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第118話 渡せなかった指輪

今回は、夜の屋上庭園での咲也とルシアンのお話です。

いつもとは少し違う、静かなルシアンを。




午後九時五十分を回った頃。



客室への届け物を終えた咲也は、エレベーターホールへ向かっていた。



遅番の勤務も、あと一時間ほど。



このまま一階へ戻るつもりだった。



その時。



廊下の先から、田中が歩いてきた。



片手には鍵の束。



「田中さん、お疲れさまです」



「あ、高宮さん。お疲れさまです」



咲也は軽く会釈する。



田中は屋上庭園の方から戻ってきたところらしい。



けれど。



どこか様子がおかしい。



「どうしたんですか」



「いや……」



田中は一度、背後を振り返った。



それから。



少し迷ったようだったが、手にしていた鍵を咲也へ差し出した。



「高宮さん。すみません」



「はい?」



「屋上庭園、代わりに施錠してもらえませんか」



「え?」



咲也は鍵を見る。



「田中さん、今行ってきたんじゃないんですか」



「……入口までは」



田中が言葉を濁す。



「今日は、ちょっと。顔を合わせづらい人がいて……」


それ以上は聞かなかった。


真面目な彼が個人的な事情でそこまで言うのも珍しい。

裏を返せばそれほどまでに避けたいのだろう。


「分かりました」


咲也は鍵を受け取る。


「ありがとうございます」


田中がほっとしたように息を吐いた。


「施錠だけでいいです。照明は時間になれば落ちますから」


「分かりました」


田中はもう一度頭を下げる。

「本当にすいません」


「いいですよ。田中さんにはいつもお世話になってますから」


咲也はエレベーターホールを抜け、


屋上庭園の入口へ向かった。

ガラス扉の脇に、スーツ姿の男が一人立っていた。


見覚えのある顔。


胸元には、橘警備のバッジ。


アストラスイートでの会食の時に、ドアに立っていた男だった。


男が咲也を見る。


「高宮さん」


「お疲れさまです」

声をかけると、男も軽く頷いた。


「ヴェルナー様が中にいらっしゃいます」


「わかりました。

施錠の時間なので、声をかけてきますね」


「承知しました。こちらで待機しています」


咲也は男に軽く会釈して。


扉を開けた。


夜風が、頬を撫でる。


庭園内は静かだった。


足元を照らす低い照明。


花壇を淡く照らす灯り。


都心の夜空に見える星は、ほんの僅か。


風に揺れる葉が、かすかな音を立てている。

その先。


花壇の前に、一人の男が立っていた。


ルシアンだった。


いつものような笑顔はない。


ただ静かに。


薔薇を見つめている。


その視線の先にあるのは。


灯りに浮かぶ、薄茶色の薔薇。


咲也は足を止めた。


ルシアンの手元へ視線が落ちる。


小さなベルベットのケース。


開いた蓋から指輪がのぞいている。


淡い照明を受けた石が、目の前の薔薇とどこか似た色に見えた。


「ミスター・ヴェルナー」

声をかける。


ルシアンが振り返った。


手の中のケースを閉じる。


「サクヤ」


僅かに笑う。

けれど。


いつもの笑顔とは、どこか違った。

少し寂しそうな。


「そろそろ施錠の時間です」


「ああ」


ルシアンが空を見上げる。


「もうそんな時間か」


「はい」


「残念だな」


そう言って。


名残惜しそうに、もう一度、薔薇へ目を向ける。


咲也は少し迷ってから。


ルシアンの手元を見る。


「それ……指輪ですか」


ルシアンがケースへ目を落とした。


「ああ」


短い返事。


「婚約指輪だよ」


咲也の眉が僅かに上がる。


「……婚約?」


「うん」


ルシアンが咲也を見る。


「ずいぶん驚いた顔をするね」


「いえ」

咲也は少し言葉を選ぶ。


「失礼いたしました」

「あなたにそういうお相手がいるとは思わず」


「サクヤ」


ルシアンが眉を下げる。

「僕をなんだと思ってるの?」


「それは……」

少し考えて。


まるで挨拶でもするように、気になる相手を口説く男。


とは、本人を前に言いづらい。

言葉に悩んでいるのが伝わったのか。


「もう、ひどいなあ」

いつもの調子でルシアンが笑う。


けれど。


「まあ、だいたい君の考えてる通りさ」



ルシアンは少し肩をすくめた。



「僕、魅力的な人を見ると、つい声をかけたくなるからね」



「彼にも、随分軽い男だと思われてたのかもしれない」


少しだけ笑う。


「でも、彼だけは違ったんだ」


ルシアンは手元のケースへ目を落とした。


「ずっと一緒にいたいと思ってた」


ルシアンは再び薔薇を見る。


ケースを指先で転がしながら。


それから。


少しだけ笑った。


「七年前」

ぽつりと話す。


咲也は黙って聞く。


「渡すつもりだった」


ルシアンがケースを開く。


薄暗い照明の中。


指輪が小さく光った。


「でも」


一度、言葉を切る。


「渡せなかった」


咲也は指輪を見る。

「渡さなかったんですか」

ルシアンは首を横に振った。


「渡そうとした日に彼に振られた」


咲也は僅かに目を見開く。


ルシアンは何でもないことのように頷いて笑った。


ケースを閉じる。


風が吹く。


薔薇の花弁が、小さく揺れた。


「好きだったんですね」


「うん」


ルシアンは即答した。


その迷いのなさに。


咲也は僅かに目を見開く。


「ずっと。今もね」


笑う。


けれど。


やはり寂しそうだった。


ルシアンは薔薇を見る。

薄茶色の薔薇。


「この薔薇、ジュリアっていうんだ」


「ジュリア?」


「うん」


ルシアンが目を細める。


「派手じゃない」


「でも、なぜか目に留まる」


「見れば見るほど、綺麗だと思う」


「これを見ると、彼を思い出すんだ」


咲也は黙って薔薇を見る。


指輪の色と同じその薔薇。


咲也の中に。


ある人の姿が浮かぶ。


いつも静かに。

周りをよく見ている人。

決して目立つわけではないけれど、落ち着く安心感。


けれど。

咲也はその名を口にしなかった。


「……もう行きましょう」


時計を見る。


施錠時間を少し過ぎている。


ルシアンも頷いた。


「そうだね」


歩き出す。


けれど。


数歩進んだところで。


ルシアンが一度だけ振り返った。


ジュリア。


夜の中で。


淡い色の花が静かに揺れている。


ルシアンは。


手の中の小さなケースを握った。


そして。


何も言わず。


扉へと歩き出した。


咲也もその後を追った。


タイトルは『渡せなかった指輪』。

いつもとは少し違うルシアンのお話でした。

七年前から止まったままの想いが、少しだけ見えた回です。

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