みっかめ、ゆうがた
――アニーがリアナたちと別れてからどれくらいだっただろうか。
倒木によって塞がれた道の手前から一度上方へと登り、裏ルートの上側を迂回する形で下ってきたアニーとコールソンの二人は、ようやく谷間の収束地点へと辿り着いた。
大粒の雨は依然として降り続いている。さらには夜がもうすぐそこまで迫っているのか、濃い闇が辺りを包み込もうとしていた。
「……コールソン先生、何かある」
アニーが足を止める。視線の先の崖の淵に転がっていたのは見慣れた革巻きの平たい入れ物。今朝方、ゴードンが「気付けの薬だ」と笑って一口呷っていた、あの小ぶりの水筒だった。
アニーは吸い寄せられるようにそれを拾い上げる。どうして自分の指先は、こんなにも震えているのだろうか。持ち主を探すように辺りを見渡すと、地面にはゴードンが愛用していた品々が散らばっていた。それを目で追っていくうちに、大量の土砂が削られたような生々しい滑落痕が崖下へと続いていることに気が付いた。
「ゴードンが、落ちた……?」
彼がそんなへまをするはずがない。こんな不自然に道具を撒き散らすはずもない。
落ちたのではない。――落とされたのだ。
そう理解した瞬間に、全身の血が逆流するのが分かった。
「……まだ、下に引っかかっているかもしれない。生きているかもしれない」
こぼれ落ちた言葉は自分が口にするものとは思えなかったが、アニーはザックを地面に放り出すと、命綱の準備も安全確認もなしに、激しい嵐が吹きすさぶ崖の斜面を覗き込んだ。
「何をしている、アニー! 狂ったか、戻れ!」
コールソンの鋭い制止の声が響いたが、アニーは構うことなく大きく身を乗り出す。
「あっ……!?」
不意に、手を置いた地面が崩れ、身体が大きく前のめりになった。突然の浮遊感に「死」という単語が脳裏をよぎったその時、背後から伸びてきたコールソンの手が、アニーの腕を強引につかみ引き寄せた。
地面に手荒く放り出され、尻もちをつく。呆然と崖の先を眺めていると、視界を塞ぐように前に立ったコールソンに頬を叩かれた。
「お前は傭兵なのだろう。今ここで平静さを失ってどうする。……彼は熟練の傭兵だと聞いていた。生きていれば、自分でどうにかしているはずだ。それなのにお前が死のうとしてどうするんだ」
死のうとしているつもりなどなかった。だが他人の目からはそう見えたということだ。
それは、感情に揺さぶられて判断を間違えないように努めてきた自分にとって、恥ずべき事実であった。
情に流されて自ら死にかけた自分自身の無力さと愚かさに、アニーは強烈な嫌悪を覚える。何よりもこんな姿をゴードンに見られるわけにはいかない。叱咤されるだけならまだしも、この先一生からかわれるかもしれないのだから。
「……すまない……」
言葉を絞り出すと、コールソンはアニーが正気に戻ったと判断したようだ。そのまま周囲を警戒していると、何かを見つけた彼が低く押し殺した声を上げた。
「……ゲイル、か」
アニーが重たい体を引きずるように近づくと、そこには登山服を血と泥で赤黒く染めたゲイルが横たわっていた。即死こそ免れたようだが深く抉られた腹部の傷口からは今も微かに血が滲み出て、雨水に洗われて白くなった内臓が覗いている。血を流しすぎた彼の息は絶え絶えで、その瞳の光は今にも消え入りそうだった。
コールソンはゲイルの傍らに膝をつくと、その泥まみれの肩を強く掴み、顔を近づけた。
「ゲイル。聞こえるか。お前の命はもう持たない。……死ぬ前に、質問に答えてもらう」
「あ、が……せ、んせ……? 寒い、お腹が、寒いんだ……」
「一学年上の、卒業式典の夜だ。お前は下町の酒場通りの裏路地で、いったい何を見た」
コールソンの低く響く声に、ゲイルの焦点の合わない瞳が微かに揺れた。
こんな極限状態で何を、と思わなくもなかったが、もはや口を挟む気力も残されていなかった。ただ、ゴードンの水筒を強く握りしめ、二人のやり取りを眺めていることしかできない。
「卒業式典の……夜……」
「そうだ。あの日を境にお前はジュリアンたちの傍にいるようになったと聞いた。あの夜に何があった」
「……いえない……」
「……お前の母親が、私に相談をしに来たぞ。息子の様子がおかしい、何かを抱えていないか心配だ、と」
母親、という単語を耳にして、ゲイルの目に一瞬だけ光が宿る。
今にも生命の灯が燃え尽きそうな死の間際、混濁する意識の中で彼は途切れ途切れに言葉を漏らし始めた。
「ジュ、ジュリアンが……。マルクも、ブルーノも……みんなで、囲んで……」
「誰をだ」
「一年の……平民の、女……。俺は、見てただけだ……」
彼は怯えるように身体を痙攣させる。足元の泥水が跳ねた。
「そうか。やはりお前はあの事件の目撃者だったわけだ。だからジュリアンたちはお前を傍に置き、監視していたということか。……お前も、その秘密を利用して奴らに取り入ったのか」
コールソンの追及は容赦がない。
しかしゲイルはもう、その問いに答えることはできなかった。
「……ママ……」
最後に小さく母の名を呼ぶと、ゲイルの瞳から完全に光が消え失せた。伸ばしたままだった彼の手が、泥の中に力なく落ちる。
コールソンはゆっくりと立ち上がり、ゲイルの死体を見下ろした。その表情には何の感慨も浮かんでいない。
アニーは手の中の水筒を見つめ、それから崖の下の深い霧の底へと視線を向けた。
コールソンはなんらかの目的をもって動いているようだったが、アニーはそれ以上深く考えることを止めた。自分に必要なのはこの山の中で自らの命を守り抜き、山猫へ帰還することだけだ。
「……先生。ここにいても、暖は取れない」
「……そうだな。先を急ごう。休める場所を探さなくては……」
アニーはもう一度だけ崖を見て、振り払うようにその場から離れた。




