第111話 選択肢
今回は、アストラスイートで少し真面目なお話です。
アストラスイートの前には、見慣れないスーツ姿の男が立っていた。
橘警備の人間だろう。
咲也に気づくと、軽く会釈する。
「高宮様ですね。伺っております」
「お疲れさまです」
咲也も会釈を返した。
男は扉へ片手を向ける。
「どうぞ」
咲也は扉の前に立ち、軽くノックした。
ほどなくして、ドアが開く。
「ようこそ、サクヤヒメ」
開口一番。
ルシアンが満面の笑みを向けてきた。
その隣で、黒崎が小さく笑っている。
「高宮さん、お疲れさまです」
咲也は軽く手を上げた。
「どうぞ。入ってください」
黒崎に招かれ、部屋へ足を踏み入れる。
広いリビング。
落ち着いた色調の家具。
大きな窓の向こうには、青山の夜景が広がっている。
その手前。
ダイニングテーブルには、三人分の前菜とパンが並べられていた。
水の入ったグラスと、ワインのボトル。
傍らには、銀色のクロッシュが並ぶワゴンが置かれている。
そのそばに控えていた顔馴染みのホテルスタッフと、軽く会釈を交わした。
「座って」
ルシアンが椅子を示す。
咲也が席につくと、ルシアンは向かいへ、黒崎はその隣へ腰を下ろした。
スタッフがルシアンと黒崎のグラスにワインを注ぐ。
それから、確認するように咲也へ視線を向けた。
咲也が小さく首を振ると、スタッフは静かに会釈した。
最後の確認を終え、一礼する。
「ごゆっくりお過ごしください」
スタッフが部屋を出ていく。
扉が閉まる。
途端に。
部屋の中が静かになった。
「食べながら話そう」
咲也は頷いた。
ルシアンがグラスを手に取る。
「乾杯」
「何にですか」
「サクヤヒメが、僕の元へ戻ってきてくれたことに」
「戻ってません」
冷たく返しても、ルシアンは気にした様子もなくグラスを掲げている。
「じゃあ、今日の素晴らしい食事に」
「それなら」
咲也も水のグラスを持ち上げた。
黒崎も笑いながら合わせる。
「乾杯」
グラスが小さく鳴った。
水を一口含み、料理に手をつける。
白い皿に薄く並べられた白身魚。
フォークで一切れ口に運ぶと、オリーブオイルと柑橘の香りが、口の中にふわりと広がる。
思わず、目を細めた。
さすが、うまい。
ホテルのシェフが腕によりを振るった料理だ。
「どう?」
ルシアンが聞く。
「美味しいです」
「そうだね。僕もここの料理は美味しくて好きだな」
ルシアンが目を細める。
美しい微笑みだった。
思わず見惚れてしまうほどの。
「……ありがとうございます」
ホテル側の人間として、自然と礼が口をついた。
「いやいや。礼を言うのは僕のほうだよ。料理も美味しいし、すっかりくつろがせてもらってる。ありがとう」
素直に感謝を述べられ、
なんだか調子が狂う。
普段はあれだけ遠慮なく距離を詰めてくるくせに、
今は、妙に紳士的に見える。
しばらく。
食事をしながら。
他愛のない話が続いた。
やがて、
ルシアンが、ふと思い出したように顔を上げる。
「そうだ」
ジャケットの内ポケットから、スマホを取り出した。
「ヒメ、これ」
画面を咲也へ向ける。
そこには。
見覚えのある姿が映っていた。
マウンドに立つ、自分。
「見たよ」
育成施設で投げた、あの一球。
黒崎に見せられた動画と同じものだ。
「素晴らしい投球だった」
「……ありがとうございます」
「思わず、待ち受けにしちゃった」
「それはやめてください」
思わず冷たい声が出た。
見れば、黒崎が肩を震わせている。
笑いを堪えているのだろうか。
咲也は内心、ため息をついた。
ルシアンはまったく気にした様子もなく、もう一度画面を見る。
「僕が予定を早めて日本に来たのは、これを見たからなんだよ」
言いながら、スマホの画面を指先で軽く叩く。
「びっくりしたよ。肩を壊して野球を辞めたと聞いていたのに」
「なのに、これを見たら」
そこで。
咲也を見る。
「肩を壊して辞めたなんて信じられなくなったよ」
その瞳は、すべてを見透かしているようだった。
咲也は目を逸らすことも忘れ、ただその青い瞳を見返した。
「しかも君、楽しそうに投げてるじゃないか」
その言葉に。
あの日の感覚が、鮮明に蘇った。
育成施設で。
プロを相手に、遠慮なく本気で投げた。
楽しくて。
思わず笑いそうになった。
それを。
動画越しに。
この男に見抜かれていた。
ルシアンはスマホを伏せる。
「今の君なら」
「口説いてもいいんじゃないかと思った」
「……もちろん、仕事でね」
黒崎を見て、肩をすくめる。
ルシアンは笑って。
それから、表情を改めた。
「昨日も言ったけど」
「僕は、君をコーチとして呼びたいわけじゃない」
咲也は黙って聞く。
「技術を教えるだけなら、優秀なコーチはいくらでもいる」
ルシアンは食事の手を止めた。
「僕が欲しいのは」
咲也をまっすぐ見つめる。
「君そのものなんだ」
――ん?
また口説かれているのか?
思わず眉をひそめると、黒崎が口を挟んだ。
「オーナー、しっかり説明してください」
ルシアンは笑って片手を上げる。
「ジュニアの施設でのこと、聞いたよ」
「伸び悩んでいた少年がいたそうだね」
「ああ……」
すぐに思い当たった。
何度投げても、身体から力が抜けなかった少年。
「君は練習を止めて、全員でキャッチボールを始めた」
「すると、空気が変わった」
「その少年の投球もね」
「……あれは、たまたまです」
「そうだね。たまたまだったのかもしれない」
ルシアンはあっさりと頷いた。
「でも、僕が面白いと思ったのはそこなんだ」
咲也は黙って聞く。
「今、僕が考えてるのは」
「引退した選手が、現役の選手に自分たちの経験を返す仕組みを作ること」
ルシアンは、言葉を探すように僅かに視線を上げた。
「選手たちとキャッチボールをしてほしい」
「キャッチボール?」
「そう。実際にボールを投げ合う」
ルシアンは微笑む。
「そして、言葉もね」
咲也は目を瞬いた。
「ボールを受け取って、相手へ返すように」
「選手の言葉を受け止めて、自分の経験から返せるものを返す」
「いきなり知らない専門家には話せなくても、同じ世界でやってきた人になら話せることってあるだろう?」
「海外から来た選手」
「若い選手」
「マイナーで結果が出ず、苦しんでいる選手」
「怪我やスランプで孤立している選手」
「彼らに、元選手だからこそできる形で関わってほしい」
「必要なら、そこから専門家やトレーナー、通訳、球団スタッフにつなぐ」
咲也はゆっくりと息を吐いた。
ようやく、話の輪郭が見えてきた。
「カウンセラーになるわけではないんですね」
「違う」
ルシアンは即答した。
「専門家の代わりをさせたいわけじゃない」
「ただ」
「そこへ辿り着くまでに、まず誰かがその言葉を受け止める必要がある」
咲也は視線を落とした。
七年前。
自分にも。
そういう相手がいた。
誰にも言えずにいた苦しみに。
気づいてくれた人。
もし。
あの時。
あの人が声をかけてくれなかったら。
そう考えると。
胸の奥が、僅かに重くなる。
「サクヤ」
ルシアンの声に、
咲也は顔を上げた。
「君は」
「日本からアメリカへ渡った」
「言葉も文化も違う場所で十三年やった」
「成功もした」
「失敗もした」
「怪我もした」
「そして」
「今は、まったく違う場所で働いてる」
ルシアンは微笑む。
「君は、成功談だけを語る元スターじゃない」
「栄光も挫折も知る、等身大の人間だ」
ルシアンはまっすぐ咲也を見る。
「だから、君が必要なんだ」
咲也は黙った。
黒崎も、
今は何も言わない。
窓の外では、
東京の夜景が静かに光っている。
「レオンたちも、同じように誘ってる」
ルシアンは話を続けた。
「まだ全員が正式に決まったわけじゃないけど」
「今回、試しに日本で動いてもらってる。育成施設も使いながらね」
「短い期間だけど、結構いい成果が出てる。思っていた以上に、形になりそうだ」
「だから、君たちにはチームを組んで、選手たちをサポートしてほしいんだ」
「そして、サクヤ」
「君には、その中心で動いてほしい」
咲也の脳裏に、
青空の下で笑うレオンたちの顔が浮かぶ。
あの時間を思えば、確かに。
「……面白そうですね」
気づけば。
言葉が出ていた。
ルシアンの顔がぱっと明るくなる。
「でしょ?」
「だからといって受けるかどうかは別の話です」
「分かってる」
「でもね」
「今の顔は、絶対ちょっと揺れた」
咲也は答えない。
黒崎が小さく笑った。
「叔父さん、追い込みすぎると逆効果ですよ」
「分かってるよ」
ルシアンは肩をすくめる。
「だから」
「今日、返事はいらない」
少し意外だった。
「いいんですか」
「もちろん」
ルシアンは微笑む。
「仕事の方向性は決まってる」
「でも、まだ正式なポジション名がない」
咲也が目を瞬く。
ルシアンがウインクする。
「既存のポストに君を入れたいわけじゃないからね」
黒崎が補足する。
「高宮さんたちが動ける枠を作ろうとしてるんです」
「それは」
咲也は眉を寄せる。
「随分、大掛かりな話じゃないか」
黒崎が笑う。
「まあ、それだけ期待してるってことでしょ」
ルシアンも楽しそうに笑った。
二人を見ながら、
咲也は小さく息を吐く。
コーチの話なら、断れた。
あの時は、迷いながらも。
自分の中で答えを出せた。
プロの世界には戻らない。
そう決めた。
なのに。
今回は、どうしてこんなに引っかかるのだろう。
咲也はグラスの水を一口飲んだ。
興味を覚えたことは、否定できない。
けれど。
それが、アメリカへ戻る理由になるのか。
答えは、まだ出なかった。
タイトルは『選択肢』。
まだ答えは出ていませんが、少しだけ輪郭が見えてきました。




