みっかめ、しんや
アンバー山の夜は、漆黒の闇と未だ止まぬ暴風雨に支配されていた。
ゲイルを置いて休息地を探した二人は、辛うじて風雨を遮ることのできる岩の隙間に滑り込んでいた。
ただ、そこで力尽きたのだろう。コールソンは崩れ落ちるように壁に背を預けて動かなくなる。アニーは休息を訴える身体に鞭を打ち、自身のザックを開いた。
幸いにしてコールソンは外套も雨具も身に着けていた。だがそれだけでは防ぎきれず、雨は内側にまで侵食している。
アニーは彼の上着を剥ぎ取ると、濡れそぼった登山服を何の躊躇もなくナイフで切り裂いた。彼のザックの中から取り出した着替えを無理やり着せて、その内側にリネンの当て布と乾燥苔を適当に詰めこんでいく。
そして少し考えてから、アニーも雨具を一度脱ぎ捨てて、リアナの肌着を拝借してからコールソンの腕に収まる形で自らの体を寄せ、山猫の外套で前面を覆った。
応急処置を終えたアニーは遠慮もなくコールソンの胸に頭を預け、深く息を吐き出した。
「……つかれた」
それなりに防寒の備えがあったため致命的な体温低下こそ免れていたものの、彼女の肉体もまた確実に限界を迎えていた。酷使した左足は脈動に合わせるようにして熱を持ち、絶え間なく這い寄る山の冷気がアニーの細い体から容赦なく気力を毟り取っていく。
ただ、今の彼女を深く摩耗させていたのは肉体的な疲労ではなかった。
(ゴードンは、きっと死んだ)
崖の淵に残されていた滑落痕と、地面に散らばっていたゴードンの荷物。それを思い出すたびにアニーの頭はぐちゃぐちゃになって正常に動かなくなる。
どんな難所を前にしても冷静でいられたのは、近くにゴードンという絶対的な存在が控えていたからだ。
素性も知れぬ自分を傭兵団に招き入れ、それからも傭兵としてのあり方を教えてくれた。その精神的支柱を唐突に失った事実は、アニーの胸にこれまでに感じたことのない喪失感を与えていた。
呆然と暗闇を眺めるだけの時間が過ぎていく。指先一つ動かす気力も湧かない。頭は痛いし、熱もありそうだ。寒気だって絶え間なく続いている。この先のことは何も考えられないでいると、ふと、ここへ辿り着く手前、泥濘の中で横たわっていたゲイルの姿が思い浮かんだ。
何があそこで行われたのかまでは分からない。ただ、一人残された彼は死に際に母を呼んでいた。あんなに傲慢で平民を見下していた貴族の子どもが最期に求めたのは、家格でも名誉でもなく、ただ自らを無条件に庇護してくれていたであろう母親の温もりだったのだ。
では、自分はどうなのだろう。
アニーは激しい風の音を聞きながら、ぼんやりと思案に沈んでいく。
感情の起伏に乏しいと言われ、自身もまた徹底的に無駄を排除してきた。それが傭兵として生きることを選んだアニーにとっての処世術だったからだ。
それをよしとしてくれたのがゴードンだったのに。
彼がいなくなったら、誰が自分を認めてくれる?
「……おとうさん……」
それは、アニーが決して口にすることのなかった言葉。彼に父性を求めたことなどなかったはずなのに。知らず知らずのうちに掠れた呟きが唇から溢れ落ちていた。
勝手に涙がぽろぽろと零れ落ち、喉の奥から嗚咽が漏れ出そうになる。
おとうさん。
もう一度その言葉を吐き出した瞬間、鼓動を弱くしていたコールソンの身体が、痙攣したように激しく跳ね上がった。
「……キャシー……?」
コールソンの大きな手がガタガタと震えながら、アニーの身体を強く抱きしめる。
「ああ、キャシー……生きていてよかった。こんなに冷たくなって……かわいそうに……」
――違う、私はそんな名ではないと訴えたくても、コールソンの様子は明らかに異様だ。下手に刺激しない方が良いと判断し、アニーは口を噤んだ。自分よりも取り乱した人間が目の前にいると人はかえって冷静になれるものなのかと、急速に頭が冷えていくのを感じながら。
「キャシー……すまなかった……私がもっと早くついていれば……お前を、あんな目には……。すまない……すまなかった、キャシー……」
衣服のなかに詰め込まれた乾燥苔が、彼の呼びかけに合わせて不気味にガサガサと擦れる音を立てる。
アニーは、コールソンの自責の言葉を浴びているうちに、ようやく頭が正常に動き出していくのを感じた。
このままでは二人とも山の冷気に冒されて死ぬ。どれほど絶望的な状況であろうとも、ここでこの男と共倒れになることだけは絶対に許されなかった。
この山で何があったのか。それを知るためにも。
「……キャシーとは、先生の娘かなにかなのか?」
直球の質問に、アニーを抱きしめるコールソンの手から動揺が伝わってきた。彼の体温が一度離れ、それから深い溜息とともに「君だったか……」と声が落ちてくる。
「……すまない、私としたことが錯乱したようだ。……だが、そうだな。意識を保つためにも、昔話に付き合ってはくれないか」
アニーが無言で頷くと、彼はぽつりぽつりと語り始めた。
「私には娘がいたんだ。そばにいてやれなかったのに、私のことを慕ってくれていてね……」
お父さんのような騎士になりたいのだと、その娘はずっと言っていたらしい。
そして念願叶って、騎士養成学院に入ることができたのだと。
自慢の娘だったんだと語るコールソンの話を聞きながら、アニーはそのキャシーという娘の短い人生に想いを馳せていた。




