第34話 少し違う味
少しずつ、食卓が当たり前になっていく話です。
しまった
うつらうつらしていた意識が、急浮上する。
今日は早番。
普段より出勤時間が早い。
時計を見る。
遅刻する。
ベッドから飛び起きる。
顔を洗う。
水の冷たさで、意識がはっきりする。
手早く着替え、身支度を整える。
その途中で、ふと足が止まる。
冷蔵庫。
開ける。
ラップに包まれた、おにぎり。
海苔は別にしてある。
その横。
小さなタッパー。
浅漬け。
少しだけ見つめる。
それから、手に取る。
そのまま、バッグに入れる。
「行ってきます」
小さく呟く。
返事は、ない。
それでも、不思議と気持ちはやわらいでいた。
⸻
店に着く。
まだ営業前。
ほっとする。
間に合った。
静かな店内。
まだ食べる時間はありそうだ。
おにぎりを電子レンジに入れる。
チン、と小気味いい音。
取り出す。
ラップを外す。
別で包まれた海苔を巻く。
ぱり、と小さな音。
具は、
鮭。
おかか。
それから、スクランブルエッグ。
バターの香りに、ほんの少しの醤油。
やわらかい。
思ったより、合う。
もぐもぐと食べる。
タッパーの蓋を開ける。
浅漬け。
一口。
あっさりした塩味と、白菜の食感。
素直に、美味しいと思った。
⸻
「お。珍しいな。何食べてんの、蒼井」
顔を上げる。
マスターが、ひょこっと顔を覗かせていた。
「おー、うまそうじゃん」
視線が、おにぎりに落ちる。
「それ、手作り?」
「そうですけど」
「ふーん」
さらに視線がずれる。
「漬物までついてるの?」
軽く笑う。
「もしかしてそれ、高宮さんか?」
食べながらうなづく。
「はは。すごいなあ。お母さんじゃん」
わずかに首を傾げる。
マスターが笑う。
「まあ、愛されてるってことだな」
「愛、ですか?」
よく分からない。
「だろう? 世話焼いて、飯作って、持たせて」
肩をすくめる。
「それ、もう答え出てるだろ」
言われたことを頭の中で反芻する。
——それって、つまり。
「……え」
「今さら」
少しだけ呆れたように言う。
「ほんと、自分のことになると鈍いよな、お前」
「まあ、お前みたいな鈍ちんは、せいぜい愛されなさいよ」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でる。
「やめてください」
我ながら力のない声。
払う手も弱くて、止めきれない。
「照れちゃってまあ、かわいいなあ」
マスターが朗らかに笑う。
もう何も言えず、
ただ顔の熱さを感じながら俯いた。
⸻
屋上庭園。
昼の光。
人影はまばら。
端のベンチに腰を下ろす。
弁当を開ける。
白飯に、おかか。
脇に、軽く割った焼き鮭とスクランブルエッグ。
それから、浅漬け。
一口。
風が抜ける。
少しだけ息を吐く。
「弁当か、懐かしいな」
顔を上げる。
神代が立っていた。
「あっちにいた頃、日本食が恋しいって言ったら、よく作ってくれたな」
顔を上げる。
「……何しに来た」
「おいおい。一応客だぞ、俺は」
苦笑し、肩をすくめる。
そのまま隣に腰を下ろす。
手が伸びる。
弁当の中の焼き鮭を、ひと口分つまむ。
「おい」
気にせず口に運ぶ。
一口。
「ああ」
「うまいな」
視線が落ちる。
「前に作ってくれたのと、同じ味だ」
「……いや、少し違うか」
一瞬、言葉が詰まる。
「お前に作ったんじゃない」
短く返す。
「分かってるよ」
「あの子にだろ」
言葉は返さない。
代わりに、わずかに頷いた。
神代の手が、肩を軽く叩く。
「大切にしろよ」
そのまま立ち上がる。
肩をすくめる。
「やっぱり、残念会してもらうかな」
ぽそりと呟く。
後ろ向きに、手を振る。
何も言わずに去っていく。
咲也も、遠ざかる背中を黙って見ていた。
ここまでお読み頂きありがとうございます。
おにぎりと浅漬けだけなのに、
たぶん湊にはかなり効いています。
そして神代は、やっぱりよく見ています。
感想など頂けると嬉しいです。




