第55 名前を聞いた夜
いつも読んでくださりありがとうございます。
今回は、Bar Havenに“ある人物”が訪れる夜のお話です。
静かな夜の中で、
少しずつ過去の気配が近づいてきます。
よろしくお願いします。
Bar Haven。
静かな夜。
グラスの音だけが、
小さく響いている。
⸻
扉が開く。
「いらっしゃいませ」
湊の声。
一人の女性が入ってくる。
落ち着いた足取り。
無駄のない動き。
年齢は五十代ほどだろうか。
無駄のない、濃紺のセットアップ。
派手さはない。
けれど、
目を引く。
整った横顔。
静かに通る視線。
立っているだけで、
空気が整う。
やわらかな輪郭は、
どこか異国の気配を残している。
けれど、
視線は鋭い。
店内を一度見渡す。
カウンターへ。
自然に腰を下ろした。
手にしていた紙袋を、
隣の席へそっと置く。
「こんばんは」
低く、穏やかな声。
「こんばんは」
マスターが返す。
それだけで、
会話は成立していた。
グラスが置かれる。
「久しぶりだね」
「ええ。この間はごめんなさいね。欠席しちゃって。
息子と大喧嘩しちゃったの」
「コウちゃんから聞いたよ。
なかなか激しかったみたいだね」
「久しぶりに全力出したわ」
女性はカウンターへ肘をつき、両手に顎を乗せた。
ふふ、と笑う。
目元も自然と柔らかくなる。空気が和む。
「今度また一緒にお邪魔するわね。主人と」
「待ってるよ」
マスターが微笑む。
ふと、
その視線が隣の湊へ移った。
「あなたが蒼井さん?」
「はい」
「初めまして。
黒崎綾乃です。主人がいつもお世話になってます」
静かに頭を下げる。
湊も姿勢を正した。
「初めまして。蒼井湊です。
こちらこそ、黒崎支配人にはいつもお世話になってます」
綾乃は小さく笑った。
「ごめんなさいね。
主人、蒼井さんのこと構うでしょ」
「え……そんなことは」
湊が言いかけて、
少し黙る。
この間の“恋煩い”を思い出した。
沈黙する湊に困ったように笑う。
「やっぱりね。蒼井さんみたいな若くて素直な子構うの大好きだから、あの人。
適当に流してね」
「そこは大丈夫よ、綾乃ちゃん」
マスターが笑う。
「この子さ。
俺にもこうちゃんにも、
結構手厳しいから」
「ちょっと、マスター」
何を言い出すのか、声を上げて静止するが、
「ふふ 頼もしいわね」
綾乃が笑う。
⸻
少し遅れて、
扉がもう一度開く。
「いらっしゃいませ」
入ってきた客に目をやる。
咲也だった。
「……高宮さん。お疲れ様です」
声をかける。
「ああ。蒼井くん。お疲れ様」
手を上げて答えると
咲也は、いつもの席へ向かいかけて。
ふと、
綾乃と視線が合った。
綾乃が、
すうっと目を細める。
咲也は軽くお辞儀をした。
綾乃も小さく頷く。
咲也がいつもの席に着くと。
「いつもありがとう」
「主人もよく言ってるわ。
とても助かっているって」
頬杖をついて微笑む。
鋭い視線がふっと和らぐ。
咲也の表情も、つられるように自然と綻んだ。
「……ありがとうございます」
湊は、
そのやり取りを静かに見ていた。
マスターが、
グラスを拭きながら少し笑う。
「へえ。
顔見知りなんだね」
「綾乃ちゃん、あんまり表に出てこないのに」
咲也は照れくさそうに頬をかいた。
「……黒崎オーナーには直接、面接してもらったので」
「ああ、そうだったんだ」
「ええ。
あの時は助けてもらいました。
感謝しています」
頭を下げる。
綾乃は静かにグラスを傾ける。
微笑む。
「ふふ。お互い様よ」
それから。
「それに今度はこちらが助けられたわ」
咲也は顔を上げて、怪訝そうな顔をした。
「今日はそのお礼に来たの」
綾乃は、
隣へ置いていた紙袋を手に取る。
「高宮さんも揃ったし、ちょうどよかった」
中から、
上品な白い箱を取り出した。
銀の箔押しだけが入った、
控えめな包装。
「フルーツゼリー。良かったら皆さんで食べてください」
マスター、
湊、
そして咲也へ視線を向ける。
「うちの息子がお世話になったそうで。ありがとうございます」
深く頭を下げた。
咲也が慌てる。
「頭上げてください。
それに息子さんなんて、俺、知らないですよ」
「ふふ。この間、ほっぺた腫らした大男が来なかったかしら」
「ああ……」
湊は、そこでようやく気づく。
そういえば、
彼も“黒崎”だった。
マスターを見る。
目が合う。
何食わぬ顔で、
小さくウィンクした。
マスターは、
分かっていたらしい。
「ウチの放蕩息子がお世話になりました」
綾乃が小さく笑う。
「特に高宮さんには説教されたって。
”私が二人いるみたいだった”って言われましたよ」
マスターが吹き出した。
「綾乃ちゃんが二人か。
確かに高宮さん、面倒見いいからねえ」
咲也は複雑な顔をする。
綾乃は楽しそうだった。
「おかげで最近はちゃんと連絡もくれますし、この間は買い物にも付き合ってくれたの。
いい荷物持ちだったわ」
思い出したのか、
くすくす笑う。
「だからお礼。受け取ってちょうだい」
「懲りずに付き合ってあげてくださいね」
「……いえ。こちらこそ」
咲也は困ったように頭を掻いた。
その時。
綾乃が、
ふっと表情を変えた。
柔らかかった雰囲気が緊張をはらむ。
「あと、これは別件なのだけれど」
「ルシアンが来るから、気をつけるように」
咲也の動きが止まった。
「野球チームとしてなら利用は断れるのだけど、個人利用と言われるとね」
綾乃が小さくため息をつく。
「……ま、気をつけて」
綾乃がグラスを傾ける。
氷が小さく鳴った。
「あなた、お気に入りだったでしょう」
「何かあったら、すぐ主人に連絡してちょうだい」
「分かりました」
頷いた咲也の顔が、
ほんの少しだけ強張っているように見えた。
湊は、
その顔を静かに見ている。
ルシアン。
どこかで聞いたことがあるような。
しかし、思い出せなかった。
けれど。
その名を聞いた瞬間
咲也の空気が、
変わったのは確かだった。
綾乃はグラスを置く。
次の瞬間、綾乃の視線が鋭くなる。
「……あいつは面倒なのよ。
昔からね」
静かな声だった。
「本当に厄介」
グラスの氷が、
小さく鳴る。
咲也は黙ったまま、
グラスを見ている。
⸻
Bar Havenの夜は、
いつも通り静かだった。
けれど。
まだ見えない何かが、
少しずつ近づいてきているようだった。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
今回は綾乃初登場回でした。
静かな人ほど怖いし、強い気がします。
そして少しずつ、
第二部の空気も動き始めています。
感想などいただけると嬉しいです。




