第86話 消えないもの
和葉が来た日の夜。
Bar Havenでのお話です。
Bar Haven。
夜。
ひとしきり客足も落ち着き、店内には静かなジャズが流れていた。
グラスの氷が小さく音を立てる。
咲也はカウンター席で、ウイスキーをゆっくりと口に含んだ。
「蒼井くん」
「はい」
湊が顔を上げる。
「今日、和葉くんが来たよ」
湊の動きがわずかに止まった。
「和葉が?」
「ああ」
咲也は頷く。
「前に言ってたろ。今度仕事でくるって」
「その関係でホテルに来てた」
「そうですか」
和葉は、兄に聞けと言っていた。
咲也は少し考えてから続ける。
「合気道道場の跡継ぎって聞いてたからさ、ちょっと驚いたよ」
「警備の仕事もするんだな」
湊は少しだけ目を伏せた。
「……関わることはあります」
「関わる?」
「ええ。警備会社に勤めるお弟子さんもいますし、その繋がりですね」
湊の言葉に嘘はない。
けれど、すべてを話しているわけでもない。
そんな気がした。
ならば、今は踏み込まない方がいい。
「そうか」
咲也はそれ以上聞かなかった。
静かにグラスを傾けた。
しばらくして。
グラスに残っていた最後の一口を飲み干し、咲也は静かに席を立った。
ドアベルが小さく鳴り、店内は再び静けさに包まれた。
湊はグラスを磨き始める。
その様子を見ていたマスターが、小さく口を開いた。
「蒼井」
「はい」
「本当のこと、言った方がいいぞ」
グラスを拭く手が止まる。
「今じゃなくてもいいから……高宮さんには言っておいた方がいい」
「でも、僕はもう家を離れた身です」
マスターは穏やかな声で続けた。
「それでもだよ」
「お前は蒼井を離れた身でも」
「今のお前を作ったのは蒼井だろう」
「それは消えないよ」
マスターは静かに目を伏せた。
「お前も……僕もね」
湊は黙ったまま視線を落とす。
静かな時間が流れた。
「文人くんも言ってたろう」
「巻き込まれるかもしれないって」
マスターは磨き終えたグラスを静かに棚へ戻した。
「高宮さんだって、例外じゃないかもしれないぞ」
その言葉が胸に刺さる。
湊はゆっくりと目を閉じた。
咲也の穏やかな笑顔が浮かぶ。
知らないままでは迷惑をかけるかもしれない。
でも、話せばきっと巻き込んでしまう。
ずっと、その狭間で迷っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……分かりました」
静かな声だった。
「いつか……話します」
マスターは何も言わなかった。
ただ、小さく頷くだけだった。
店内には、グラスを磨く音だけが静かに響いていた。
自戒を込めたマスターの言葉が、湊の心を少し動かしたようです。




