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第114話 ウイスキーのロック

今回は、Bar Havenにやってきた中村さんのお話です。


夜。


Bar Haven。


仕事を終えた中村は、カウンターの隅でグラスを傾けていた。


一度、来てみようと思っていた店だった。


作業着を脱ぎ、私服のジャケットに袖を通した今は、仕事の緊張もすっかりほどけている。


そこへ、アルコールが心地よく沁みていく。


静かな音楽。


磨かれたグラス。


落ち着いた照明。


居心地は悪くない。


店主も、気のいい男だった。


グラスの底には、ウイスキーが僅かに残っている。


二杯目を頼もうか迷っていると、背後で扉が開いた。


「いらっしゃい」


店主が顔を上げる。


「あれ。圭ちゃん」


入ってきた男は、露骨に眉をひそめた。


「その呼び方はやめろ」


「いいじゃない。僕と圭ちゃんの仲じゃないの」


「よくない。あとその呼び方やめろ」


男はカウンターへ歩み寄る。


その視線が、さりげなく店内を見回した。


「湊は?」


「ん。今日は休み」


「そうか」


それだけ答えて、空いている席へ腰を下ろす。


店主がにやりと笑った。


「何。気になるの?」


「別に。気になってなんかいない」

男が視線を逸らす。

どことなく不貞腐れたような顔は年に似合わず子供っぽいが、微笑ましい。


「ふうん」


店主は楽しそうに男の顔を覗き込む。


「圭ちゃん、本当に分かりやすいよね。元警察官がそれってどうなの」


「うるさいぞ」


思わず。


中村の口から、くすくすと笑いが漏れた。


二人がこちらを見る。


「失礼」


中村は軽く頭を下げた。


「お二人が、ずいぶん仲がよさそうでしたので。つい」


「仲よくはない」


男は即座に否定する。


「いやあ、分かります?」


反対に店主が嬉しそうに笑った。


「僕ら、昔からツーカーの仲なんですよ」


「おい」


「もう。照れちゃって。

素直じゃないなあ」


「何がだ」


中村は再び笑った。


男はすっかり勢いを削がれたように、深いため息をつく。


「それで、何飲む?」


店主が尋ねる。


男は僅かに間を置いた。


「……ジュース」


「え? 何?」

店主が聞き返す。耳に手を当ててややオーバーアクション気味だった。あるいはわざとか。


「だから」


男は声を落とす。

気まずそうに横を向く。

「……リンゴジュース」


店主が目を瞬く。


それから、口元を緩めた。


「今日はそのままでいいんだ?」


店主は、ふと思い当たったように手を打つ。


「あ、そっか。今日は蒼井がいないから、格好つけなくてもいいのか」


「どういう意味だ」


「ウイスキーのロックってことにしなくていいんだって意味」


男の眉間に、深い皺が寄った。


「お前……」


「昔からそうだったよね」


店主は懐かしそうに笑う。


「下戸なのに見栄張っちゃってさ。

みんなで飲んだ時も、ウイスキーを飲んでる顔して、中身はリンゴジュースだったもんね」


「余計なことを言うな」


「この間も同じことしてたじゃない」


「おい」


「注文受けた時、笑いを堪えるの、大変だったんだから」


「蒼井に作らせたら大変なことになるから慌てて作ったよ。感謝してよね」


「お前……!」


「はいはい。ウイスキーのロックですよ」

店主が、氷を入れたロックグラスに、淡い琥珀色のリンゴジュースを注ぐ。


男は不機嫌そうな顔でそれを受け取った。


その姿に。


中村の口元から、また小さな笑いが零れる。


「いいですね」


二人の視線が向く。


「私にも、そんな友人がいましたよ」


「そうなんですか」


店主が興味を引かれたように、僅かに身を乗り出す。


「どんな方たちだったんです?」


中村はグラスの中を見つめた。


琥珀色の液体が、照明を受けて揺れている。


目を細める。


「一人は、やたらと人をからかうのが好きで」


「あら。なんだかシンパシー感じちゃうな」


「ええ。少しマスターと似ています」


言うと店主が微笑んだ。


「もう一人は、無愛想で頑固で」


「それは圭ちゃんだ」


「お前は黙ってろ」


男が低い声で言う。


それでも店主は、楽しそうな顔をしている。


中村も、つられるように笑った。


「三人そろって、よく馬鹿をやりました」


「懐かしいなあ」


ぽつりと零れた声は。


自分で思っていたよりも、ずっと柔らかかった。


「得難いものですよね。そういう友人は」


「だから、俺たちはそんなんじゃない」


男は頑なに否定する。


「照れなくていいのに」

店主がにやにやしながら言う。

「照れてない」


言い合う二人を、中村は黙って見つめた。


変わっていない。


二人とも。


驚くほどに。


その姿がひどく眩しくて、中村は目を細めた。


「では、私はそろそろ」


中村は残っていた酒を飲み干し、席を立った。


「あら、もうおかえりですか?」


残念そうに言う店主に。


「ええ。明日も早いので」


カウンターに代金を置く。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございます。また来てくださいね」


「ええ。ぜひ」


店主へ笑いかける。


その顔に。


懐かしさが滲んでしまっていなければいい。


そう思いながら、中村は店を出た。



店を出て、従業員用の出入口へ向かう。


人通りの途絶えた廊下へ差しかかった時。


背後に、人の気配を感じた。


「おい」


低い声が飛んでくる。


足を止め、振り返るより早く、襟元を掴まれた。


身体を引かれ、壁際へ押しつけられる。


目の前には。


先ほどまでカウンターに座っていた男がいた。


鋭い目が、中村を睨みつけている。


「ああ、先ほどの」


「お前、どういうつもりだ」


「……一体、何のことでしょう」


中村は穏やかな笑みを崩さなかった。


「しらを切るな。お前だろ」


襟元を掴む手に力がこもる。


しばらく。


中村は男の顔を見つめた。


やがて。


諦めたように、小さく息を吐く。


「参ったな」


口元に、薄い笑みが浮かぶ。


「早輝でさえ、気づかなかったのに」


男――橘圭介の目が、さらに険しくなる。


「それで、どうして分かったのかな?」


聞いても、圭介は答えない。


ただ黙って、目の前の中村を睨みつけている。


顔も。


声も。


体格も変えた。


それでも。


圭介だけは気づいた。


「厄介だね」


貫くようなその視線を受け止めながら、苦笑する。


「橘の『勘』ってやつなのかな」


「答えろ」

圭介の声が低くなる。


「ここで何をしている」


「別に何も」

言うや否や締め付ける力が強くなる。


軽く咳き込み、襟元を掴む手を二度叩く。


降参の合図だ。


ようやく、その力が緩んだ。


「もう、馬鹿力なんだから」


ほっと息をつき、口を開く。


「安心してよ」


壁に背を預けたまま、肩をすくめる。


「今の君の仕事には関係ないから」


「信用できると思うか」


「昔馴染みの言葉くらい、少しは信じてくれてもいいんじゃない?」


しかし、なおも圭介は襟元を放さない。


「何が目的だ」


僅かな沈黙。


それから。


薄く笑った。


「ちょっと、やり残したことを片づけてるだけ」


圭介の目が細くなる。


その目を、まっすぐに見返す。


「だから、もう少しだけ」


口元に、笑みを浮かべた。


「見逃してくれないかな。圭ちゃん」


「その呼び方はやめろ」


低い声が返ってくる。


――本当に、変わらないなあ。


思わず口元が緩む。


「でも、圭ちゃんの勘はすごいね。

まさかバレちゃうなんてね」


橘家の人間は、総じて勘が鋭い。


その中でも、圭介は別格だった。


この男だけは、騙せない。


けれど。


そんな圭介にも。


ただ一つ、見抜けなかったことがある。


それを知った時の圭介の顔は、今も忘れられない。


あれほど衝撃を受けるとは思わなかった。


けれど。


あの圭介にさえ、見抜かせなかったのだ。


思い返すと、少しだけ誇らしい。


口元が緩んだ。


「何がおかしい」


苛立つ圭介を見て、ほんの戯れのつもりで口を開いた。


「もしかして、私を見抜いたのは、勘というより」


怪訝そうに眉をひそめる圭介へ、ウインクを一つ。


「恋の力だったりして」


「は!?」


「何言ってるんだお前は!」


――おや、これは。


「あら、もしかして図星なの?」


「なっ……馬鹿、お前……!」


珍しく、言葉になっていない。


その拍子に、襟元を掴んでいた手が僅かに緩んだ。


「隙あり」


その手を振り払い、身体を翻す。


不意を突かれた圭介が、たたらを踏んだ。


圭介が顔を上げた時には、すでに手の届かないところまで離れている。



「またね。圭ちゃん」


「待て!」


こちらへ手を伸ばす圭介に、ひらひらと手を振り返す。


そのまま足早に廊下を進み、従業員用の出入口を抜ける。


思いがけない収穫だった。


少しだけ、気持ちが弾む。

「さて。明日もお仕事、頑張りますか」


夜風を受けながら、大きく伸びを一つした。





ウイスキーのロック。


その正体は、リンゴジュースでした。


そして、中村さんの正体は――。

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