獣たちの巣穴①
――だから私は、髪を切った。
先行グループから遅れていたシュリーたちは霧のせいで完全にはぐれてしまっていた。前を歩く影は見えていたはずなのに。道を塞いだ倒木と崩落の音に気を取られたわずかな間に、ジュリアンやゲイルたちの気配が消えてしまったのだ。
「おい、ジュリアン! どこに行っちまったんだ、ジュリアン!」
ブルーノが声を張り上げるが、叩きつけるような豪雨と耳を劈く暴風にその絶叫さえもかき消される。
早い段階で雨具を身に着けていたシュリーは、まだ身体を動かす余力が残っていた。しかし、ジュリアンに同調して「下りるだけだから重い雨具は要らない」と山小屋に捨ててきたり、共用ザックに詰め込んでサムに押し付けていた連中は雨を凌ぐ術が何一つ残されていなかった。高級な仕立てだったはずの登山服は雨を吸いきって肌に張り付いている。すでに肉体の震えを自力で止めることすらできなくなっていた。
「寒い……ひどく、寒い……。指が、動かないんだ……」
同期の中で最も小柄なルゥが子どものように膝を抱え、歯の根をガチガチと鳴らしながら身を縮めている。
その隣では鍛錬で誰にも劣ることのなかったエリックが、小川のように水の流れる地面に座り込んでいた。その顔面は血の気を失って真っ白で、視線はどこか虚空を彷徨っている。もはや立ち上がる気力すら残されていないようだ。サムはぼんやりと立ち尽くすだけで何の役にも立ちそうにない。
絶望的な状況に、寒さとは別の種類の震えが全身を襲う。とにかく休める場所を探さなくては。その一心で周囲に何度も目を配る。
「……ねぇ、見て! あそこの陰に穴が見えない? あそこなら、雨をしのげるかもしれないわ!」
「で、でもあれ……。ゲイルが言っていた、熊の巣穴じゃないですよね……!?」
「そうだったとしても、ここでぼうっとしてたら死ぬのよ! 行くしかないじゃない!」
シュリーは無意識のうちに腰の革帯へと手をかけ、その硬い感触を確かめた。
演習にあたって帯剣こそ許されていなかったが、護身用のナイフは各々が備えている。だから、何かあっても大丈夫。そう自分に言い聞かせるようにして彼女は洞穴へと向かった。
シュリーのあとに続いて、ブルーノ、サム、ルゥ、そして引きずられるようにしてエリックが、その狭い閉鎖空間へと滑り込む。頭上からの容赦ない雨こそ遮られたものの、斜面に沿って吹き込んでくる強風と、濡れそぼった衣服がもたらす冷気の侵食は止まらない。
全員が言葉を失い、互いの歯の根を激しく鳴らす音だけが薄暗い洞穴の石壁に反響していた。
ただ衣服が濡れて身体が冷え切っているだけなのに、これほどまでに急速に体力を消耗し、思考がまとまらなくなるなんて――。
暖を取りたくとも、必要な物資はサムの手によって谷底へ消えた。雨具は持ってきたのに毛布は小屋に置いてきてしまった。自身の背負うザックの隅にはわずかな干し肉が残されているが、今は食べ物を喉に通すことよりも寒さこそが最大の敵だった。
(――もしかしたら、私はここで死ぬのかもしれない)
王都での華やかな生活、これまで積み重ねてきた努力、そして……女騎士としての輝かしい未来。
それらがすべて、何の意味も持たないものとして雨と一緒に流されていく。
これまで一度も現実味のなかった「死」という概念を意識した途端、心臓を直接冷たい手で掴まれたような恐怖に押しつぶされそうになった。
湿った暗闇の中で風の咆哮を聞くだけの時間が流れていく。
どれだけの時間が過ぎただろうか。ようやく闇に目が慣れ始めた頃、シュリーの耳に、衣服が擦れるような不自然な音が届いた。
「……はぁ、はぁっ……。熱い、熱いんだよ……」
不意に、地べたに伏せていたエリックが、獣のような荒い呼吸を吐き出しながらゆらりと立ち上がった。そして何を思ったのか、自らの登山服を乱暴な手つきで引きちぎり始めたのだ。そのあまりに異常な行動にシュリーは唖然とする。
「……エリック? 何をしているの? いま服を脱いだら本当に死ぬわよ……?!」
「うるさい! 熱いんだよ! 体の芯が、火をつけられたみたいに熱いんだ!」
エリックの目は濁っているのに、瞳孔は異常なまでに開いていた。彼は「熱い、熱い」と狂ったように喚きながら、自らの濡れた上着を力任せに引き剥がして地面に投げ捨て、さらにはズボンまで自らの爪で引き裂こうとする。
「ひっ……、狂ったのか……!?」
「馬鹿はこれだから困るんだよ……!」
エリックは止めようと手を伸ばしたブルーノの腕を振り払い、下着までをも引き剥がして完全に裸になった。
その土気色の顔面に、恍惚としたような、歪んだ笑みが浮かぶ。
「ああ……ほら、見ろよ……。こんなに涼しいじゃないか……! あはははっ! あはははははっ!」
彼はそのまま天を仰いで奇声を上げたかと思ったら、静止する声すら振り切って洞穴の外へと飛び出していった。引き留めようとしたシュリーの指先は、虚しく冷たい空気だけを掠める。
数秒後、闇の向こうからどさりと地面に倒れるような音が微かに聞こえ、それきりエリックの叫び声は完全に聞こえなくなった。
十六人いたはずの第二分隊は、山頂を踏んでからわずか一日足らずの間に、たったの四人まで間引かれてしまっていた。




