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第16話 まだ、知らなかった

少しだけ、過去の話です。



それは、湊が働き始めた頃のことだった。


Bar Haven。


グラスを拭く湊に

女性客が、

小さな紙を差し出す。


「これ、私の連絡先」


湊は営業用の微笑みを浮かべたまま、それを受け取った。


女性客は、艶っぽく微笑むとゆっくりと余韻を残すように背を向けて出ていく。


扉の閉まる音。

静かな音楽が再び店内を満たす。


カウンターの向こうに、

客の姿はもうなかった。


「あー」

マスターがポリポリと頬をかきながら

「客と恋愛するなとは言わないが、深入りするなよ」


「お前さん、モテそうだからなあ」


湊は小さく首を傾げた。


「ああ。なるほど」


それから、

受け取った紙をゴミ箱へ落とす。


「申し訳ないですが、こちらから連絡することはないです」


「あら。ずいぶん思い切るねえ。

あの子、美人だったけど」


「いや。そもそも僕は――」


言いかけて、

少しだけ迷う。


それから。


「……いや。言っておいた方がいいですね」


静かな声。


「俺がそういう対象として見るのは、男性です」


マスターは「へえ」とだけ返した。


「だから、あの女性とどうにかなることはないです」


「そうなの?」


「ええ」


マスターのあっさりした反応に、

逆にこちらが拍子抜けする。


「まあでもさあ」


マスターがグラスを拭きながら言う。


「魅力的な男性客がいたら、とかないの?

そっちにもモテそうだし」


「綺麗だしなぁ、お前さん」


再び首を傾げる。


言っている意味がよくわからない。


「……そもそも、人を好きになったことがないので」


苦笑いが浮かぶ。


「今まで、そういうことになりそうなことはありましたけど」


少しだけ視線を落とした。


「諦めるのは得意なので」


「だから、大丈夫です」


マスターは何も言わない。


ただ、

グラスを置く。


湊は我慢しきれず、気になったことを聞いてみた。

「あの……同性愛に関しては驚かないんですか」


「うーん。別に」


マスターは肩をすくめる。


「人それぞれじゃないの」


「俺、気にしなーい」


あっけらかんとした声。


湊は少しだけ目を瞬いた。


「一応、それも家を出た理由なんですけど」


「ああ。もしかして後継ぎってこと?」


「ええ」


静かな声。


「子どもは作れないので」


少し間を置く。


「いらないでしょ。

こんな欠陥品、『家』には」


「そっか……」


次の瞬間。


ぐりぐりと頭を撫で回された。


「ちょっ……やめてください」


「お前に好きな人が見つかるといいな」


「聞いてました?」


「聞いてたよ」


マスターは笑う。


「だから言ってんの」


嫌がる湊に、

マスターは楽しそうに笑うばかりだった。



そんなことを、

ふと思い出す。


湊は小さく笑った。


――好きな人、できちゃいましたね。


まさか。


諦められないほど好きな人ができるなんて、

思ってもいなかった。


「おい、蒼井。こっち頼む」


「はい」


呼ばれて、

湊はマスターの方へと向かった。


ここまでお読み頂きありがとうございます。


まだ、今みたいになる前の湊の話でした。


感想など頂けると嬉しいです。

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