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第64話 君の事が

いつもありがとうございます。


今夜は少しだけ、兄弟のお話です。


どうぞお付き合いください。




夜も遅い時間だった。


ロビーには人影もまばらで、

柔らかな照明だけが静かに空間を照らしている。


咲也はラウンジで足を止めた。


ソファの一つに、

和葉が座っていた。


俯いている。


静かに近づく。


気配に気付いたのか、

和葉が顔を上げた。


そして。


咲也は小さく息を呑む。


その顔はわずかに歪んでいた。


泣くのを堪えているように見える。


「あ……」


和葉が慌てたように姿勢を正した。


「すいません」


小さく頭を下げる。


「先ほどは身内の話で、お邪魔してしまいました」


「いえ」


咲也は首を振った。


少し言葉を選ぶ。


「蒼井くんは……私の大切な……友人なので」


自分で口にして、

咲也は小さく息を吐いた。


そう。


とても大切な。


和葉が目を瞬く。


それから少しだけ笑った。


「そうですか」


静かな声だった。


しばらく沈黙が落ちる。


先に口を開いたのは和葉だった。


「兄は二年前、家を出たんです」


俯きながらポツポツと話し始める。


「僕達の家、合気道の小さな道場なんですけど」


「変に長く続いているだけに、色々あって」


そこで言葉を切った。


「兄が出て行った理由は、跡取りで揉めないようにするためだって、すぐ分かりました」


咲也は黙って聞く。


「昔からそうなんです」


和葉が呟く。


「兄さんは諦めるのがうまくて」


「なんでも僕に譲ってばかりでした」

小さく口角が上がる。


寂しそうな笑顔だった。


「でも」


少しだけ声が震えた。


「合気道は好きだったから」


「それだけは諦めないと思ってたのに」


咲也はふと思い出す。


以前。


湊と合気道の話をした時のことを。



「……好きだったんだな」


湊は驚いたように目を瞬かせた。


しばらく黙っていたが、

やがて小さく笑う。


「ええ」


「そうですね」


泣き笑いのような顔だった。



あの時の湊の顔を、思い浮かべながら言う。

「多分」


咲也は静かに言った。


「それだけ大事だったんじゃないかな」


和葉が顔を上げる。


その目を見つめながら言う。


「君の事が」


和葉の目が見開かれる。


言葉が出ないようだった。


やがて。


ゆっくりと俯く。


肩が小さく震えた。


咲也は何も言わない。


ただ。


そっと背中へ手を置いた。


声を殺して肩を震わせる青年の背を、

静かに撫でる。


ラウンジには再び静寂が戻る。


柔らかな灯りだけが、

二人を静かに照らしていた。


読んでくださりありがとうございました。


和葉はずっと、兄が大切なものを諦めたと思っていました。


けれど、本当に大切だったからこそ手放したものもあるのかもしれません。


また次回もよろしくお願いします。

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