獣たちの巣穴②
極度の緊張と得体の知れない恐怖から叫びだしたい衝動に駆られる。
その極限状態の暗闇の中で、じり、と濡れた泥を踏みしめるような音がして、シュリーは反射的に身体を強張らせると同時に息を止めた。
恐る恐る暗がりの地べたへと視線を巡らせる。すると、暗闇の中でも輪郭を捉えられるようになった目の端に信じられない光景が浮かび上がっていた。
ブルーノが、四つん這いになりながらこちらに向かってじりじりと這い寄ってきている。
彼の顔には生気も表情もなく、その大きな両手は泥にまみれて黒く汚れていた。
「……寒い……。なあ、シュリー……俺を温めてくれよ……」
ブルーノのひび割れた唇から漏れ出たのは、獣のように低く唸る声。ゆっくりと、それでも確実にシュリーとの距離を詰めてくる。
泥のべっとりとついたブルーノの、氷のように冷たい指先が自分の足首に触れた瞬間。
シュリーの全身の毛穴が一気に逆立ち、蓋をしたはずのあの忌まわしい記憶が鮮烈にフラッシュバックした。
『――それにしても、アレは最高だったよなぁ』
たまたま談話室の傍を通りかかった、雨の日の午後だった。ジュリアンとマルクが長机に腰をかけて下品に笑う声が聞こえてきたのだ。
立ち聞きするつもりなんてなかったのに。少しだけ淡い恋心を抱いていたブルーノもその場にいたものだから、つい足を止め、耳をそばだててしまった。
『アレ? なんのことだ?』
『卒業式典の夜だよ。酒場の近くに平民の女がいただろ?』
『……ああ、マルクが立ちんぼと間違えた女か。まさか本当にこの学院の生徒だったなんて思いもしなかったよ』
『あんなところにいたくらいだ。実際に男を買っていたに違いないがな』
『あの日もこんな雨だったな。……どうだ、また手頃な平民の女でも探してみるか?』
『やめとけ。父上にまた叱られかねない。それにもうすぐ大事な卒業演習も控えてるんだ。……まぁ、そんな機会がまたあれば、な』
ジュリアン、マルク、そして目の前で泥まみれになって這いずっているブルーノ。
彼らが武勇伝のように愉しげに語り合っていたのは、同じ学園で騎士を志していたはずの後輩を『売春婦と間違えた』などという言い訳で寄ってたかって嬲り、その事実を闇に葬り去ったという吐き気を催すような話だった。
(後輩が下町で死んだとは聞いていたけれど、まさかこいつらの仕業だったなんて――!)
彼らの話を聞いてしまったシュリーは激しい嫌悪と怒りで打ち震えた。
でもそれ以上に胸を占めたのは、身がすくむような恐怖心だった。
彼女もまた、騎士を目指す一人の女だ。この学院にいる限りは誰であろうと対等であると思い込んでいたが、所詮は性の捌け口として蹂躙されて使い捨てられる側に過ぎないのだと、その時改めて思い知った。
『……それにしても、ゲイルも何を勘違いしているんだか。うっとおしくて仕方がないな』
『今の環境で満足しているんだ。放っておけ。どうせ卒業までの辛抱だ』
『誰かに言うかもしれないだろ。金で強請られるかもしれん』
『だから「仲間」に入れてやったんだろうが。まあ、あんまり目に余るようなら……少し早めに卒業してもらうさ』
相手は国の中枢を支配する有力貴族の跡取りたち。糾弾したところで、学院から不名誉な罪を被せられて放逐されるか、あるいは人知れず消されるのは間違いなく自分の方である。
犠牲になった下級生の娘のように。
だからシュリーはすべて忘れることにした。ブルーノへの恋心ごと心の奥底へと押し込んだ。
後輩の汚名をそそぐことを放棄した罪悪感から必死に目を逸らし、男という生き物に対する嫌悪感だけを強く植え付けて。
そのブルーノが、今。
暗闇の中で獲物を見つけたような瞳でシュリーをじっと見つめている。
(このままじゃ、私がやられる……!)
全身を襲う寒さと逃げ場のない洞穴の恐怖によって、これまでかろうじて繋ぎ止められていたシュリーの精神は完全に瓦解した。
ここで拒絶しなければ、彼らが語っていた黒髪の一年生と同じように嬲られる。腹を殴られて、首を絞められて、服を裂かれて、そして、そして――。
「触るなあああああッ!」
シュリーは鼓膜を破らんばかりの絶叫とともに、腰の革帯から護身用のナイフを勢いよく引き抜いた。そして這い寄ってきたブルーノの首筋へ向けて一切の躊躇なくその鋭利な刃を突き立てる。
「……あ゛?」
ブルーノの眼球がぐるりと上を向き、切り裂かれた肉の隙間から生温かい血が激しく噴き出した。
シュリーの手は止まらなかった。彼女はブルーノの身体に馬乗りになり、彼の胸、腹、そして顔面へと、何度も何度も刃を突き立てた。
暗い洞穴の中に、肉を抉る湿った音と、鉄錆のような血の匂いが一気に充満していく。
「ひっ……! 熊だ! 穴持たずが出たあああ!」
その凄惨な血飛沫とブルーノの断末魔を耳にして叫び声を上げたのはルゥだ。行軍中にゲイルから執拗に聞かされていた「人食い熊」。その不気味なイメージが、暗闇の中でブルーノを切り刻み続けるシュリーの凶行と完全に結びついてしまったのだ。
「化け物め! 死ね! 死ねよ!」
ルゥは涙と鼻水に塗れた顔でナイフを闇雲に振り回す。その一太刀が、すぐ目の前でうずくまっていたサムの肩口を深く斬りつけた。
「痛っ! 何をするんだ、ルゥ!」
深く肉を裂かれたサムもまた極限の状況で、脳が完全に麻痺していた。
同じ歳、同じ貴族の生まれでありながら、自分のことをただの荷物持ちとして平民のように見下して、すべての雑用を押し付けてきた仲間たち。積年の怨嗟が爆発し、サムは巨体を震わせてルゥの細い首へと太い手をのばした。
「お前までっ! 僕を馬鹿にするのかあっっ!!」
暗く狭い洞穴は、誰が敵で誰が味方かも分からぬ凄惨な殺戮場へと姿を変えた。
シュリーはすでに物言わぬ肉塊となったブルーノを何度も執拗に突き刺し続け、ルゥは顔を真っ赤にしてナイフを闇雲に振り回し、サムはルゥの首の骨が軋むほどの力で首を絞め続ける。
同じ学び舎で共に騎士を目指していたはずの候補生たちが互いに互いを殺し合う。
その狂騒は洞穴の外に漏れることはなく、容赦のない豪雨の音に掻き消された。




