みっかめ、ひる④
ゴードンが視線を前に戻して再び歩き出す。アニーもまた、その後に続いた。
しかし、尾根を回り込んで谷間の狭い通路に入った瞬間、風の勢いはさらに一段跳ね上がった。容赦なく顔を叩く大粒の雨のせいで目を開くことすらままならない。
背後からは、寒さと疲労でまともに足が上がらなくなったテッドが泥に足を取られる音が断続的に聞こえていた。それを支えるリアナの息遣いも荒い。
「おい、ぐずぐずするな! 前を見失うぞ!」
ヒックスの焦りを含んだ怒鳴り声が響いた、その直後だった。
急激に視界を奪った白い霧の中、アニーの背後で誰かが大きく足を滑らせた。激しい泥の飛沫と共に、パニックに陥ったその影が前を歩くゴードンの身体を強引に突き飛ばす。
横にいたはずのゴードンの姿が消えたと思った瞬間。
上方の斜面でバリバリと不気味な音が響いた。
「ゴードン!」
アニーは咄嗟に叫んだが、激しい衝撃音と濁流の音に遮られ、返事はなかった。豪雨によって根元を緩められた倒木が大量の土砂と岩石を巻き込みながら、アニーとゴードンたちの間に凄まじい勢いで滑り落ちてきたのだ。
地響きが収まったときには、目の前に泥と木の根が複雑に絡み合った障壁が出来上がっていた。完全に道が塞がれたことで、アニーはゴードンやジュリアンたちのいる先行グループから物理的に切り離されてしまった。
「……最悪だ」
たまらず舌打ちをしてしまう。こちら側に残されたのは、リアナとテッドとヒックス。地図は頭に叩き込んでいたが、この状況ではもはや何の役にも立たない。
「おいおいおい……どうすんだよ、この状況」
ヒックスが額を押さえながら頭を振る。ちらりと視線を送られたが、いくら傭兵とはいえこんな小娘では何の役にも立たないと判断されたのだろう。彼の表情が焦りと苛立ちに染まっていく。
「ど、どうしましょう……! ね、ねぇテッド。しっかりして、テッド!」
おろおろとヒックスとテッドの顔を見比べるリアナ。テッドはがたがたと震えるだけで何も言葉を返さない。マルクのように脱落するのも時間の問題に思えた。
「……おい、ガキ。荷物は何を持っている」
「私個人の寝袋と簡易毛布が一つずつ。後は薬箱と女性陣の着替え。それから……リネンの当て布と、吸水用の乾燥苔。食料も、私の分だけだ」
アニーはザックの重みを肩で感じながら、事務的に事実だけを告げる。幸いにしてこのグループはみな雨具を身に着けている。それでもデッドの消耗は激しい。ヒックスの顔が露骨に引き攣った。
「女の着替えと苔だと? ふざけるな、そんなものがこの嵐の中で何の役に立つんだよ!」
ヒックスは激しい雨に打たれながら怒鳴り散らし、地面の泥を強く蹴りつけた。
アニーは彼の罵声を聞き流しながら、隣でガタガタと震えているテッドを見た。彼の唇はすでに血の気を失った白に変色し、焦点の合わない目で虚空を見つめている。アニーの手元にある薄手の着替えや一人用の毛布では気休めにもならないだろう。そもそもこんな豪雨の中で広げたところで、一瞬にして使い物にならなくなる。
「テッド……しっかりしてよ、テッド! ヒックス、お願い、テッドを助けて……! 何か……何か方法はないの!?」
「知るかよ! 火種も簡易テントも全部あのデブが谷底に落としちまったんだ! ここに留まってたら俺たちまでマルクみたいに動けなくなるぞ!」
リアナとテッドを見据えていたヒックスの視線が、じりじりと後方の山道へと動いていく。正しい判断だ、とアニーは思う。このような状況に陥った以上は生存のための最善手を取らねばならない。見捨てていく、という決断は責められるどころかむしろ推奨されることで――。
「……落ち着くんだ」
激しい雨の向こう側からの声に全員が振り返る。その視線の先には、フードを深く被ったコールソンの姿があった。あまりにも突然の合流にヒックスが息を呑む。
「先生! ……マルクは、どうしたんだよ」
「岩陰を見つけ、そこに毛布と一緒に置いてきた。非常に体力を消耗しており、無理に動かすのは危険だと判断した結果だ」
「シュリー達は見かけなかったか?」
「そちらは分からない。なにせこの霧では……」
コールソンは淡々と告げると、泥濘にへたり込むテッドの顔を凝視した。
「……テッドもマルクと同じ症状だ。今この状態で無理に歩かせれば確実に心臓が止まる。ヒックス、アニー。近くの岩陰を探し、緊急野営の準備を――」
「冗談じゃねえ! こいつらとここで大人しく死ねって言うのか!? 緊急野営つったって、火種どころかまともな道具もねえんだぞ! 俺は嫌だ、一人ででも麓へ降りる!」
「ヒックス、待ってよ! テッドを見捨てる気なの!?」
リアナが泣き叫ぶが、ヒックスはもう振り返らなかった。「俺にできることなんざ何もねぇよ」と吐き捨てて、霧の向こうへと逃げるように駆け下りていく。
残されたのは、もはや身じろぎ一つしなくなったテッドを抱きしめるリアナとコールソン、指先を冷やすアニーの四人だった。
「……リアナ、今はここを離れるべきだ。この雨風の中で立ち止まればお前まで動けなくなる。テッドは一度ここに残し、後で救助を連れて戻ってこよう」
その説得を聞きながら、アニーは冷静に状況を計算していた。
テッドの身体はすでに手遅れに近い。呼吸は微かで、他人の体温や薄い毛布だけで回復する段階をとうに超えているように見える。ここでリアナの感傷に付き合って休憩を選べば、熱源のないこの状況では確実に共倒れになることが目に見えていた。
そうだ。ゴードンも言っていたではないか。「自分の命を守る行動に出ろ」と。
だから他人を見捨てるという決断に、躊躇する理由は何一つないはずだ。
その覚悟が伝わったのか。それとも空気を読んだのか。
リアナは雨とも涙ともつかない水で頬を濡らしながら、小さく頭を振った。
「……先生、私はテッドを置いていけません。私たちはここで休んでから、後から追いかけます。……お嬢さん。本当に申し訳ないのだけれども、毛布を一枚だけ貸してもらえないかしら」
真正面から見据えられたアニーは無言でザックの中から毛布を一枚取り出し、彼女に手渡した。リアナはそれをテッドの身体に巻き付ける。
本来ならばその毛布すらも渡すべきではないと頭では分かっていたのに。……自分にもまだ甘さが残っていたらしい。
「……アニー。足は動くか」
コールソンがリアナたちを無表情で見下ろしたまま、アニーに問いかけた。
「多少痛むが、歩ける」
「よし。私たちは先行したジュリアンたちの後を追う。……リアナ。後悔のない選択を」
「ありがとうございます、先生」
アニーも一瞥するだけで、一言もリアナに声をかけることなく、ザックの紐を締め直した。
雨は、少しだけ勢いを失ったように思えた。だが、道は塞がれている。ジュリアンたちの後を追うにしてもどこへ向かうべきなのか。
「どちらにせよ先へは進めまい。回り道にはなるが一度登るぞ」
「……登るのか? 沢沿いに下れば麓に出られるのでは?」
「この雨だ。鉄砲水の恐れがある。それに無暗に下るのは悪手だ。今は登る。視界が開ければどこかの小屋を見つけられるかもしれん」
どうやら彼と合流できたのは僥倖だったようだ。少なくとも、先ほどまでの絶望的な状況からは脱せたような気持ちになる。
後はゴードンが無事ならば良いのだが――。
倒れた木を背にして、アニーはコールソンの背中を追って登り始めた。




