを知っていたに違いない。自分の限界を認め、それでも彼女は現実に戦いを挑んだのだ。決定的な不利を物ともせず、自分の望みを叶えるために立ち向かったのだ。

「7号・・・・・・」

 俺たちは、この先も、歯を食いしばって生きていかなければならない。苦しくても、悲しくても、逃げ出したり立ち止まったりしてはならない。

「ありがとう・・・・・」

 今ここにいるという奇跡を当たり前だと思ってはならない。

「ほら、お前に貰った命だよ・・・・・・。きっと、きっと大切にするから・・・・・」

 俺は7号の手を取り、自分の胸に当てた。彼女の手柄を今一度確認するように。

「だから・・・今は、もう安らかに眠ってくれ。俺たちを見守っててくれ。俺たちは・・・どんな事があってもお前を忘れないから」

 太陽が沈みかけた街に、直にまた夜が来る。そこら中に蔓延る残酷な現実に翻弄され、俺たちは大切な多くを失っていく。

 辛い現実から目を背けるのは簡単な事だろう。生きるか死ぬかは、ごく僅かな違いに過ぎないのかもしれない。生きている以上、どうせいつかは死ぬのだから。

 だけど、それでも俺は生きたい。この世界で現実と対峙するのはとてつもなく怖い事だけど、この命はもはや俺たちだけの物ではないから。恐怖の先へがむしゃらに突き進んだ彼らの、紛れもない遺産でもあるのだから。

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