第69話 おかえり
「おかえり」
たった一言なのに、不思議と心が温かくなる言葉ですよね。
今回は、そんな何気ない夜のお話です
深夜。
仕事を終えた湊は、静かな夜道を歩いていた。
食べたいもの。
そんなことを聞かれたのは、随分と昔のことだ。
『湊、今日何食べたい?』
『オムライス』
『ふふ。湊はオムライスが好きね』
母が笑いながら、そっと頭に手を置く。
その温かな手が好きだった。
懐かしい思い出。
今日の晩ご飯は、何だろう。
――じゃあ、何が出てきても文句言うなよ。
耳まで赤くしていた咲也の顔が浮かぶ。
思わず、くすりと笑った。
可愛い人だな。
そんなことを言ったら、きっと顔を真っ赤にしながら怒られるだろう。
自然と足取りが軽くなる。
⸻
音を立てないよう、ゆっくりと玄関の扉を開ける。
もう咲也は寝ているだろうと思っていた。
しかし、居間には明かりが灯っていた。
ソファに、見慣れた人影があった。
湊は目を瞬かせた。
「……高宮さん?」
ソファに座ったまま眠っていた咲也が、湊の声にゆっくりと目を開ける。
「ああ。おかえり、蒼井くん」
ふわりと笑う。
その笑顔に、胸が高鳴った。
いつもかけてくれるその言葉が、なんだかくすぐったかった。
「どうしたんですか?
明日も仕事でしょう?」
いつもなら先に夕食を済ませて眠っている時間だ。
「ん。今日は君と一緒に食べたくてね。
俺、明日は遅番だから、時間もあるし」
そう言って立ち上がる。
腕まくりをしながら、小さくあくびを噛み殺した。
「風呂行って来な。沸いてるから。飯作っとく」
「いや、僕も手伝いますよ」
「いいから、いいから」
背中を軽く押され、そのまま風呂場へ追いやられる。
「……はい」
こうなったら譲ってはもらえなそうだ。湊は諦めて風呂へ向かった。
⸻
湯船に身を沈める。
今日の咲也は、少しだけ様子がおかしかった。
食べたいものを聞いてきたり。
帰ってくるのを待ってくれて、一緒に食べたいと言ったり。
それは、素直に嬉しい。
だけど、無理をさせていないだろうか。
和葉のことで、気を遣わせてしまったのかもしれない。
ぱしゃり、と湯をすくって顔にかける。
あんなことを言うつもりはなかったのに。
父のことになると、どうしても感情を上手く制御できなくなる。
まだまだ修行が足りないな。
小さく息を吐いた。
⸻
風呂から上がると、食欲をくすぐる香りが漂ってきた。
「上がったか」
咲也がグラスに入った水を差し出す。
「ありがとうございます」
受け取って、一口飲む。
冷たい水が喉を心地よく潤した。
食卓へ目を向ける。
そこに並んでいたものを見て、思わず足を止めた。
「……オムライス」
「ああ。前に作った時、君が喜んでくれたからさ」
双子の家で久しぶりに食べて、思わず涙がこぼれた料理。
母の味。
『湊はオムライスが好きね』
あの日の声が、優しく蘇る。
自然と俯いた。
「あ、文句は受け付けないからな。何でもいいって言ったのは君だから」
咲也が焦ったように言う。
「……まあ、この時間には少し重かったかなとは思ったんだけど」
最後の方は、少しだけ自信なさそうだった。
それが妙におかしくて。
湊はふっと笑った。
「ありがとうございます」
顔を上げる。
「一番食べたかったものです」
咲也は湊を見つめ、穏やかに笑う。
「そうか」
短く答える。
「良かった」
その笑顔を見ているだけで、胸が温かくなった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は事件もなく、ただ二人が一緒にご飯を食べるだけのお話でした。
でも、こういう何気ない日常を積み重ねられるようになったことが、二人にとっては大きな変化なのかもしれません。




