背負うもの②
「平民の分際で! この私に逆らうとは何事だ!」
ジュリアンの狂気じみた叫び声に、ぼうっと立ち尽くしていたドリスも弾かれたように反応する。
「そうだ……その服をよこせ! それがあれば王都に戻れるんだ! ミニスのところへ行けるんだよ!」
生存への剥き出しの本能だけがその瞳をぎらぎらと輝かせている。二人は膝をついたままのゴードンへ容赦なく掴みかかった。
「おい、ゲイル! お前も何を見ている、手伝え! こいつを押さえろ!」
ジュリアンが、あの日のように陰で眺めていたゲイルを怒鳴りつける。
そう。あの日もゲイルは見ていた。酒に酔った末の出来事を、建物の陰からずっと。
ゲイルはそれほど家格の高い貴族の生まれではない。本来であれば、ジュリアンやブルーノといった大貴族の嫡男たちと対等に言葉を交わすことすら許されない立場だ。そんな彼がこの第二分隊でジュリアンの傍らにいられたのは、純粋な友人だからではない。
『ジュリアン。……あの日は随分と、お楽しみだったみたいだね』
ちょうど隠蔽が終わった頃、そんな低俗な言葉を投げかけてきたのがゲイルだった。
探るような上目に、含みを持った言い回し。愉悦に歪む唇を目にして、ジュリアンは彼が望むことをすぐさま理解した。だから仲間として受け入れてやったのだ。その内心で、自らの弱みを握った気でいるゲイルの存在をひどく疎ましく思いながら。
「私の仲間でいたいのだろう! また日の当たらぬ場所に戻りたいのか!」
「あ、ああ……っ!」
ゲイルはジュリアンの言葉に突き動かされるようにして地面を蹴り、ゴードンへ飛びかかった。
輝ける場所にいたかった。心配性の母にうまくやっている姿を見せてやりたかった。
それにここでジュリアンの命令に逆らえば、山を下りた後に実家ごとどんな報復をされるか分かったものじゃない。いや、それ以前に今ここで足手まといと見なされたら、この山の中に捨てられかねない。
そうなれば自分は確実に死ぬという、本能的な恐怖が彼の理性を焼き切っていた。
「やめろ、狂ったか!」
ゴードンは野太い声で吠え、激しく抵抗した。大柄な肉体を強引に揺さぶって群がる三人を引き離そうとするも、背後から取り憑いたドリスがゴードンの首筋に死に物狂いで組み付き、太い腕でその視界を完全に塞ぐ。
「ロッソ! お前も手伝え! この平民から剥ぎ取るんだ! こんなルートを選んだのはお前の失態なんだからな! これ以上私の機嫌を損ねて賠償金を上乗せされたくはないだろう!」
「そ、そんな……!」
賠償金という言葉に、ロッソもゴードンの足に崩れるように縋り付いた。
「脱げ! 脱げよ平民が!」
ジュリアンが腰のナイフを引き抜き、ゴードンの背負うザックの分厚い革紐を力任せに切り裂いた。ドリスがゴードンの外套の襟元を掴み、強引に引き剥がそうと肉体に爪を立てる。
「ガキどもが……っ!」
ゴードンは勢いよく身体をひねった。その分厚い右腕が、正面から組み付いていたゲイルの胴体を正確に捉える。
その手に握られていたのは彼が愛用する短剣。凄まじい力で放たれた一撃はゲイルの登山服を容易く切り裂き、その肉まで深く抉る。
「が、はっ……!?」
ゲイルの腹から、どっと鮮血が飛び散る。ゴードンがすかさずその身体へ強烈な蹴りを叩き込むと、ゲイルは大きく後ろへと吹っ飛び、泥濘の中に倒れ込んだ。
「ひっ、ひいいい!!」
ロッソが甲高い悲鳴を上げ、足元の泥を掴んでゴードンの顔面へ投げつける。不意の泥に視界を奪われてさすがのゴードンもわずかに怯んだ。その決定的な隙を見逃さず、横からドリスが全力で体当たりをする。
ドリスの全重量がそのままゴードンの巨体を崖の外側へと押し出す。完全にバランスを失った彼の身体が、斜面の外へと大きく傾いた。
ゴードンは一瞬、何かを叫ぼうとして口を開いた。しかしその唇が言葉を形にするよりも早く、彼の大きな身体は、白い霧が不気味に渦巻く深い崖下へと音もなく滑落していった。
激しい雨が跳ねるぬかるんだ地面には、引きちぎられた外套の切れ端と、強引に切り裂かれたゴードンのザックから飛び出た中身だけが無残に散乱していた。
そしてその傍らには、腹を裂かれて血を流すゲイルが芋虫のように横たわっている。
「やった……手に入ったぞ……」
ジュリアンは、ちぎれた外套を自分の身体に巻き付けた。ドリスは泥の中に落ちたゴードンのザックから衣類を引き出し、胸に強く抱きしめる。彼らは崖下へ消えた傭兵のことなど最初から視界に入っていなかったかのように、奪ったわずかな暖にすがりついていた。
「ジ、ジュリアン……助け、てくれ……腹が、寒いんだ……動けない……」
ジュリアンは震えるその手を蹴り飛ばした。
「……うるさい、汚らわしい手で私に触るんじゃない。下民に近い家格の分際で、今まで私を脅すような真似をしおって。だいいち腹を裂かれた足手まといなど連れていけるはずもないだろう。そこで大人しく寝ているんだな」
ジュリアンはそう冷たく吐き捨てると、服を抱きしめるドリスと、恐怖に震えるロッソを促して霧の向こうへと足早に歩き去っていく。自らの過去の弱みを知るゲイルがこの山で果ててくれるのなら、彼にとっては口封じの手間が省けて好都合ですらあった。
後に残されたのは、ただ容赦なくすべてを洗い流そうとする激しい雨の音と、崖の淵へ向かって深く抉れた泥の滑落痕。
そして、己の流した赤黒い血で地面を染めながら、雨に打たれて浅い呼吸を繰り返すゲイルだけだった。




