第110話 痕跡
今回は、仕事を終えた咲也のお話です。
次の約束へ向かう前の、少しだけ静かな時間です。
勤務を終えた夕方。
咲也はロッカーの前に立ち、ネクタイを緩めた。
その瞬間。
張りつめていたものまで、ふっと緩む。
途端に、昨夜からの疲れが一気に押し寄せ、手足まで重くなった。
小さく息を吐く。
ゆっくりとシャツの襟元へ指をかける。
そこで。
ふと。
手が止まった。
「……あ」
さっと血の気が引く。
「……しまった」
――首、だ。
数日前。
湊につけられた痕。
今朝、確認するのをすっかり忘れていた。
気づかずそのまま、勤務していた。
咲也は慌ててロッカーの鏡を覗き込んだ。
襟元を広げる。
左の首筋。
赤みが残っていた場所。
凝視するが、何もない。
綺麗に消えている。
「……よかった」
思わず、息が漏れる。
今朝はとても眠くて。
完全に頭から抜け落ちていた。
咲也はもう一度、鏡を見る。
いつもの首筋。
これでもう、気にしなくていい。
なのに。
ほんの少しだけ、寂しい。
咲也は眉を寄せた。
――いや。
なんで寂しいんだよ。
見られたらどうしようと、散々気にしていたのに。
消えてしまえば、今度は物足りない。
そんなふうに思うなんて。
「……参ったな」
咲也は小さく息を吐いた。
それから。
重い身体を引きずるように、ゆっくりと私服に着替え、襟元を整える。
今日はこれから。
ルシアンと食事だ。
仕事の話を聞くことになっている。
昨夜。
湊に言われた言葉が、不意に蘇った。
――高宮さんがアメリカへ行くなら。
――僕も行きます。
まっすぐな瞳を思い出して、
顔が熱くなる。
思わず、咲也は鏡から視線を逸らした。
そして。
ロッカーを閉めた。
時計を見る。
約束の時間まで、あと少し。
咲也は両手で頬を軽く叩き、ひとつ息を吐いた。
「……行くか」
言い聞かせるように呟き、更衣室を後にした。
タイトルは『痕跡』。
消えたものと、まだ残っているもののお話でした。




