背負うもの①
――彼は特別だった。生れたときから、ずっと。
――轟音と共に斜面を滑り落ちてきた巨大な倒木と土砂は、先行していたジュリアンたちの背後で道を完全に塞いでしまった。
木の幹が激しくへし折れる破壊音と、抉られた泥土の生臭い匂いが立ち込める。振り返ったジュリアンの視界にあったのは、泥と木の根によって創り上げられた土砂の壁だけだった。
壁の向こう側からはアニーの叫び声が微かに聞こえたが、それもすぐに途絶える。誰も巻き込まれなかったのは奇跡と言えたが、最悪の状況であることには違いない。
「おい、ロッソ! あいつらが切り離されたぞ! どうするつもりだ!」
共用ザックと共に雨具を失っているジュリアンの登山服は、完全に冷水を吸いきって鉛のように重く肌に張り付いていた。吹き抜ける暴風は彼らの体内の熱を一切の慈悲もなく外へと引きずり出していく。
――こんなはずではなかったのに。
今頃は悠々と帰還し、用意された宿で身を休めていたはずなのに――。
ジュリアンのよく手入れされた指先は水分を吸って皺まみれで、すでに自分の意思ではまともに曲げることすらできなくなっていた。
「わ、分かりません! しかし、あの巨木を今すぐどうにかするのは不可能です……! ここで立ち止まっていれば、我らまで動けなくなります!」
ロッソは青ざめた顔で大声で叫び返した。これまで媚びるように見せていた揉み手とおべっかは完全に消え失せ、自己保身からくる恐怖だけをその引きつった表情に張り付けている。
「ドリス! ゲイル! 無事か!」
ジュリアンが周囲を見回す。すぐ後ろには、虚ろな目をして泥まみれの懐中時計を握りしめるドリスが立っていた。しかしあの小生意気な傭兵の小娘と、ヒックスやテッド、リアナたちの姿はない。彼らは倒木の向こう側に取り残されたのだ。
こちら側に残されたのは、ジュリアン、ドリス、ゲイル。それにガイドのロッソと、傭兵のゴードンだけだった。
「……あいつらは、足が遅かったからな。自業自得だ。ロッソ、先へ進むぞ。ここに留まってやる義理はない」
ジュリアンは虚勢を張るようにそう吐き捨てると、感覚の消えかけた足をもつれさせながら泥濘を踏み出した。
彼の頭の中には、まだ「最優秀の栄誉」という人参がぶら下がったままだった。他隊に出し抜かれるわけにはいかない。大貴族の嫡男でありながらこの程度の山で無様に挫折した姿など、他の候補生たちに見せられるはずもなかった。
まだ大丈夫。自分たちは一番にアンバー山の頂を踏んだのだ。時間も猶予も残されているはずである。
自分たちだけ麓に下りたとあらば責め立てられるかもしれないが、それも大丈夫。リュシエル家に逆らえるものなどいるはずもない。奴らが勝手に自滅しただけだと言えば、それですべては終わるのだ。なんならいつものように金でも掴ませてやればいい。
そして、ようやく岩間を進む裏ルートに辿り着いたのだが――。
そこは麓へと続く谷間を縫うように強風が吹きすさび、岩壁に取り付けられたロープは現地民が適当に拵えたものだったのか、一部を残して風に剥ぎ取られていた。
「……本当に、ここを進むつもりか」
呆然と立ち尽くすジュリアンを引き戻したのはゴードンだ。その問いかけにジュリアンは自然と頬を引き攣らせたが、今更引き返すことなんて出来るはずもなかった。
「……行くしかあるまい。おい、ロッソ。ここを抜けさえすれば、すぐに麓に着くのであろう?」
「は、はい、はい。そのはずでございます……」
「そのはず? どういうことだ。お前はこの道を知っているのだろう!」
「い、いや……親父に聞いていただけで、私は、その……」
消え入るような声を絞り出して、ロッソが卑屈な笑みを浮かべる。
歩みを完全に止めたジュリアンの横を、ドリスが肩をぶつけながらすり抜けた。
「俺は、行くぞ。どうせ戻れるかもわからないんだ。先を行くしかない……」
「……仕方あるまいな。おい、平民。お前が先を歩け。その図体なら少しは風よけになるだろう」
ゴードンは何か言いたげにしたが、諦めたように前を向いて歩き始めた。その後ろを岩肌に手をつきながら追いかける。
風が強まるたびに足を止める中、ドリスは何度も泥に足を滑らせ、そのたびに鋭い岩肌に膝や腰を激しく打ち付けながらも、執念だけで前へ進もうとしていた。
「約束したんだ……俺は、一番前の席に、座らなきゃいけないんだ……こんなところで、もたもたしていられるか……」
ドリスの唇から漏れるのは何度も聞かされたうわ言だ。正常な思考などとうの昔に失われているようだった。
そんな彼らを先導するように、ゴードンだけが一定の行軍ペースを維持し、確実に泥を踏みしめていた。
……体調は悪そうにしているが、なぜこの傭兵はまだ平然としていられるのか。鈍い頭で考えたジュリアンは、その理由にすぐに思い至った。――装備の違いだ。ゴードンは厚手の外套を羽織っていた。油でも染み込ませているのか、あの外套が彼の体温を守り続けている。
「がはっ……、ごほっ……!」
それでも体力は消耗していたのだろう。長い時間をかけてようやく谷間を抜けたことで気が抜けたのか、ゴードンが激しく咳き込み、ついにその場に膝をついた。大きな両手を地面に突き、荒い呼吸を繰り返しながらもなんとか立ち上がろうと身体を激しく震わせる。
そのゴードンの大きな背中を、ジュリアンが血走った目で見つめていた。
正確には、ゴードンが身に纏っている、あの暖かそうな外套を。
なぜだ、とジュリアンは内心で歯噛みする。
なぜ平民の傭兵ごときが、あんな上等な服を着てぬくぬくと生き長らえている。
なぜ高貴なリュシエル家の血を引くこの私が、こんなところで惨めに凍え死にそうにならなければいけないのだ。
あれは本来、我らのような選ばれた人間に差し出されるべきものだろう?
そうだ、それは当然の権利だ。彼らのような下民は自ら泥に膝をついて、その外套を大貴族に差し出すべきなのだ。なぜなら自分は将来の王国を背負うエリートであり、誰よりも偉大な存在なのだから――。
「……おい、平民。その上着をよこせ」
ゴードンは虚ろな目をゆっくりとジュリアンへ向け、短く首を振った。
「断る。……これを渡せば、俺が死ぬ」
これまで金目当てに粛々と従っていたくせに。
最後の最後で飼い主に牙を剥いた野良犬を前にして、ジュリアンの視界は怒りで真っ赤に染まった。




