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第90話 静かな予兆

いつもお読みいただきありがとうございます。


今回は少しだけ視点を変えて、和葉のお話です。



橘警備。


会議室。


午前。


昨日の打ち合わせ資料が机に広げられていた。


和葉は館内図へ視線を落とす。


「ホテル側との連携は問題なさそうですね」


「そうだな」


橘が短く答える。


「スタッフも理解が早かった」


「そうですね」


和葉も同意した。


動揺したような咲也の顔を思い浮かべる。


あそこまで驚かれるとは思っていなかった。


思い出して、思わず口元が緩む。


「どうした」


橘が怪訝そうな顔をする。


「いえ。なんでもありません」


和葉は首を振った。


「来月までに人員配置を固める」


「はい」


「それまでに、何度か現場を確認して……」


その時だった。


電子音が鳴る。


応接机の電話だった。


橘が受話器を取り、耳に当てる。


いくつかやり取りをしてから、


「はい。代わりました。橘です」


いつもの落ち着いた声。


しかし。


数秒後。


表情が変わった。


「……は?」


和葉が顔を上げる。


「分かりました」


短く返事をして電話を切る。


そして。


「支度しろ、和葉」


「はい?」


「レガリア・アストラへ行く」


和葉が目を瞬く。


「どういうことですか」


橘は額を押さえた。


珍しい仕草だった。


「ルシアン・ヴェルナーが来日した」


和葉が固まる。


「来月では?」


――昨日、打ち合わせしたばかりだが。


「俺もそう思う」


橘がため息を吐く。


「単身だそうだ」


和葉は言葉を失った。


単身。


護衛なし。


秘書なし。


予定変更の連絡なし。


何一つ聞いていない。


「……どうやら自由な人らしいな」


橘はジャケットを羽織る。


「ノンアポで来たそうだ」


「そんなことがありますか」


世界的なVIPが。


「あるから今こうなってる」


橘が言う。


「文句を言っても仕方がない。現実を見ろ」


和葉は黙った。


反論できない。


「とにかく急なことすぎて、人員が足りん」


橘が腕時計を確認する。


「俺たちだけで行く」


「はい」


和葉も立ち上がる。


必要な資料をまとめる。


その時。


ぽつりと。


言葉が漏れた。


「こんな時、『裏』がいてくれたら」


もっと早く事態を知り、


素早く対応できたかもしれないのに。


「和葉」


低い声。


和葉は顔を上げる。


「その話はするな」


感情のない橘の顔。


「……はい」


「『裏』はもういない」


橘が言う。


「蒼井も『表』へ出るべきだ」


「そう決めたはずだ」


和葉は頷いた。


その通りだ。


二年前。


湊が家を出た後、司家も蒼井を離れた。


それは蒼井の『裏』。


そのほとんどを失ったと同義だった。


本家はそれでも裏方で支えていた。


しかし限界は近い。


だから変わる。


蒼井も。


表へ。


そのために。


和葉は蒼井の『表』――橘警備にいる。


自分で決めたことだ。


迷いはない。


そう思う。


思うのだが。


説明できない違和感だけが残る。


「行くぞ」


橘が扉を開ける。


「はい」


和葉は返事をした。


それでも胸の奥のざわつきは消えなかった。


まるで。


何か大切なものを置いてきてしまったような。


そんな感覚だけが残っていた。

予定とは、時々あてにならないものですね。


次回はレガリア・アストラです。

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