第92回 僕の負けです
恋人になっても、不安がなくなるわけではないらしい。
そんな夜のお話です。
夜。
自宅。
シャワーを終え、
ベッドへ倒れるように転がり込む。
疲れていた。
今日は色々ありすぎた。
ルシアン。
ロビーでの騒動。
思い出しただけで頭が痛い。
そんなことを思っているうちに、そのまま意識が沈んでいく。
⸻
どれくらい経っただろう。
ふと身体が温かくなる。
腰に回る腕。
抱き寄せられる。
首筋に温かな吐息がかかる。
くすぐったい。
「おかえり」
小さく声を掛けると、
背後から低い声が返ってきた。
「ただいまです」
少しの沈黙の後、
「高宮さん」
「ん?」
「どんなアプローチされたんですか?」
「ルシアンって人に」
咲也は目を瞬く。
眠気の残る頭で、バーでの会話を思い出した。
黒崎とそんな話をした。
具体的なことまでは話していない。
ロビーであったことはもう思い出したくもないし、余計な心配もさせたくない。
「いや、別に何もなかった……」
そう言って誤魔化して、
このまま寝てしまおうと思った。
直後。
首筋へ柔らかな感触が落ちる。
くすぐったいなと、
ぼんやり思っていると。
次の瞬間、強く吸い付かれた。
「っ……!」
びくんと震える。
思わず肩が跳ねた。
一気に目が覚める。
驚いて振り解こうとするが、湊の両腕はがっちりと咲也の体を掴んでびくともしない。
逃げられない。
再び首筋へ吐息が落ちた。
熱い。
ぞくりと背筋が震える。
「や、やめ……」
力が抜けていく。
「正直に、言ってくれたらやめますよ」
耳元で囁かれる。
耳朶に触れる吐息に震える。
身体の奥が熱を帯びる。
これ以上はまずい。
「蒼井くん!」
思った以上に大声が出た。
「はい」
「俺、明日仕事!」
頭の片隅は妙に冷静なのに、声にはまるで余裕がない。
だからもう寝ようと続けようとしたが、
「遅番ですよね」
すぐに返される。
「時間はまだありますよね」
落ち着いた声なのに、全然安心できない。
口を開きかけた、その瞬間。
首筋へ、再び口づけが落とされる。
何度も優しく、甘く。
首筋から背筋へ、甘い痺れが走る。
「やっぱり首、弱いですよね。咲也さん……」
囁きとともに、熱い吐息が首筋を撫でる。
「あ……っ」
咲也はたまらず身震いした。
理性が溶けそうだった。
強くシーツを握り込む。
だが、やり過ごせない。
ーー限界だ!
「手にキスされた!」
「口説かれた!」
やけくそのように叫んだ。
ぴたりと動きが止まった。
密着していた湊の熱が遠ざかる。
ほっと息をつき、
乱れた息を整える。
しかし安心したのも束の間だった。
ぐい、と身体を引かれる。
次の瞬間には仰向けになっていた。
「蒼井くん?」
呆然と見上げる。
湊が至近距離から見下ろしていた。
息が止まる。
切実な目。
その顔は、思った以上に真剣だった。
手首を取られる。
その手つきはどこか丁寧で、恭しい。
そして。
手の甲へ唇が落ちた。
右手。
続いて左手。
優しいキスだった。
覚えがある。
バーで清吾が咲也に抱きついてきた日の夜。
ベッドで湊が抱きついてきた。
上書き、と湊は言っていた。
「ああ……」
思わず苦笑する。
「やきもちか」
湊は否定しなかった。
ただ真っ直ぐ見つめてくる。
「悪かった」
咲也は小さく息を吐く。
「余計なこと言うと心配させると思って」
「あの人のそれは、今に始まったことじゃないんだよ」
「昔からだよ」
「遊びみたいなものだから」
しかし湊は首を振った。
「いいえ」
「僕の愛しい人は、誰より魅力的だから」
静かな声だった。
「僕は不安で仕方ありません」
咲也は目を細める。
「それを言うなら俺の方だよ」
「君は若いし」
「綺麗だし」
「その気になれば、俺なんかよりいい相手がいくらでも……」
「いません」
間髪入れずに返ってくる。
「僕が好きなのは咲也さんだけです」
迷いのない目。
だから咲也も笑う。
「俺も君だけだよ」
そう言ってから。
少しだけ視線を逸らした。
「だけどさ」
「……はい」
「君はさ」
ためらうが、思い切って口にする。
「いつ襲ってくれるんだよ」
湊が固まった。
「え?」
「前に言ったじゃないか」
咲也は湊を見つめた。
「俺のこと、襲うって」
しばらくうちに来ないかと、湊に言った時に。
ーー「一緒にいたら」
ーー「……襲いますよ。高宮さんのこと」
「……言いましたね」
湊が頷く。
咲也は構わず続ける。
「だけど、君は一向にそんな様子ないし」
咲也は視線を逸らす。
ーー今のだって、結局キス止まりだったし……
しかも尋問だったし。
「……俺に魅力がないのかと思うだろ」
自分で言っていて恥ずかしい。
けれど本音だった。
両腕を伸ばす。
湊の首へ回す。
そのまま引き寄せた。
ぎゅっと抱き締める。
密着した身体から、驚くほど速い鼓動が伝わってきた。
自分のものではない。
湊の鼓動だ。
「……蒼井くん」
湊の耳元で囁く。
「……で、続きは?」
返事はない。
ただ肩がぴくりと震えた。
しばらくして、小さな声が落ちてくる。
「高宮さん、明日仕事ですよね?」
咲也は目を瞬く。
さっき、自分が口にした言葉だった。
思わず笑う。
「遅番だから、まだ時間はあるぞ」
湊の身体が固まった。
「すみません」
「僕の負けです」
それだけ言って、
湊は咲也を強く抱き締め返した。
まるで離したくないと言うように。
力が抜ける。
咲也は小さく笑った。
何に負けたのかは分からない。
けれど。
その腕の強さだけで十分だった。
⸻
目を覚ます。
窓から朝日が差し込んでいた。
天井を見上げる。
結局あの後、2人してそのまま寝てしまった。
思わず苦笑する。
隣では湊が眠っている。
穏やかな寝顔。
前髪を優しくかき上げる。
そのまま身をかがめ、湊の耳元へ顔を寄せた。
「いつになったら襲ってくれるんだよ。君は」
そっと囁く。
身体越しに伝わってきた鼓動の速さを思い出した。
ーーまあいいか。
くすりと笑う。
ーー少なくとも、そういう対象として見てもらえてるってことだよな。
それだけでも十分だ。
⸻
「さて」
「飯でも作るか」
咲也は、ベッドを抜け出す。
キッチンへ向かう。
扉が閉まる。
静かな部屋。
湊は目を開いた。
「……参りました」
小さく呟き、腕で目元を覆う。
顔が熱い。
完敗だった。
事情聴取を始めた湊でしたが、最終的に一本取られたようです。
なお翌朝もダメージは継続していました。




