第35話 顔がやわらかい
雨の日の、少し遅い昼休憩の話です。
珍しいことに
ロビーの慌ただしさは午前から始まり、
休憩に入れたのは午後2時を過ぎてからだった。
これからチェックインのピークだというのに。
手早く食事を済ませたいところだが……
あいにくと、今日は雨だった。
屋上庭園は使えない。
バックヤードの休憩スペースも珍しく埋まっていて、
咲也は小さく息をついた。
地下の従業員食堂。
昼のピークはとっくに過ぎている。
広い食堂は、がらんとしていた。
食堂のおばちゃんが、カウンターを拭きながら顔を上げた。
「あら、咲也ちゃん」
「なんだか久しぶりね」
「こんにちは、陽子さん」
食堂のおばちゃんーー里中陽子は、五十代半ばくらいだろうか。
皆、里中さんと言うよりも、陽子さんと呼んでいる。
丸みのある柔らかな雰囲気の女性だった。
髪はゆるくまとめられていて、
いつも清潔なエプロン姿。
笑うと目尻に深い皺が寄る。
その顔を見ると、
なぜだか少し安心してしまう。
「すいません」
「今日は社食じゃなくて……」
バッグを軽く持ち上げる。
「隅で弁当食べさせてもらっていいですか」
「あら、お弁当?」
目が細まる。
「いいわよぉ」
陽子は空いている席へ視線を向ける。
「好きなところ座ってね」
咲也は席に着く。
「はい、味噌汁」
湯気の立つ椀が、当然みたいに置かれる。
「……すいません。何も頼んでないのに」
「いいのよ、余り物だから」
即答。
絶対違う。
この人は昔から、
こうして“余り物”と言いながら、
一品サービスしてくれるのだ。
礼を言い
バッグからタッパーを取り出す。
蓋を開ける。
白飯に、ほぐした焼き鮭。
卵焼き。
唐揚げ。
ブロッコリーに、
ミニトマト。
素朴な弁当。
それなのに。
「あらまあ」
陽子が、目を細める。
「そうだったのねえ、咲也ちゃん」
「……何がです?」
さりげなく湯呑みを置きながら、陽子が笑う。
「好きな人できたのね」
危うく箸を落としかける。
「……は?」
「なんか、雰囲気柔らかいもの」
「そうやって、前よりちゃんとご飯食べるし」
「お弁当なんか持ってきちゃって」
「違います」
反射的に返す。
「へえ」
陽子が面白そうに笑う。
「違うの?」
「……違わなくは、ないですけど」
言ってから、しまったと思った。
陽子の目が輝く。
「あらー!」
「いいじゃない!」
「どんな子!?」
「いや、そういうんじゃ……」
「どんな女性?ホテルの人?」
立て続けの質問に気圧される。
「いや、その……」
まいった。
ホテルの人、と言えばそうだが。
同性だし、言い過ぎると湊にも迷惑がかかる。
陽子の鋭さに動揺するあまり、
しどろもどろしているとーー
「あ、女性じゃないって事もあるわよね」
ぶふっと咳き込む。
「あら。もしかして図星だったの?」
「違……」
否定しきれない。
言葉に詰まる。
陽子はそれ以上は追及せず微笑む。
「ふふ。よかったねえ」
やわらかい声。
「咲也ちゃん、ずっと頑張りすぎだったから」
思わず、言葉が止まる。
「ちゃんとご飯作ってくれる子なんでしょ?」
「……いや、作ってるのは俺です」
「あら」
しまった。
また余計なことを言ってしまった。
陽子は、一瞬きょとんとして、
それから、ころころと笑った。
「じゃあ、好きな子に作ってあげてるんだ」
「いいわねえ」
陽子は、しみじみと頷いた。
「愛だわねえ」
頭を抱えたくなる。
「なんで、そんなに分かるんですか」
恐るべき洞察力だ。
この人はエスパーか何かなのだろうか。
「分かるわよぉ」
「好きな人できると、人って顔変わるものねえ」
そういうものなのか。
よく分からない。
でも。
弁当の中の卵焼きを見る。
朝、
少し眠そうな顔で、
「いってらっしゃい」と笑った人を思い出す。
口元が、わずかに緩む。
「あ、今また顔やわらかくなった」
「やめてください……」
堪えきれず、咲也は片手で顔を覆った。
ここまでお読み頂きありがとうございます。
社食のおばちゃんは、
名探偵並みに鋭いです。
感想など頂けると嬉しいです




