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第60話 今日はやめておきます

ホテル探検回です。


夕方。


勤務を終えた咲也は、スーツに着替えてロビーへ出た。


ふと足を止める。


館内案内図の前。


昼間チェックインした青年が立っていた。


高岡和葉。


真剣な顔で案内図を見上げている。


「こんばんは。高岡様」


思わず声を掛ける。


驚いたように和葉が振り返った。


「あ」


少しホッとしたような顔で


「こんばんは」


律儀に頭を下げる。


咲也は思わず笑った。


「何かお探しですか?」


和葉は少し困ったように案内図へ視線を戻した。


「実は」


言葉を探す。


「ホテルの施設を見たいんですが」


案内図を見上げる。


「思ったより広くて」


苦笑する。


「どこから見れば良いのか分からなくて」


なるほど。


咲也は小さく頷いた。


なんだか放っておけない。


「よろしければご案内しましょうか?」


和葉が目を丸くする。


「良いんですか?」


「ええ」


咲也が笑う。


「ちょうど勤務も終わりましたので」


和葉が少し恐縮したように眉を下げた。


「すみません。お仕事終わりなのに、お手間を取らせてしまって」


「気になさらないでください。私がやりたいだけなので」


そう言うと、和葉も安心したように笑った。




最初に案内したのはラウンジだった。


大きな窓。


柔らかな照明。


深く腰掛けられるソファが並んでいる。


窓際では年配の夫婦がコーヒーを飲みながら話していた。


離れた席では女性が一人、本を読んでいる。


和葉はゆっくりと周囲を見回した。


「落ち着きますね」


「私もそう思います」


咲也が答える。


和葉はコーヒーを飲む夫婦へ視線を向けた。


「皆さん、くつろいでますね」


「そうですね」


「ホテルってもっとかしこまった場所だと思っていました。

おしゃれで、ちょっと僕には行きづらい感じがあったんですけど」


少し照れたように笑う。


「でも、ここはなんだか安心します。お家みたいですね」


「ありがとうございます」


そう言ってもらえるのは嬉しかった。


笑って礼を言うと、何故か和葉の顔が真っ赤になった。




次に案内したのはレストランだった。


レストランからは料理の香りが漂ってくる。


ちょうど夕食の準備中だった。


スタッフたちがテーブルを整えている。


グラスを確認する者。


メニューを並べる者。


それぞれ忙しそうに動いていた。


けれど不思議と慌ただしさは感じない。


和葉はしばらくその様子を見ていた。


「忙しそうですね」


「そうですね」


「でも、皆さん楽しそうです」


咲也は少し意外に思った。


「そう見えますか」


「ええ」


和葉はスタッフたちへ視線を向けたまま言う。


「忙しい時って、余裕がなくなるものだと思っていたので」


「落ち着いていて、むしろ楽しそうに見えます」


咲也は少し考え、改めてスタッフたちへ目を向けた。

忙しさに追われてはいるが、その表情はどこか明るい。

頷いた。

「そう言われると、そうかもしれませんね」


「今の仕事クビになったら、ここで働かせてもらうのも悪くないですね」

クスリと笑いながら言う和葉に、


「ご冗談を」

笑って返した。




和葉は何にでも興味を示した。


質問も多い。


けれど節度をわきまえた範囲で。


真面目に話を聞いている。


仕事柄なのだろうか。


そう思う。


「ホテルのお仕事は長いんですか?」


和葉が聞いた。


「まだそれほどでも」


咲也は笑う。


「元々別の仕事をしていましたので」


「そうなんですね」


和葉は頷いた。


無理に踏み込もうとはしない。


そういうところに好感が持てた。





やがて屋上庭園へ出る。


夕暮れ。


風が心地良い。


街の灯りが少しずつ増えていく。


和葉は足を止めた。


「素敵な眺めですね」


咲也も頷く。


「そうですね」


しばらく二人で景色を眺めた。


屋上庭園の一角にはバラの花壇があった。


まだ蕾が多い。


開花まではもう少し先だろう。


和葉は足を止めた。


「蕾がたくさんありますね」


花壇に屈んで覗き込む。


「咲いたら綺麗なんでしょうね」


「ええ」


咲也は頷いた。


「見頃になると結構人気なんですよ」


「そうなんですか」


和葉が笑う。


「楽しみです」


無邪気な笑顔が眩しいと思った。




館内を一通り回り、


最後に二階へ上がる。


静かな廊下。


奥に小さな灯り。


咲也はそちらを示した。


「こちらがバーです」


和葉の視線が向く。


看板。


Bar Haven。


その瞬間。


ほんのわずか。


和葉の表情が揺れた気がした。


けれど。


一瞬だった。


「ご利用になりますか?」


咲也が聞く。


和葉は看板を見つめる。


少しだけ。


本当に少しだけ。


迷うように。


それから小さく笑った。


「いえ」


首を振る。


「今日はやめておきます」


「そうですか」


咲也はそれ以上聞かなかった。




一通り見た後、


ロビーへ戻ってきた。


「案内ありがとうございました」


和葉が頭を下げる。


「いえ」


咲也も軽く会釈した。


「お役に立てたなら良かったです」


和葉が笑う。


「はい」


それから少しだけ照れたように言った。


「良いホテルですね」


咲也は目を細めた。


「ありがとうございます」


「どうぞごゆっくりなさってくださいね」


「じゃあ、私はこれで」


和葉に別れを告げると、


咲也はいつものようにエレベーターへ向かった。


扉が開く。


軽く会釈をして乗り込む。


扉が閉まる。





エレベーターの階数表示が、


ゆっくりと変わる。


2。


そこで止まった。


Bar Havenのある階だった。


和葉は小さく息を吐く。


自然と視線が二階へ向く。


けれど、


ここからバーの様子は見えない。


しばらくそのまま立ち尽くす。


そして。


「……今日はやめておきます」


誰に向けた言葉でもない。


和葉は静かに踵を返した。



お読みいただきありがとうございました。

今日はここまで。

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