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第107話 それだけです

今回は、深夜の咲也と湊のお話です。



深夜。


リビングには、間接照明だけが点いていた。


咲也はソファに座り、手にしたグラスをぼんやり眺めていた。


中身は、ほんの少し。


帰ってから注いだウイスキーは、ほとんど減っていない。


飲みたいというより。


何かを手にしていたかっただけなのかもしれない。


シャワーを浴びて。


一度はベッドにも入った。


けれど。


目を閉じると、どうしてもルシアンの言葉が浮かんだ。


――アメリカに来ないか。


それだけのシンプルな言葉。


まだ何も分からない。


それでも。


あの一言だけで。


ずいぶん昔のことまで思い出した。


咲也はグラスに少しだけ口をつけて。


ローテーブルに置いた。


時計を見る。


午前二時半を少し回ったところだった。


いつもなら。

とっくに眠っている時間だ。


玄関の方で、小さく音がした。


鍵が開く。


やがて。


リビングに湊が姿を見せる。


咲也は顔を上げた。


「おかえり」


湊は、目を見開いた。


「まだ起きてたんですか」


咲也は苦笑する。


「なんだか、寝つけなくてね」


湊の視線がテーブルへ落ちる。


「飲んでたんですか」


「少しだけだよ」


グラスを持ち上げて見せる。

「飯食うか?」


「いえ。先にシャワー浴びてきます」


「ああ」


「眠れそうだったら眠ってくださいね。

食べたら片付けますので、グラスはそのままでいいですよ」


「ありがとう」


湊は一度だけ咲也を見て。


そのまま浴室へ向かった。


しばらくして。


部屋着に着替えた湊が、タオルで髪を拭きながら戻ってくる。


間接照明の中、濡れた髪から覗く額や首筋がやけに目についた。

風呂上がりの無防備さも相まって、妙に色っぽい。


ハッと我に返り、咲也は慌てて視線を逸らした。


「眠れませんでしたか」

湊が咲也を見て困ったように笑う。


「ああ」

咲也も苦笑いで応える。


湊は少し迷ったあと、

咲也の隣に腰を下ろした。


石鹸の匂いが鼻腔をくすぐる。


「高宮さん」


「ん?」


咲也はグラスから手を離した。


「今日、ミスター・ヴェルナーがしていた話なんですが」


「うん」


湊は前を向いたまま、口を開いた。

「アメリカへ行くって話」


「まだ行くって決めたわけじゃないよ」

咲也がやんわりと言う。


「分かってます」

静かな返事だった。


「話を聞くだけだよ」


「はい」


沈黙が落ちる。


咲也は横目で湊を見る。


いつもの顔。


穏やかな表情だった。


けれど。


バーで一瞬だけ止まった手を思い出す。


「蒼井くん」


「はい」


「気になるか?」


湊はすぐには答えなかった。


やがて、小さく息を吐く。


「それは、気になりますよ」


咲也は少しだけ目を細める。


「でも」


湊が続ける。


「行かないでくださいとは、言いません」


咲也が湊を見る。


「高宮さんが決めることですから」


いつもの。

静かな声。


「やりたいと思うなら」


「その方がいいと思います」


「……そうか」


咲也は何も言えなかった。


予想していたより、ずいぶんあっさりとした答えだった。


ただ、湊らしくもあった。


人の気持ちを優先する優しさが彼らしい。


それなのに、なぜだろう。


胸にぽっかりと穴が空いたような。


残念なような。

寂しいような。


まさか、『行くな』とでも言って欲しかったのだろうか。


内心の戸惑いをよそに、

湊は続けた。


「だから、もし」


言葉を選ぶように。

ゆっくりと続ける。


「高宮さんがアメリカへ行くなら」


そこで。

咲也を見る。


「僕も行きます」


咲也は瞬きをした。


「……は?」


思わず素の声が出る。


湊は真顔だった。


「いや、ちょっと待て」

咲也は身体ごと湊へ向く。


「君、仕事は」


「向こうで探します」


「そんな簡単に言うなよ」


「簡単じゃないです。覚悟してます」


「言葉だって」


「勉強します」


「生活だって、がらりと変わる――」


「分かってます」


湊は静かに遮った。


咲也が言葉を止める。


「分かった上で言ってます」


湊の目は逸れなかった。


「高宮さんが行きたいと思うなら」


「僕のことを理由に、諦めてほしくないです」


「そして僕も咲也さんを諦めたくないので、ついていく。それだけです」


咲也は黙った。


そんなことまで。

考えていたのか。


まだ。

自分だって何も決めていないのに。


「……蒼井くん」


「はい」


「君、本気か?」


「はい」


その目は真っ直ぐだった。


咲也は思わず額を押さえる。


「参ったな」


「困りますか」


「困るっていうか」


少し考える。


「驚いている」

「君がそんな風に考えてくれていたなんて」


正直に言うと、


湊が僅かに笑った。


「僕も、悩みましたよ」


「でも、高宮さんのいない生活なんて、もう考えられないので」

「答えは、自然と出てました」


鼓動が跳ねた。


咲也はたまらず俯く。


不意打ちもいいところだ。


そんな言葉を、真正面から向けられるとは思わなかった。


顔が熱い。


とてもじゃないが、じっとしていられない。


咲也は思わず立ち上がった。


「腹減ったろう。飯あっためるよ」

我ながら、呆れるくらい上擦った声だった。


湊が驚いたように声を上げる。

「いや、もう寝てください。

明日仕事でしょう?」


「いいからいいから」


誤魔化すようにキッチンへ向かおうとしたところで、後ろから腕を掴まれた。


ぐい、と引き戻される。


背中が湊の胸に触れ、そのまま両腕で抱き込まれた。


「咲也さん?」


横から顔を覗き込まれる。


「……もしかして、顔真っ赤ですか?」


「いや、これは違うからっ。

ちょっと離れてくれないか。近すぎるからっ」


「無理です」


耳元で、湊が笑う気配がした。


「僕の咲也さんが、可愛すぎるので」


首筋に触れる甘い吐息に、目眩がしそうになる。


そこで、はたと気づく。


――ちょっと待て。


――さらりと今、なんて言った?


「か、可愛いって……!」


思わず口にして、自分で絶句する。


顔の火照りが引かない。


むしろ、余計に熱くなった。


――しかも僕のって……!


瞬間、頭が真っ白になる。


あまりの羞恥に身をよじるが、湊の腕はびくともしない。


その細い身体の、どこにそんな力があるのか。


思えば、一緒に眠るようになるまでにも、何度、湊に力負けしたことか。


今回も同じだと悟り、咲也は力を抜いた。


それでも、自分の鼓動はまだうるさいほどに速い。


けれど。


とくん、とくんと。


背中越しに伝わってくる湊の鼓動は、穏やかだった。


湊の匂いと、全身を包む温もりも相まって、その規則正しいリズムが妙に心地よくて。


気がつけば、瞼が重くなっていた。



咲也と湊のイチャイチャが書けて、作者も楽しかったです。

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